今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「アインシュタインはその晩年、もし生れかわれるものなら来世はブリキ屋か行商人になりたいと言ったという。
一九四五年、アメリカが原爆の製造を急いだのは、ドイツに先んじられやしまいかとただただそれを恐れたため
である。アインシュタインはその製造を急げと、当時の大統領に進言していれられた。
アメリカが原爆実験に成功したのは昭和二十年七月十六日、それを広島に投下したのは同八月六日である。
これよりさき五月七日、ドイツは降服している。だから原爆を落す目標はこの時すでになくなっていたのである。
それなのに広島に落したと聞いて、アインシュタインは『しまった』とほとんどうめいたという。のちに
『ラッセル・アインシュタイン宣言』を発表した所以である。
湯川秀樹はこの宣言に和して、核兵器を人類を滅ぼす絶対悪だとしながら、その絶対悪に手をかして成功した
科学者としての喜びを何度か別のところでもらしている。その後輩である武谷三男は、原爆のおかげで天皇制下
の軍部が解体したのだからめでたいと書いている。
それにひきかえ朝永振一郎は、目前の人類の破滅をどう防いだらいいか、はたしてそれは可能かと己が死の直前
まで語りかつ書いている。
――右は唐木順三の遺著『「科学者の社会的責任について」の覚え書』の主旨である。唐木は朝永を尊敬して湯川を
ほとんど糾弾している。私は唐木に従って朝永説も読んでみたが、救いを発見することはできなかった。
有史以来この地上に人類みたいに栄えた動物はない。図体の大きい太古の怪獣は、一時は全地球を覆うほど栄えた
が、その大きいことによって滅びた。新たに登場したちっぽけな哺乳類がすばしこく立回って、その卵をみな食べて
しまったからだという。
私たちは昔あんなに栄えたスペインが滅びるのを見た。近ごろイギリスが衰えるのを見る。アメリカの様子も昨今
へんである。俗に年貢の納めどきという。区々たる栄枯でなく、人類は今その年貢の納めどきに達したのである。
人は知恵によって栄えたのだから、知恵によって滅びるのである。」
(山本夏彦著「やぶから棒」-夏彦の写真コラム-新潮文庫 所収)