今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「 谷川徹三は年九十になってもまだ老人になれないと以前述懐したことがある。漱石が死んだ
のは大正五年数え五十のとき、鷗外は大正十一年数え六十一のときである。谷川よりはるかに
若く死んだが、すでに老成していた。
芥川龍之介は漱石の葬式のとき受付にいて、弔問客のなかに神采奕々(しんさいえきえき)と
あたりを払う人がいるのを見て、誰かと問うて森鷗外だと聞かされてさもありなんと思ったと
いう。
なぜ谷川徹三は彼らのような老人になれないかというと、彼らは幼いときから漢籍の素読を
受けていた。彼らは漢詩文を自由に読み且つ書くことができた。谷川はできない。谷川も素読
を受けてはいるが、頼山陽の『日本外史』である。それに漢文の時代はすでに去っている。子
供心にもそれが分るから身につかない。また山陽の漢文は和製漢文だと漱石は山陽を避けて徂
徠を学んだ。ここに若い漱石の見識を見ることができる。
漱石の英文学の衣鉢を継ぐ弟子はあっても、漢詩文のそれを継いだものは一人もない。した
がって漱石の漢詩文はながい間黙殺されていたが、一流中の一流だそうである。なん十年か
たって吉川幸次郎が折紙をつけた。」
「 大正デモクラシーは大は儒教から小は口上、挨拶まで亡ぼした。俗に断
絶というがそれは明治にはじまって、いま完了したところである。私たちの父祖は
東洋の古典を捨てて西洋の古典を得ればいいと勘ちがいして、その両方を失ったのである。
今後とも私たちは谷川のように年をとれなくなったのである。
魯迅は『にせ毛唐』といったが、日本の男は全員にせ毛唐になったのである。こ
れまで女はからくも日本の女だったが、教育が普及すると共に男と同様にせ毛唐になった。
西洋人は仲間だと思っていないのに、自分は仲間だと思って永遠にあなどられるようになっ
たのである。」
(山本夏彦著「愚図の大いそがし」文春文庫 所収)