今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「私は病気したことがないというと健康と思われるが、程度の低いところの健康で、それでも健康のうちだから
病気のことは全く知らない。これに反して妻は名のある病気はたいていわずらって、最後にガンである。二十年前
早く発見したあと何事もなかったのが仇になって、今度は発見がおくれて骨にきたのである。それも随所にきた。
健康なものには死んで行くものの気持は分らない。気休めは言ってもらいたくない。病は気からなんて中曽根さん
もついうっかり言ったのだろうから腹もたたないが、慰めの言葉なんてみんなこんなものだから、病気の話はいっさい
しないと妻は決心してしなくなった。」
「妻は病気のベテランで薬についてくわしいのはかえって不幸だと当人も私も思っている。ことに医者は患者が病気に
また薬に明るいのを喜ばない。今は少くなったが以前はあれを打ってくれこれを注射してくれと流行の薬の名をあげて
言う患者がいた。何を打つかきめるのは医者である。患者ではない。むろん妻はそんなことは言わないが、薬の名の
たいていをそらんじている。知っていることは不幸だと知らない私は思うが今さら無知になれるものではない。一夜に
して白髪になるような劇薬はのみたくない。しばらく抗ガン剤を服用しているうち、どうせ効かないのなら丸山ワクチン
にしたいと言いだした。何より副作用がない。それに一縷の望みがある。
健康な人ならみんなキライだと妻はある時ふと漏らしたことがある。さもあろうと私は同感したが、私もその健康な
ほうに属しているのだからめったなことは言えない。私は半ば死んだ人と暮しているのである。さりとて”おらが女房を
ほめるじゃないが、ままを炊いたり水しごと――家事はまだできるのである。できる間はついうかと亭主である私は妻を
並の人として使うのである。ただ重いものは持たせないでくれと主治医に言われているので掃除だけは私がする。ふとん
のあげおろし、雨戸のあけたても私がする。
けれども朝は私がしても、夜帰れば床はとってあるのだから形ばかりである。ただ雨戸だけは一枚あけるだけにして
くれと言われた。全部あけられると夕方しめるに難渋するようになったのである。こうして秋がきて冬がくると、生垣の
まばらなすきまから空地をへだてて出勤する私のうしろ姿が遠く見える。雨戸一枚あいたなかから手をふって、あるいは
これが見おさめかと思うのだという。
つとに私たちは核家族である。子供たちはとうの昔この家を去って二人しかいない。使わない部屋は物置になるという
ことを私は次第に発見した。」
「私は妻が何を言ってもつとめて笑って答えることにした。二人一緒に失望落胆するよりよかろうと思うだけで、それは
妻にも分らないではないが、時には何を笑うかとむっとすることがないではない。それは私の笑い声のなかに、死ぬこと
なんぞ考えないものの響きがあるからだろうと私は察するが、それは如何ともできない。
ある日妻は突然号泣した。死にたしという、死にたからむ、生きたしという、生きたからむ。」
「いま妻は頼んでこの病院の七階に入院中である。私は夕方事務所の帰りに見舞っている。たまたま病院のまん前は根津
権現のま裏で、何日も祭りが続いている。帰りがけに振返ると日はすでにとっぷり暮れている。七階の窓で豆粒大と化した
人影がちぎれるばかり手を振っている。私は二つ並んだ公衆電話のボックスにかけより、その灯かげの下で背のびして同じ
く手を振って答える。さながら『一太郎やあーい』である。」
「医師は免許をもったからといって死ぬまで医師であることはアメリカではない。再び三たび試験を受けて免許を更新する
と聞いた。当然のことでありながらわが国では行われていないことである。
私は妻の病気につきあって少しく疲労困憊したが、おかげでわが国の医療の世界をかいま見て得るところがあった。」
(山本夏彦著「冷暖房ナシ」文春文庫 所収)
「妻が入退院を繰返すようになって以来、私は時々誰もいない自宅に電話するようになった。電話ぐちに誰か出やしまいかと、
それは息づまるような一瞬である。茶の間の電話は長く空しく高鳴っている。誰も出ないことに安堵して、私はのろのろと
帰途につくのである。」
(山本夏彦著「美しければすべてよし」-夏彦の写真コラム-新潮文庫 所収)
「私は病気したことがないというと健康と思われるが、程度の低いところの健康で、それでも健康のうちだから
病気のことは全く知らない。これに反して妻は名のある病気はたいていわずらって、最後にガンである。二十年前
早く発見したあと何事もなかったのが仇になって、今度は発見がおくれて骨にきたのである。それも随所にきた。
健康なものには死んで行くものの気持は分らない。気休めは言ってもらいたくない。病は気からなんて中曽根さん
もついうっかり言ったのだろうから腹もたたないが、慰めの言葉なんてみんなこんなものだから、病気の話はいっさい
しないと妻は決心してしなくなった。」
「妻は病気のベテランで薬についてくわしいのはかえって不幸だと当人も私も思っている。ことに医者は患者が病気に
また薬に明るいのを喜ばない。今は少くなったが以前はあれを打ってくれこれを注射してくれと流行の薬の名をあげて
言う患者がいた。何を打つかきめるのは医者である。患者ではない。むろん妻はそんなことは言わないが、薬の名の
たいていをそらんじている。知っていることは不幸だと知らない私は思うが今さら無知になれるものではない。一夜に
して白髪になるような劇薬はのみたくない。しばらく抗ガン剤を服用しているうち、どうせ効かないのなら丸山ワクチン
にしたいと言いだした。何より副作用がない。それに一縷の望みがある。
健康な人ならみんなキライだと妻はある時ふと漏らしたことがある。さもあろうと私は同感したが、私もその健康な
ほうに属しているのだからめったなことは言えない。私は半ば死んだ人と暮しているのである。さりとて”おらが女房を
ほめるじゃないが、ままを炊いたり水しごと――家事はまだできるのである。できる間はついうかと亭主である私は妻を
並の人として使うのである。ただ重いものは持たせないでくれと主治医に言われているので掃除だけは私がする。ふとん
のあげおろし、雨戸のあけたても私がする。
けれども朝は私がしても、夜帰れば床はとってあるのだから形ばかりである。ただ雨戸だけは一枚あけるだけにして
くれと言われた。全部あけられると夕方しめるに難渋するようになったのである。こうして秋がきて冬がくると、生垣の
まばらなすきまから空地をへだてて出勤する私のうしろ姿が遠く見える。雨戸一枚あいたなかから手をふって、あるいは
これが見おさめかと思うのだという。
つとに私たちは核家族である。子供たちはとうの昔この家を去って二人しかいない。使わない部屋は物置になるという
ことを私は次第に発見した。」
「私は妻が何を言ってもつとめて笑って答えることにした。二人一緒に失望落胆するよりよかろうと思うだけで、それは
妻にも分らないではないが、時には何を笑うかとむっとすることがないではない。それは私の笑い声のなかに、死ぬこと
なんぞ考えないものの響きがあるからだろうと私は察するが、それは如何ともできない。
ある日妻は突然号泣した。死にたしという、死にたからむ、生きたしという、生きたからむ。」
「いま妻は頼んでこの病院の七階に入院中である。私は夕方事務所の帰りに見舞っている。たまたま病院のまん前は根津
権現のま裏で、何日も祭りが続いている。帰りがけに振返ると日はすでにとっぷり暮れている。七階の窓で豆粒大と化した
人影がちぎれるばかり手を振っている。私は二つ並んだ公衆電話のボックスにかけより、その灯かげの下で背のびして同じ
く手を振って答える。さながら『一太郎やあーい』である。」
「医師は免許をもったからといって死ぬまで医師であることはアメリカではない。再び三たび試験を受けて免許を更新する
と聞いた。当然のことでありながらわが国では行われていないことである。
私は妻の病気につきあって少しく疲労困憊したが、おかげでわが国の医療の世界をかいま見て得るところがあった。」
(山本夏彦著「冷暖房ナシ」文春文庫 所収)
「妻が入退院を繰返すようになって以来、私は時々誰もいない自宅に電話するようになった。電話ぐちに誰か出やしまいかと、
それは息づまるような一瞬である。茶の間の電話は長く空しく高鳴っている。誰も出ないことに安堵して、私はのろのろと
帰途につくのである。」
(山本夏彦著「美しければすべてよし」-夏彦の写真コラム-新潮文庫 所収)
