今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「昭和十二年の南京大虐殺は、本当はなかったことだと私は承知している。あったとしても正規軍と便衣隊
あわせて五千人か一万人で、東京裁判の十二万人なんて数字は白髪三千丈のたぐいだと思っている。それは
鈴木明氏の『南京大虐殺のまぼろし』山本七平氏の『私の中の日本軍』(共に文藝春秋)に明らかである。
鈴木氏の本は第四回『大宅ノンフィクション賞』を受賞している。
当時南京の住民は二十万そこそこだったという。すでに陥落したのにその住民の過半を殺すとはあり得ない
ことである。いわんや人口を上回る三十万人なんて第一勘定があわない。
南京入城の直後、新聞はわが軍の兵が往来で物売る住民と談笑する写真、また子供たちと遊ぶ写真を示した。
これらが皆ウソだったのか。それならいま昭和五十九年現在毎日掲げている写真もウソか。
昭和十二年は都市にはまだネオンが輝き物資はあふれている時代だった。南京にはわが特派員とカメラマン
が二百人以上いて兵と争って入城した。その多くはまだ存命である。
それなのに朝日新聞はこのごろ、再び三たび南京には大虐殺があったと書きだした。よしんば多少の殺戮が
あってもなかったというのがその国の国民である。英国人はアフリカでエジプトで、その国の首長に懇望された
から統治したと自国の小学生に教えているという。他国人には笑止だが健康というものは常にこんなもので、
だから私は健康をほとんど憎んでいるがそれは別の話だ。
ありもしない殺戮をあったと言いはるのは不思議な情熱で、それは中国に対する迎合だと以前私は書いた。
多く殺されれば殺されるほど中国人は喜ぶと察した上での世辞である。日本軍は生体解剖をした。毒ガスを
つかったと今ごろ書くのも同じ料簡からである。
新聞は読者にこれを良心的だと思わせる。読者はタダで良心的になれるのだから喜んでなる。私はこれを
『良心的という名のウソ』と呼んでいる。世に良心を売物にするほど恥ずべきことはないと小学生のころから
教えなければならないのに、わが『日教組』は反対を教えて三十余年になる。」
(山本夏彦著「美しければすべてよし」-夏彦の写真コラム-新潮文庫 所収)