「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

まねてまねてまねてごらん 2005・09・20

2005-09-20 06:05:00 | Weblog

 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から書き留めた寸言をいくつか。

 「 大人たちは皆あたりを顧みて他を言う 。」

 「 大人の目には見えないことが少年の目には見えることがある 。」

 「 人は現在盛んな人を取巻く 。」

 「 まねてまねてまねてごらん 。そしたら独創に通じるでしょう 。
  通じなければ自分はそれだけの存在なのです 。」

 「 嫉妬は常に正義に変装してあらわれるから 、正義と聞いたら
  用心したほうがいい 。」

 「 この浮世には出来たことは出来ない昔に返らないという鉄則がある 。」


   ( 山本夏彦著「 おじゃま虫 」中公文庫 所収 )



 「 満つれば欠くると古人は言っている 。物が盛んなときは衰えるときである 。」

 「 人はみなアプリオリにけちである 。」

 「 文化はきれいなばかりではない 。悪と毒の隣にある 。」

 「 恋と化物は同じで 、そのうわさはしきりに聞くが実物は絶えて見ない 。」

   ( 山本夏彦著「 恋に似たもの 」文春文庫 所収 )



 「 およそ劣等感のない人間なんて人間ではないと私は思っている 。」

   ( 山本夏彦著「 やぶから棒 」- 夏彦の写真コラム - 新潮文庫 所収 )




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現美人ともと美人 2005・09・19

2005-09-19 05:55:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「私は人間とそれに準ずるものにしか興味をもたない。俗に景を叙して情を述べるというが、私が景を叙すのは情を

 述べるためで、人事に関しない景色なら私は見ない。見れども見えない。その代り人間なら老若男女どんな人でも見る。

 それに準ずる禽獣も、人間と同じレベルで見る。どんな美人も例外ではない。むろん美人として注目するが、べつに

 老若男女の一員として、また禽獣の一員としても見る。

  その目で見ると美人は、現美人ともと美人に分れる。もと美人たちは残念に思っている。もと美人には、若いときは

 さぞかしと察しられる美人と、察しられない美人とがある。顔だちがよかったり姿がよかったりすることによって美人

 だったひとは、二十年たってもその面影があるから、周囲がそれを言ってくれる。

  言われて改めて見れば、いかにもそうだったろうと若者たちにも思われて、うなずくものがあるからもと美人は満足

 するのである。いっぽう今は全くその痕跡をとどめない美人は、水分によって美人だったひとで、このたぐいは水分が

 蒸発してしまうと美人だった面影をとどめない。

  自分がもと美人だったことは、他人が言ってくれて自分が打消して、はじめて体裁がととのうのである。水もしたたる

 というから水分といったが、ホルモンといってもいい。ホルモンがみなぎって、あふれて、美しいひとがある。それは

 男にも女にもあるが、ながくは続かない。せいぜい四、五年である。昭和五十四年現在、私たちはそれを大竹しのぶと

 いう女優に見る。彼女はぴかぴか輝いている。

  以下は一般論で、大竹嬢のことではない。ホルモンによる美人は、その輝きが去ると、、もうだれも彼女が美人だった

 ことを知らない。知っているものは言ってくれない。言っても誰も信じないから言わないのに、意地悪して言ってくれない

 と彼女は思う。たいていの女は、それを忘れようとして忘れるが、忘れかねて若いときの写真をいつも胸に秘蔵している

 老女がある。機会をうかがって見せるのである。見せられた客は、実物と見くらべてあっけにとられ、あとで仲間とざん

 こくな笑いを笑う。けれども、彼女は女のなかの女なのである。それを笑う資格あるものは男にも女にもないのである。

  『欲望という名の電車』という映画は、タイトルの意味がよく分らないのでかえって記憶されている。ヴィヴィアン・

 リーの扮した女主人公はもと美人で、思う男と逢引きするときはいつもきまって夜である。その容色の衰えを見せまいと

 して、暗い席を選んで坐る。あとで男に捨てられるとき、『お前がおれと、いつも夜しか会わなかったわけがわかったよ』

 と女は言われるのである。

  ヴィヴィアン・リーが、いま美人からもと美人に転じたのはいつだったのだろうか。まだ若い彼女の顔の下にひそかに

 老女の顔の準備がととのって、それが表面に出たがって、せめいでいるのを見て監督は彼女を選んだのだろうか。」


   (山本夏彦著「恋に似たもの」文春文庫 所収)








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犬人一如どころか 2005・09・18

2005-09-18 06:06:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「人と犬は共に哺乳類だから、よく似た存在であることはやむを得ないと、はじめ私は思っていたが、次第に人は犬に及ばない

 のではないかと怪しむようになったのである。

  何より犬は金銭を持たない。したがって売買しない。むさぼらない。たくわえない。また武器を持って争わない。遠方へ行かない。

 犬の立ち回りさきは近所に限られている。

  私は人のなかのある部分が悪いと言っているのではない。ある部分が悪いということは、他の大部分は悪くないということだろう

 から、それなら満足のなかの不満足である。

  私は人は根本的に下劣醜陋な存在で、それは一時的なものでなく永遠のものだと信じているのである。」


   (山本夏彦著「ダメの人」中公文庫 所収)



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まねてまねてまねせよ 2005・09・17

2005-09-17 06:00:00 | Weblog

 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日と同じテーマで。

 「 ついこの間まで絵画も彫刻も 、読み人知らずが原則だった 。建築もそうだった 。
  五重の塔をはじめて建てた人の名は残ってない 。あれは代々の大工の知恵の結晶
  である 。
   昔の大工は設計者と施工者を兼ねていた 。それなら今の建築家よりえらいかと
  いうと 、べつにえらくはなかった 。大工の設計は個人のものではない 。なん百
  年来の大工の知恵を踏襲したものである 。たとえば大工の親方は風呂場の板は入
  口からいきなり縦に張らない 。掃除には便利かもしれないが 、板はやがてぬる
  ぬるになる 。すべってころんで大怪我する恐れがある 。だから弟子がうっかり
  縦に張ると 、親方は叱咤して張りかえさせた 。わけは言わない 。あるいは知ら
  ないのかもしれない 。親方はその又親方から 、その又親方はその又々親方から
  教わったことをただ伝えているだけなのかもしれない 。
   人は十人のうち九人までは凡愚である 。だから工夫しないほうがいいのである 。
  工夫は十人に一人 、百人にひとりの大工にまかせればいいのである 。もしその
  工夫に理があれば 、それは普及して後世に伝わる 。凡庸な大工がそのまねをす
  るからいいのである 。述べて作らずというのはこのことだろう 。祖述するだけ
  で創作しないということである 。
   もし現代の若者が 、写しというものを容易だと思うなら 、そしてしりぞける
  なら 、それは現代の教育に毒されているのである 。写しはむずかしいもので
  ある 。模して手本に及ぶ人は稀である 。たいてい及ばないで終ることはすで
  に言った 。千人に一人万人に一人が及んで凌ぐようになる 。創作が生じるの
  である 。創作は奨励しても生じない 。むしろ禁じたほうが生じると古人はみ
  たのである 。
   明治時代までの教育は 、これに従っていた 。国語は古典を暗誦させた 。作文
  は名文といわれるものを写させた 。図画は模写ばかりさせた 。習字のことは
  既に言った 。
   個性は各人にないという見方からこれは出たことである 。文明は伝承だとい
  う見方からこれは出たことである 。子供たちを『 人並 』にしたいという願い
  からこれは出たことである 。
   私はこれを正しいと思う 。各人に個性はないということは、私がなが年言っ
  てなかなか承知してもらえないことである 。個性というものはどんな人にも
  あるものだという説は凡夫の耳に快い 。人は聞きたくない説は聞かない 。
  したがって 、大ぜいがすぐ理解する説は 、大ぜいが欲する説で 、各人に個性
  があるという説のごときはその一つである 。
   私たちは作文の時間に題を与えられない 。何でも自由に 、欲するまま書けと
  いわれる 。図画も自由画になって久しい 。模写は次第に軽んじられ 、創作が
  重んじられるようになったのである 。
   私は大正の末から昭和へかけての小学生だが 、すでに写しは模倣と呼ばれ最
  も悪しきものとされていた 。戦後はことにそうである 。独創が何よりで 、
  個性は各人にあって 、それは無限に育つもののようにいわれている 。
  各人に個性があるという見方と 、ないという見方は 、人間を見る目 、ひいて
  は教育を考える考え方の二つの大きな流れである 。それは一方の旗色がいいと
  きは一方が悪く 、シーソーのように互に交替するものではないかと思われる 。
  今は独創が重んじられ 、模写がばかにされる時代だから 、そしてそれがながく
  続いたから 、近く反対になるだろう 。」

   (山本夏彦著「ダメの人」中公文庫 所収)


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2005・09・16

2005-09-16 05:55:00 | Weblog

 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「弱年のころ私は借りた本を写してみたことがある。返せと言われて、心外だったからである。借りた本を返せと言われるのは当り前のようで、そうでないのである。
 物としての本の持主が、その本の中身の理解者であるとはかぎらない。彼は物としての本を所有しているだけで、読んでない、または読むことは読んだが、理解しない。そんな持主よりそれを借りてよく理解したもののほうが、その本の真の持主だと、むろん貸したほうは思わないが、借りたほうは思う。
 こうして本は次第に借手のものになる。借りた本は返さなくていいと、口には出さないまでも、腹で思っているひとはたくさんいる。だから貸した本は返らないのである。
 そしてある日、返してくれと言われると、借手はびっくりする。理不尽なことを言われたようにびっくりする。貸手は借手の驚きを見て、べつの驚きを驚く。」

 「今にして思えば、昭和十年代は時間があり余っていた。けれども写すことはそのころでも時代遅れであること、今と変らなかった。その時代遅れを試みて、私は古人が模写を重んじる意味を知ったのである。昔の画工は名画を模写してその構図を知った。模して筆が躍るところへくると、同じく筆が躍った。躍らなければ似ても似つかぬ模写になるから、躍るまで写した。ついに躍れば画工は手本の画家と同格になる。五百年前千年前の名人と、つかの間ではあるけれども同格になる。
 臨模という言葉があるくらいだから、日本画家の修業は模写にはじまると、ぼんやり私は思っていた。したがって、かりにも日本画家なら牡丹に唐獅子、竹に虎、四君子のごとき伝統の図案なら苦もなくかけると思っていたら、そうでないと知った。模写は行われなくなって久しくなる。
 以前は日本画を学ぶには頼みとする師匠の門弟になって師匠と起居を共にして、一挙手一投足まで学んだ。美術学校ができて、このことはなくなった。
 工芸の世界も写しである。指物師は親方譲りの指物をつくって一生を終える。同じく大工も一生を終える。創作しない。」


   (山本夏彦著「ダメの人」中公文庫 所収)
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キグチコヘイ 2005・09・15

2005-09-15 06:00:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日、一昨日と同じテーマで。

 「昭和二十年八月以前と以後で、私たちは豹変した。これによって、私たちは一夜にして豹変する存在だということが分った。事典はその一夜を越えて用いられることを欲するものだから、いま流行の思潮によって取捨してはいけないのである。
 私は百科事典をめったに利用しないから、その例をたくさん知らないが、それでも二、三あげることができる。この事典には教育勅語の全文が出てない。軍人勅諭の全文が出てない。その項目はあっても、そこにはこの勅語がいかに教育を毒したか、いかに天皇制国家の精神的支柱であったか、いかに自然法思想、基本的人権思想を欠いたものであったか――というようなことが書いてあって、ついに勅語そのもののテキストは出てないのである。
 この事典は項目ごとに執筆者が署名して、文責を明らかにしている。故に意見を述べることが許されるという方針らしいが、肝腎なテキストなしで意見を述べられても読者は抵抗できない。
 それに、一夜にして変る意見は、再び三たび変る恐れがある。後世が必要とするのはテキストである。事典をひらいて、その項目がありながら、原文がなくてその悪口があるなら、その編集方針は疑われても仕方がない。
 教育勅語の原文は四百字に足りない。全三十一巻の事典だから、それをのせるスペースはあり余っている。この事典は事典の模範と見られているものである。ながく追随するものがなかったが、十なん年前から、多くの出版社が百科事典を出すようになって、いずれもこの事典のまねをしたから、ここにあるものは他にあって、ここにないものは他にない。教育勅語があるかないか、一々しらべる煩に耐えないから、有志はご自分の事典を見ていただきたい。
 阿川弘之氏は八巻本の百科事典には軍艦大和、武蔵、陸奥、長門の名が出てない。アメリカの百科事典には全部出ている、と書いている。
 総数二千点も出ている辞書、事典は多く写したものだとは始めに言った。それが許されるのは批評がないせいだとも言った。鑑札の如き項目が欠けているのは、あとから足せばいいのだからとがめないとも言った。けれども、原文を掲げないで批評をかかげ、文責を明らかにすればいいという方針は批評されなければならない。
 私は映画のニュースやテレビのニュースを見て、事実が知りたいのに、意見をおしつけられて閉口することがある。意見はその時代を圧する意見だから聞くまでもない。その同じ意見を私はわが国の代表的な百科事典中に見て、次いでその亜流に見るのである。
 私はこの短文のなかで、百科事典評をしているのではない。ただ批評の必要を説いているのである。」


   (山本夏彦著「ダメの人」中公文庫 所収)


 ついでながら、インターネット時代のフリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」に、岡山県「高梁市(たかはしし)」の記載があり、高梁市出身の著名人として、「木口小平」が(軍人、1872年-1894年)という説明を添えて掲載されています。「板倉勝静(幕末の老中、1823年-1889年)」、「児島虎次郎(画家、1881-1929年)」、「水野晴郎(映画評論家、映画監督、1931年-)」、「平松政次(元プロ野球選手・野球解説者、1947年-)」、「平松伸二(漫画家、1955年-)」などと並んで紹介されていますが、それぞれの人物について、どんな功績があったのか、何で有名なのかといった詳しい説明やエピソードの紹介は、紙幅の都合もあるのでしょう、ありません






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キグチコヘイ 2005・09・14

2005-09-14 06:00:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日と同じ「キグチコヘイ」について。

 「ご存じの通り昭和二十年八月まで、小学校では国定教科書が用いられていた。日本全国同じ教科書が用いられていたから、キグチコヘイの名は日本中にとどろいていた。
 昭和二十年に一年生だった子は、高見順がなくなった昭和四十年には二十六、七である。すなわち、このとき二十六、七以上の日本人はキグチコヘイを知って、知らないのはそれ以下の青少年である。日本人の半分が知っている人物が、百科事典に出ていないはずがないと私が怪しむものだから、キグチコヘイなら、同じ事典の旧版に出ている、調べて知らせてやるという友があって、折返し左のように知らせてくれた。

  木口小平は岡山縣川上郡成羽村の人。明治二十七年日清戦役に際し、歩兵第二十一聯隊第十二中隊に属し喇叭卒として出征した。七月二十九日午前三時、朝鮮成歡に於て彼我會戰して苦戰した。小平命により進軍喇叭を吹奏すること三度、吹奏中敵彈のために殪る。夜明けて小平の死屍を収容したところ、喇叭をかたく握り口に當てたまま絶命してゐた。その名は今なほ兵士の龜鑑として傳えられてゐる

 ――以上昭和二十七年度平凡社大百科事典よりとあるから、これは同じ事典の旧版で、せっかく旧版にある項目を、新版では削ったということが分る。なぜ削ったかはあとで述べるとして、これでキグチコヘイは木口小平であることが分った。小平が出征したのは日清戦争だということが分った。
 注意してみると、この文章は旧かな旧漢字である。喇叭(らっぱ)、殪(たお)るの如きは今は用いない文字である。今なほ龜鑑として傳えられてゐるは旧かなである。
 この事典は昭和二十七年印刷発行とあるが、戦前の版をそのまま増刷して売っていたものだと分る。何ぼ何でも旧かな旧漢字ではあんまりだと、全部改めることにして、昭和三十一年版はそれを改めたものだと知れる。このとき新かな新漢字にすると同時に、内容を一新し、全三十一巻という厖大なものにしたのだろう。そして、木口小平は削除されたのである。
 木口小平は死んでもラッパを離さなかった兵士である。軍国主義の権化である。あるいは権化として修身の巻頭を飾った人物である。そんな人物を、この新しい百科事典にのせてはならないと削除したとすれば、ほかにも削除した人物や項目は山ほどあるに違いない。
 私はわが国随一といわれる百科事典が、こんな方針で編集されているのを残念に思うものである。事典中に木口小平を掲げても軍国主義にはならない。削除しても軍国主義を追放したことにはならない。
 今日の目で昨日を見ることなかれと、弱年のころ私は教えられたことがある。敗戦直後の編集者は多く進歩的で、したがってその眼鏡で項目を取捨し、解説を書く傾向があった。」

   
   (山本夏彦著「ダメの人」中公文庫 所収)





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キグチコヘイ 2005・09・13

2005-09-13 06:10:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「昭和四十年夏、高見順はガンをわずらって死んだ。彼は日本近代文学館の発起人のひとりで、生きているうちにこれを開館させたいと奔走していた。
 瀕死の大病人が、目の前の死と争って、立って徘徊するのを見るのは耐えがたいものである。だから、彼の周囲は騒然となって、屑屋のまねはよせと忠告するものがあったという。
 日本近代文学館には、明治以降の文学的史料が揃っていなければならない。それには心得のあるものが指図して、古本と古雑誌を集めなければならない。すなわち、屑屋のまねである。
 文士の本分は、一にも二にもよい文章を残すことにあって、他人の断簡零墨を集めることにない。それは健康な別人にやらせるがいいと、いくら言われても高見順は奔走してやめなかった。そしてめでたく近代文学館は成って、安心して死んだのである。まるでキグチコヘイだなと、葬式のあとで言うものがあった。
 その席には三十代と二十代の男女がいて、三十代はキグチコヘイを知っていたが、二十代は知らなかった。コヘイは小学一年生の修身に出ている人物である。
 キグチコヘイハ テキノタマニアタリマシタガ シンデモラッパヲ クチカラハナシマセンデシタ
 一年生だから、あとは絵で示して、文字はこれだけだった。これで分ることは、キグチコヘイはラッパ卒だということである。ラッパ卒は兵士の先頭に立って、進め進めとラッパを吹く。そのとき敵弾に当ったが、死んでもラッパを口から離さなかったというのである。
 けれどもこのラッパ卒は、どこの人でどこの戦さで死んだのか分らない。その戦さは日清戦争なのか日露戦争なのか分らない。百科事典で調べたら分るだろうと、昭和三十一年初版第一刷、昭和三十四年初版第五刷、平凡社の『世界大百科事典』(全三十一巻)を見たが出てない。そもそもキグチコヘイという項目がないのである。」

  (山本夏彦著「ダメの人」中公文庫 所収)

 幼いころ、明治四十二年生れの母から聞いて、昭和二十三年生れの筆者はキグチコヘイのことを知っています。





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身長と体重 2005・09・12

2005-09-12 05:45:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日と同じテーマで。

 「福沢諭吉は身長五尺七寸(一七三センチ)、体重十八貫(六七・五キロ)あったと私は友人に教えられた。『身長と体重』のなかに、明治以来体重はともかく身長を気にする男女がふえたのに、それを記録したものが少ないと書いたからである。
 ラフカジオ・ハーンは身の丈五尺一寸あまりで、猫背でひょこひょこ歩いたという。西洋人のくせに色は白くなかった。左の目はほとんど視力がなく、右の目はとびだして、その上はなはだしい近目だったという。
 片目がとびだしていることは写真で知っていたが、五尺一、二寸だとは知らなかった。五尺二寸は一メートル五七センチに当る。日本人でも小男で、西洋人にはめったにないことである。
 漱石は五尺二寸だったが、ロンドンでは自分より小さい男を見なかった。同じくらいかと恐る恐る近づくと二寸(六・〇六センチ)は高かったと書いている。背の低い人は、ひそかに背くらべして、二寸は高い人を同じくらいだと思う。三寸以上高くないと高いと思わない。欲目で見るからである。
 私はハーンの書いたもので晩年のハーンを知って、若年のハーンを知らない。ハーンが西洋を嫌悪して日本を愛したのは、日本人として嬉しいけれど、そのあまりの熱狂ぶりに時々へきえきすることがある

 ハーンは西洋では人に見られただろう。人並以下の男は、人並の男に見るともなしに見られる。女たちは多く彼を男として見なかっただろう。ハーンは恋して打明けられなかったことがあったのではないか。
 ハーンの文学と身長は密接な関係にある。ハーンは日本でも注目されたが、それは西洋人として見られたので、小男として見られたのではない。ハーンは安住の地を見いだした思いをしたことだろう。すくなくとも身長について思いわずらうことからは解放されただろう。
 ハーンとは反対に、日本人は西洋に行くとたいていの人は人並でなくなる。日本の大男は欧米の人並である。日本の人並は人並以下である。それなのに自分がどんな思いをしたかを書くものは稀である。漱石はその稀なるものの一人である。他は自分がいかに西洋人に伍して談論風発したか、いかに女にもてたかというようなことをあるいは露骨に、あるいはさりげなく書く。これしきのことも人は本当のことは書けないのだから、これしきでないことはもっと書けないだろう。したがって『告白』というものは多くまゆつばである。自慢話の一種ではないかと私はみている
 さて日本人が身長を気にしだしたのは、西洋人と比較するようになってからである。旧幕のころは比較することがなかったから、五尺一寸は大威張りだった。五尺一寸が恥ずかしくなったのは、開国以来だろう。西洋人とつきあうようになってからだろう。それならインテリがさきに気にしだしたのだろう。鹿鳴館以来としても、百年近くなる。
 明治二十九年五月、広瀬武夫は自分を育ててくれた祖母に自分の写真を送って、裏面に五尺六寸の孫武夫満二十八年と書いた。島田謹二は武夫の身長は一七五センチあったと書いている。それなら五尺八寸である。広瀬は露都でロシヤの少女に恋されている。おびただしい手紙が残っているからこれは本当である。
 広瀬をめぐる男たちのなかで、身長のわかっているものをあげると、山本権兵衛一七〇センチ(五尺六寸)余り、加藤寛治一五五センチ(五尺一寸)ぐらい、田中義一当時三十四歳の大男と広瀬は日記のなかに書いている

 明治三十六年ハーンは東大の講師を辞し、漱石がその後任になった。漱石は一高の講師もかねた。そのとき生徒に数え年十八になる一高生藤村操がいた。」


  (山本夏彦著「ダメの人」中公文庫 所収)




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身長と体重 2005・09・11

2005-09-11 06:05:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「夏目漱石があばたであることを、私は少年のときから知っていた。どうして知ったか、今となっては思いだせない。たぶん漱石が自分で、私はあばただと書いたのを見たのだろう。
 私は漱石の写真を、何枚も見ている。どこといって難のない立派な顔である。壮年の漱石は鼻下に髭を貯え、よい生地のよい仕立の洋服を着ていた。その写真のなかに、あばたの痕跡を発見することはできない。
 してみれば漱石のあばたは、写真にうつらない程度のものだったのだろうか。それとも写真に修整がしてあったのだろうか。」

 「漱石がロンドンに行ったのは、明治三十三年の秋である。雲つくようなイギリス人のなかにあって、漱石はさぞ小さかったことだろう。子供かと見ると大人である。その上あばたである。
 漱石はロンドンで自分より小さな男を発見しなかった。向うから人並はずれて背の低い男が来るので、しめたとすれ違いざま見ると、自分より二寸(六・〇六センチ)ばかり高いと漱石は書いている。
 漱石は往来で女たちに、シナ人にしてはましだと評されたことがある。男たちに、ジャップにしてはハンサムだと言われたことがある。茶の会によばれて、フロックコートを着て、シルクハットをかぶっていたから、一寸法師がイギリス人のような格好をしていると見られたのだろう

 昨今の文学の研究はずいぶん枝葉にわたるが、作者の身長に及ばない。身の丈がいくらかということは、その人を理解するかぎの一つだと伊藤整は言っている
 伊藤整は漱石は五尺二寸(一五七センチ)、藤村は五尺一寸ぐらいだったと書いている。緑雨は五尺五寸あったと、これは緑雨の姪の子が書いている。
 明治時代の男は五尺二寸あれば人並で、四寸以上あれば立派で、六寸あれば大男だった。女は五尺そこそこが普通で、五尺二寸あると半鐘泥棒といわれた

 今は大ぜいで海外へ旅して大ぜいで帰るから漱石のように感じるものはすくないだろうが、漱石は一人で行って一人で暮したのである。漱石はクレイグ先生という学者の個人教授を受けて、学校へ行ってない。したがって交際がない。男女を問わず教養あるイギリス人で漱石と食事を共にした者は一人もない。これが漱石をイギリス嫌いにした一因だろうと平川祐弘氏は書いている。」

 「これよりさき森鷗外は軍医としてドイツに留学している。鷗外は軍人として当然しなければならない社交を、進んでしている。いわゆる上流社会にも立ちまじっている。明治十七年十月から二十一年九月にかけての四年間である。
 鷗外の身長はどのくらいか、よくわからないが、露伴と共に写した写真が残っている。露伴は色白く丈低く太った人だと一葉は書いている。明治二十九年に背の低い人だといえばおよそのことは察しられる。その露伴と共に立って、それほど違わないなら鷗外の身長も察しられる。顔色も特にすぐれてはいないという。容貌は立派ではあるけれど、日本人として立派なので、西洋人と並んで立派だというわけではない。
 鷗外もまた鏡のなかに自分を見て驚いたはずなのに、そのことを言わない。顔が扁平なのにそのことを言わない。上流社会で相手にされないこともあっただろうに、そのことを言わない。かえってドイツの一流新聞で、ドイツの学者と論争したことを言う。国際赤十字会議で演説して成功したことを言う。」


   (山本夏彦著「ダメの人」中公文庫 所収)




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