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おじさんや父親への差別は、なぜ公然となされるのだろうか

2020年06月20日 | 修養
 世の中に差別といじめがなくなった時と場所は、それほど多くはない。

 これは、50年以上生きてきて、そう思う。

 歴史的にみてもそうである。

 神話の世界であっても、すでにいじめは描写してある。

 いじめや差別はなくならない(だろう)。

 主にそれは、劣等感や愛情不足に起因するからである。

 もう一度言う。

 いじめや差別は無くなることはない(だろう)。

 だからこそ、なくそうとする努力は重要である。

 もちろん、いじめも差別もない時と場所があるのも事実である。

 しかし、それは割合としては多くない。限定的である。

 劣等感や愛情不足から解放され、感謝と利他の精神で生きている人の周りでは、いじめも差別もないかもしれない。

 そういう人を知っている。

 自分も憧れる。そうありたいと思う。


 以前、ディスるコマーシャルの製品には関わらない。

 というブログを書いた。

 父親を蔑むラジオCMについて書いたブログである。

 
 おなじように、おじさんについても「ディスる」CMを最近みた。
 
 グリコ「アイスの実」新テレビCM「ひやとろリフレッシュ!」篇である。

 若い女性が、自分と同じ柄を着ているおじさんをみて、「モヤッとする」そうである。

 CMをみた時、おじさんである私自身は「モヤッ」とした。

 よくあるシチュエーションであり、共感を呼ぶと思って作成されたのだろうが、「モヤッ」とするものはしょうがない。

 おじさんへの差別だろう。

 このおじさん(またはこのおじさんをこよなく愛する家族)の立場に立ってこのCMをみたら。きっと不快になるだろう。

 おじさんのひがみと言われればそれまでだが・・・。

 「おじさんや父親への差別は、なぜ公然となされるのだろうか」と思うことが多い。
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