今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「 人は自分のノドまで出かかった言葉を言ってもらうととびあがって喜びます。ついには自分が言った
ような気になって、受売りしているうち自分の言葉になります。肚の底で思ってはいたが気がつかな
かったことを言ってもらうと大喜びします。思ってもいなかったことを言われると、人は狂喜する者
と、立腹する者のふた派に分れます。まっすぐ人間はたいてい立腹します。
たとえば私は話しあいという言葉をほとんど憎んでいると言うと、聞き手は立腹します。四十年学
校で教わってきたことをくつがえされるのですから、怒るのはもっともです。怪しいことを言う、言
いぶんを聞いてやろうと言う人は多くありません。
北朝鮮と韓国は話しあいできません。南京大虐殺があったという派と、なかったという派は話しあ
いできません。互に証拠を出しあっても聞く耳もちません。論より証拠と言いますが、証拠より論で
す。
老人のいない家庭は家庭ではないと、むかし私は何度も書きました。これだけなら分ります。こう
言えば老人は喜ぶ、若い者はイヤな顔をする、けれども今の老人は老人ではない、若者に迎合して口
まねをする。こんな年寄と同棲しても若者は得るところがない、追い出されるのはもっともだ、云々。
このとき私は忠告されました。貴君は何が言いたいのか。こんな不愉快な文章見たことがないとも
言われました。すなわち私はまっすぐな人の敵なのです。」
(山本夏彦著「世は〆切」文春文庫 所収)