「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

生涯の苦楽会社による 2005・10・07

2005-10-07 06:00:00 | Weblog
  今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。


 「人生婦人の身となるなかれ、百年の苦楽他人による――という言葉を、私は会社員にあてはめてみることがある。会社員

 の生涯はうっかりはいった会社次第で、百年の禍福会社によるからである。

  昭和初年『満鉄』に入社したものは、一家をあげて喜んだことだろう。その満鉄は戦後あとかたもない。昭和二十何年

 石炭会社に採用されたものも、同じく喜んだことだろう。そのころ石炭は黒ダイヤと呼ばれていた。

  いま栄えているものが、いつまでも栄えると思うのは人間の常である。山陽特殊鋼、興人、安宅産業などに勇んで入社

 した若者たちは今どうしていることだろう。

  弱年のころ私は、会社員にだけはなるまいぞと心にかたくちかった。それならひと旗あげなければならない。ひと旗

 あげるというのは自分で商売することで、明治時代ならいざしらず昭和十年代にひと旗あげるのはすでに時代錯誤である

 こと今日のごとくであった。

  それでも私は会社員にならないで、ちっぽけな会社を経営して三十年になる。三十年といえばほぼ人の一生で、これだけ

 続いたのだからこれからも続くだろうと思うのが人情なのに、私は思わない。

  私と共に世間にデビューした同時代の友は、あるものは大会社の部長であり大新聞の幹部であり、会えば貴君は一国一城

 のあるじでうらやましいと言うが、本気で言ってないことはその顔を見れば分る。明日をも知れぬ会社をよくやっているなあ

 と、目にあわれみの色がある。

  生涯の苦楽会社によるのに、なお若者が大会社の社員になりたがるのは、個人がひと旗あげる時代は遠く去ったからで

 ある。『個人』の時代が去って『法人』の時代になったことを知るからである。それかあらぬかよしんば初任給二十万円

 くれても、ギョーザチェーン『王将』には学生を推さないと、さる大学の就職課長が言っていた。」

  「ある朝出勤したら会社はつぶれていたとよく聞くが、これは社員がその日まで会社を疑っていなかった証拠で、その

 極端な例が大日本帝国である。

  昭和十九年七月サイパンがおちて、東京は米空軍の爆撃圏内にはいった。これで万事休したのに軍人や役人はそうは

 思わなかった。ばかりかそう思うものを逮捕した。そしてこのごに及んで、なお少将は中将に、課長は部長になりた

 がった。」

  
  (山本夏彦著「やぶから棒」-夏彦の写真コラム-新潮文庫 所収)






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする