「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

芭蕉 2005・09・10

2005-09-10 06:20:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、松尾芭蕉(1644-1694)の「更科紀行」から三句。

 
 「身にしみて大根からし秋の風」

 「送られつ別ツ果は木曾の秋」

  善光寺 
 「月影や四門四宗も只一ツ」


 「送られつ」の句は「曠野」では「おくられつおくりつはては木曾の秋」とあります。
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芭蕉 2005・09・09

2005-09-09 06:00:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、松尾芭蕉(1644-1694)の旅日記「おくの細道」から二句。

 「あかあかと日はつれなくも秋の風」

 「石山の石より白し秋の風」
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神と仏は往々ないものである 2005・09・08

2005-09-08 08:00:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「出版というものをひと口で言えといわれると、私は発注者がないのに勝手につくる商売だと答える。
 それは知恵の商売で、才能ある者だけの仕事である。けれどもその才はまねする才であるいかさまの才である。たとえば私が小学生のとき、アルスから『日本児童文庫』全七十巻が発売されたら、たちまち興文社から『小学生全集』全八十巻が発売された。アルスの企画を興文社がまねしたのである。まねしたというより盗んだのである。
 またそのころ岩波書店から岩波文庫が出た。続いて改造社から改造文庫が出た。これは改造が岩波のまねをしたのである。その改造もまねするばかりではなく、まねされてもいる。『現代日本文学全集』は改造社のほうが早かった。春陽堂の『明治大正文学全集』はこれを模したものである。
 およそ出版の歴史は模倣の歴史である。模倣といえば聞こえがいいが、ドロボーの歴史である。古い例ばかりあげたのは、新しい例をあげるとさしさわりがあるからで、今も昔と同じだという証拠を一つだけあげる。
 『ノンノ』は『アンアン』をまねたものだのに、まねした『ノンノ』のほうが今は売れている。まねされたほうはくやしかろうが、あれはまねです、盗みですと広告しても読者が同情して買ってくれるわけではない。だからまねされても騒がない。いつ自分もまねするかわからないからである。まねされたほうは、まねして売れているほうの秘密を盗んで、見返してやるよりほかない。『英語に強くなる本』のことは前にも書いた。これが売れたと聞くと『数学に強くなる本』を出す。」

 「『サンデー毎日』は『週間朝日』のまねしたものだそうだが、古い話で今となってはどっちがどっちのまねをしたのか定かでない。何度も言うが、まねされたほうがくやしがって、それを訴えても読者が同情して買ってくれるわけではない。まねっ子の方が売れて、元祖のほうが売れないとは神も仏もないが、神と仏は往々ないものである。読者は面白そうな方を買うだけで、それがくやしければ、今度は元祖がまねっ子のまねをして、まねっ子を凌ぐよりほかないのである。」

  (山本夏彦著「ダメの人」中公文庫 所収)




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ある男の死 2005・09・07

2005-09-07 06:00:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「読者は作者の遺体が、つめたくなると同時に去るから、蚤に似ている。」

   (山本夏彦著「笑わぬでもなし」中公文庫 所収)


 「人は死んでもその人の友人知己のなかになおしばらく生きている。いつまで生きているかかねて私は気になっていた。すぐ忘れられてその死を完了する人もあるし、しばらく生きている人もある。いずれにせよ気がかりなのは私ばかりではないようで、フランスの作家ジュール・ロマンは『ある男の死』という小説でこれをテーマにしている。
 ジュール・ロマンは『善意の人々』全二十七巻という大作を残した人で、戦前はずいぶん読まれたが戦後は読まれない。昔読まれて今読まれないのはありがちなことで、以前あんなに読まれたアンドレ・ジイドも今は読まれない。芸術家もまた生きているうちが花なのである。
 『ある男の死』の主人公は開巻二十余ページで死んでいる。主人公がこんなに早く死んでしまう小説は希である。むろんわざとである。あとの二百余ページはその死が完了するまでの物語である。
 かくの如きは十九世紀の小説にはないことで、小説という小説が書き尽されたので、苦しまぎれに出した新機軸のひとつではないかと思われる。それなら小説の衰弱、または堕落かとはじめ私は快く思わなかったが、二十代の昔読んでいまだにおぼえているのは、この作の手がらではないかと今は思っている。以下あるいは読者も同じ感銘をうけはしまいかと、かいつまんでその粗筋を書いてみる。

 ジャック・ゴダールはパリ、ル・アーブルの急行列車の運転手である。アパートには帰って寝るだけだから、誰ともつきあいがない。
 このゴダールは独身のまま老いて定年を迎え、自分がパリを全く知らないことに気がつく。毎日五分間で矢のようにパリを通りぬけることを繰返していただけである。退職したのを機会にパリ見物を思いたって、ひまにまかせて出歩く。
 ゴダールは風のつめたい早春のある日、パンテオンの塔にのぼった。見わたせばパリは何と大きな街だろう。自分のアパートはどこかとさがしても模糊として見当もつかない。ゴダールはながいことこのながめを楽しんだ。そのせいだろう風邪をひいて、それがもとで死んでしまった。
 死なれてみれば放ってもおけないとアパート中大騒ぎして、ようやく遠い田舎に老父母が存命だとさがしあてて電報を打つ。
 そこはめったに電報なんか来ない片田舎で、配達の少年は嬉しくてならない。手に電報をかざして、勇んで老夫婦宅にかけつける。パリに出たまま消息を絶った息子が死んだと聞いて、なんだそれならまだ生きていたのか――老いた父親は這うようにパリに出て、貧しい葬式に参列した。それは墓地へのろのろと進んだ。
 ゴダールは生きているうちは、話題になるような存在ではなかった。死んではじめてアパート中にその名を知られた。また村では電報が来たことによってしばらく評判になった。埋葬されて何日かはまだアパートでも村でもうわさするものがあったが、半年たち一年たったらそれも絶えた。ゴダールの老父母も相次いで死んだ。
 二年たった。早春のまだ寒い日、パンテオンの前を一人の美しい若者が歩いていた。ステッキを弄びながらふと『そうそう二年前の丁度こんな日、やっぱりこのあたりで貧しい葬式に出あった。あれは誰の葬式だったろう。』
 これがジャック・ゴダールを思いだした最後の人で、以来彼は全く忘れられこの世から消え失せたのである。」

  (山本夏彦著「おじゃま虫」中公文庫 所収)



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天の配剤 2005・09・06

2005-09-06 06:00:00 | Weblog
  今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

  「パール・バックの『大地』にはイナゴの大群が、空が暗くなるほど畑に襲いかかる場面があるが、穀物を食いつくすと自滅する。

  ハメルンの笛吹きは鼠の大群をみちびいてライン河に入水させた。町は約束の礼を払わなかったので今度は町中の子供を同じく

  集め、同じくつれ去った。

  ある種の動物が全地球を覆うほどふえたためしはないふえればそのふえたことによって滅びる

  そのあるまじきことが今おこっている。人類はチブスコレラ天然痘その他伝染病のすべてを根絶した。わずかにガンが残っているが、近く

  これも退治すれば人類がふえるのを妨げるものは何ものもなくなる。あればそれも退治するだろうから、人類は全地球を覆うだろう。

  覆ったことによって滅びるだろう。太古の恐竜にその例がある。これを天の配剤または自然という。」

  (山本夏彦著「世間知らずの高枕」新潮文庫 所収)


 
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2005・09・05

2005-09-05 06:00:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「漢字制限論者カナ文字論者が文部省の内外にいて、戦中戦後のごたごたを奇貨としてまずルビ全廃に成功した。ルビのおかげで読めた漢字が読めなくなった。それならその漢字の使用を禁じればいいと、当用漢字を千九百前後に限った。使いたければ、ゆ着捕そくのように書かざるを得なくした。
 次いで送仮名を改めること再三再四に及んだ。以前は取締るでよかったものを取り締まると書けと命じた。受付を受け付けと書かせた。小学校では受け付けと書かなければ×である。受け付けと書くなら漢字はいらない。誰しも仮名で書くほうがいいと思う。カナ文字論者の思うつぼである。
 何事でも政府案なら反対する新聞が反対しなかったのは、戦前の新聞は総ルビ付だったからである(のちぱらルビ)。ケシ粒大の漢字の全部に仮名を振るのは大仕事である。その全廃に賛成したのは国語のためではない。自分のためで新聞は区々たる自己の利益のために一国の言語を売ったのである。活版の時代はすでに去って今は写真植字の時代である。写植ならルビを振るのはお茶の子だが、誰も振ろうとしない。
 ここに哀れをとどめるのは新聞雑誌の校正係で、記者も作家も誰一人立ち居振る舞いなんて書いてないのに、一々直しているのである。その規則は朝令暮改なのに改められるつど従う。
 およそ自分が信じてない規則に従って直して終る一生とはいかなる一生であるか。私は気の毒に耐えないのである。新聞雑誌の校閲部が全員立ってストしないのが私にはけげんである。
 けれども人の心は怪しいもので、生涯不毛な仕事に従っているとそれに耐えられなくなって、一転して執筆者の文字遣いの旧式また不統一をとがめるようになるのである。とがめて僅かに鬱を散じるようになるのである。」

  (山本夏彦著「オーイどこ行くの」-夏彦の写真コラム-新潮文庫 所収)
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命ながければ恥多し 2005・09・04

2005-09-04 06:10:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「この十年寿命は確かに延びている。七十古来稀れどころか、百歳を超えるものは珍しくなくなった。それをいいことのように言うものがあるが誤りである。ただ生きているだけなら自分にも他人にも迷惑である。
 私は人の盛りは五年だと思っている。大負けに負けて十年だと思っている。スポーツの選手を見れば分る。」

 「スポーツにかぎらない。英雄豪傑経営者もそうである。平家は清盛一代だった。二十余年で清盛は自己の台頭から没落まで見た。それは洋の東西、時の古今を問わない。ヒトラーも十二年だった。
 芸術家はながいといわれるが、処女作を出られない。画家は同じ絵を求められ、売れるかぎり平然と描くからながく見えるだけである。文士は往年の傑作といわれたものをなぞる。」

 「これを要するに人の才能というものは一つしかない。行きづまっても他に転じることはできない。花いっとき人ひと盛りである。弱年のころ百メートルを十秒強で走ったから今も走れるとスポーツの世界では思うものはないのに、他の世界ではあるのである。以前奇想わくがごとくだったから今もと思う経営者がある。
 私は一雑誌を主宰して四十年になるが、プランがわいて出て応接にいとまがなかったのは五年もなかった。それなのに雑誌が四十年も続いたのは全盛時代がなかったせいである。満つれば欠くるといって、全盛時代があればあとは衰えるばかりである。
 命ながければ恥多しという。」

  (山本夏彦著「オーイどこ行くの」-夏彦の写真コラム-新潮文庫 所収)
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郵政民営化大賛成 2005・09・03

2005-09-03 06:10:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「古往今来税金をとりすぎる国家はつぶれます。」

 「郵便局の貯金は死んだ金だと私は見ています。」

  (山本夏彦著「おじゃま虫」所収)


 「銀行と郵便局の違いは、銀行は明るいが郵便局は暗い。銀行はいらっしゃいましと言うが郵便局は言わない。銀行は都会にしかないが郵便局はどんな村々にもある。銀行は株式会社だが郵便局は株式会社ではない。銀行は郵便物を扱わないが郵便局は扱う。」

 「銀行は金を預かるだけでなく貸す。郵便局は預かるだけで貸さない。これが決定的な違いだったが、何年か前から郵便局も貸すようになった。」

 「何度も言うが預貯金というものは、国税と地方税をとられた残りである。私なら法人税、源泉徴収、総合所得税、住民税をとられてようやく残ったカスである。いまいましいからいつもカスと言っているが、宝と言っても同じことである。それを預金して得た零細な利息に、さらに課税するとは二重三重の悪税で、こういうことを思いつくから税吏を並の人間ではないと私は差別するのである。並の人なら思いもよらないことを、今後ともまだまだ思いつくだろう。」

 「郵便局に集まる金は個人の金で法人の金ではない。個人の金はたとい一億円でもそれは死んだ金で、法人の金は生きて動く金である。退職金三千万円を十口に分けたっていいではないか。退職金なんて一巻の終りの金である。それに課税するのがそもそも間違いなのである。しかも郵便局の貯金はどうせ大蔵省が吸いあげて天下国家のために使う。脱税したって結局はとりあげられるのである。生きて動いている金は何をするか分らない金で、それは銀行にしか集まらない。銀行と郵便局は決定的に違うのである。」

 「この世にくぐれない法網はない。破れない錠前はない。だから法の網は粗いほうがいいのである。こまかくすればするほど人は秘術をつくしてくぐるだろう。」

 「金持がいて、中くらいがいて、貧乏人がいて、かっぱらい巾着切ドロボーのたぐいがいて、そして橋の下には乞食がいて、はじめて世の中である。それは老若男女がいて賢愚美醜がいて、はじめて世の中であるに似ている。」

  (山本夏彦著「恋に似たもの」所収)
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2005・09・02

2005-09-02 06:00:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から寸言をいくつか。

 「自信はしばしば暗愚に立脚している。」

 「他を難ずる人は、自分のことは棚にあげているのだから、その言葉には痛切の響きがない。むしろ景気のいい響きがあるから、聞くものは同じく自分のことは棚にあげて、そこに八百長による和気の如きものが生じるのである。八百長だからそれらはたいていあとで痛烈だとほめられる。だから私は痛烈という言葉を好まない。痛烈といわれるもので浅薄でないものは希である。」

 「男はにが笑いする動物で、女はしない動物である。新聞はにが笑いしないこと女に似ている。」

 「神と仏は時々ないものである。」


   (山本夏彦著「ダメの人」所収)


 「人は窮すれば何を売ってもいいが、正義だけは売ってはならぬと旧約聖書にある。」

  (山本夏彦著「オーイどこ行くの」所収)
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蕪村 2005・09・01

2005-09-01 05:55:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は与謝蕪村(1716-1783)の句です。

 「秋来ぬと 合点させたる 嚏(くさめ)かな」

 「貧乏に 追いつかれけり けさの秋」

 「子狐の 何にむせけむ 子萩はら」

 「朝がほや 一輪深き 渕のいろ」

 「月天心 貧しき町を 通りけり」


 「秋来ぬと」の句は、古今集の「秋来ぬと目にはさやかに」を踏んで、軽妙洒脱に俳諧に転じています。蕪村には「芭蕉去てそのゝちいまだ年くれず」という句もあるといつかどこかで読みました。
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