「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2013・09・10

2013-09-10 13:30:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「本棚からつぶやきが聞こえる」より。

「本には声がある。書架から取り出して読み、また元へ戻し、しばらくたって必要になり、また読む。こういうことを繰り返しているうちに、その本が声を出しはじめるのである。虫のような、小さな啼き声である。たとえば、ビアズリーの画集には、ビアズリーの声がある。それは一段上にあるエドガー・ポーの声とは、似ているようで微妙に違う。漱石と鷗外とでは、声が全然違うし、乱歩の声は横溝正史とはまた違う。怪談じみていて気持ちが悪いだろうが、これはほんとうなのである。その証拠に、つい最近、古書店で見つけてきて、まだテーブルの上に置いたままの、保田与重郎の『冰魂記(ひょうこんき)』には声がない。ところがこれを書架に以前からある、おなじ著者の『近代の終焉』の隣りに並べてやると、その夜からこの本は、虫のように啼きはじめるのである。と言うと、本というよりは、人が啼くように思われるが、『ランプ』という、百年前のランプの写真を集めた本も、啼くのである。これは、人ではなくランプが啼いているとしか思えない。――私は、深夜の書斎で耳を澄ます。いろんな本が啼いている。つぶやくような声もある。歌っているような声もある。ときには、嘆いている声もある。これが書斎の愉しみである。」

(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)

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私は畳の上で死にたい 2013・09・09

2013-09-09 07:30:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は。久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「願わくば畳の上で」より。

「家で死ぬということは、長いことその部屋に臥せって、自分の死を待っているということである。もし私がそうするなら、私はきっとあの病気の日とおなじ怖れに取り囲まれて、長い時間を過ごすのではなかろうか。日本の家は、そういうことを考えさせるために作られているのだ。低い視点から見る日本の家の視界には、生きてきた日々について静かに考えさせるものが、あちこちに佇んでいる。枕の上で朝を迎え、高くなっていく陽を静かに目で追い、畳に落日の海を見て、やがてやってくる怖い夜を待つ。漱石も鷗外も一葉も、みんなそういう一日を何日も繰り返し、痩せ衰えながら、また何日も繰り返し、その果てに死んでいったのだと思う。私の病の日々が、怖かったけれど、いま思うと懐かしくも幸せだったように、畳の上に臥せって迎える死は幸せな死である。白い天井や壁を眺めて、私たちの心はいったい何を思うことができよう。怨みも、悔いも、愛さえも、白い壁にはね返って、また我と我が身に戻ってくるだけである。だから、畳の上で死にたいと思う。切実にそう思う。ただ闇雲に走ってきたような人生ではあったけど、せめて最後のときに、そんな夕暮れをいくつか持つことができたなら、私は私が愛したものが何だったのか、はじめて知るかもしれない。ほんの瞬く間のことではあったが、それでもそれは温かな時間だったことが、わかるかもしれない。そしてもしかしたら、生れてきたことと、こうして死んでいくこととは、つまりはおなじことだったことに気づいて、死んでいく者には似合わない、小さな笑いを浮かべることだってできるかもしれないのだ。
 だから私は、畳の上で死にたい。」

(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)

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2013・09・08

2013-09-08 07:55:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「願わくば畳の上で」より。

「やがて日が暮れると、急に仏壇が怖くなる。観音開きの扉は閉まっているのに、中の様子が目に浮かんでくる。黒ずんだ金の観音様に立てかけるようにして、私が生れる前に、三歳と一歳で死んでしまった兄と姉のスナップ写真が並んでいる。小さな死者たちは、二人とも笑っている。会ったこともないのに、二人が私を呼んでいるようで怖くなり、電灯をつけてもらおうと台所の母を呼ぶのだが、茶碗や皿が触れ合う音がするのに、母の返事がない。見上げる黒塗りの扉の隙間から、蠟燭の炎が洩れて見える。いったい誰が、いつの間に点(とも)したのだろう。そのうちに中の仏具たちが、カタカタと音を立てはじめる。そして子供の私の身の丈ほどもある仏壇が、少しずつ前へ傾いて私の上にのしかかり、私は宵闇の中で細い悲鳴を上げるのだった。
 布団の裾の、裏庭に面した丸窓の障子に、隣りの家との境に植えられた竹の影が映るのもそんな時刻である。風さえなければ、それほど怖くはないのだが、私が一人で寝ているときに限って、嫌な風が吹く。ザワザワと揺れる竹の葉の影が、無数の鳥や虫の群れに見えたりする。私は慌てて目を逸らす。するとそこには、金色の鳳凰(ほうおう)に縁取られた楕円形の枠の中、重々しい大礼服に身を包んだ〈その人〉がいる。〈その人〉は、銀縁の眼鏡の奥から優しい目で私を黙って見下ろしている。〈その人〉は、さっきから私の恐怖をずっと見ていたのだろうか。もう辺りは真っ暗なはずなのに、私には〈その人〉の懐かしい顔がはっきり見えるのだ。私はようやく気を鎮め、ホッと熱い息をつく。それを待っていたように、母が台所から小走りにやってきて、私が寝ている上の電灯をつける。」

(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)

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2013・09・07

2013-09-07 14:30:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「願わくば畳の上で」より。

「子供のころ、私が畳に海を感じたのも病気で寝ているときだった。小学校へ上がる前後まで、体が弱くて奥の六畳に寝かされてばかりいた私は、いつも自分が寝ている部屋や庭の様子を枕の上から眺めていた。私の部屋の縁側は西に向いていて、夕暮れになると赤い残照が隣りの家の銀杏の木越しに私の寝ている布団のところまで斜めに差し込んできた。もうじき嫌な夜になる。八時を過ぎるころになると、どうしてきまって熱が出るのだろう。重い気持ちで赤く染まった畳に目をやると、起きているときには気づかない畳の目がいやにはっきり浮いて見える。それは波のようだった。布団の際から縁側まで、そこは夕焼けの海だった。じっと見ていると、いつか無数の赤い波が動きはじめ、うねりながら布団の私に向って寄せてくるのだった。私の耳は、潮騒の音さえ聴いているようだった。私は海から生れてきたのかもしれない。もしこのまま病気が治らなかったら、私はこの紅い海へ還っていくのだろうか。汗ばんだ体を波に攫(さら)われそうな怖れに四肢を強(こわ)ばらせながら、それでも畳の海の美しさに見入っていた夕暮れを、私はいまも忘れない。」

(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)

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2013・09・06

2013-09-06 09:00:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「願わくば畳の上で」より。

「ふと思うと、日本の家屋や調度は低い視点からの〈見た目〉を考えて作られているような気がする。死者の視点とまでは言わないが、臥せっている者の視点である。日本間の真ん中に立っていると、なんとも落ち着きが悪い覚えは誰にだってあるだろう。とにかく坐りたくなる。坐ってみると障子窓の高さも、陽の差し具合も、障子に映る八ツ手の葉の影も、なかなかいい。ところが、もう一つ視点を底くしてみると、つまり臥せってみると、もっといい。たとえば、雪見障子というのは、間違いなく日本間に寝ている者のために作られたとしか私には思えない。坐っていて庭に降る雪を眺めるには、上半身を屈め、首を曲げて覗かなくてはならないが、床に臥せって枕の上から見るとちょうどいい高さに風花(かざばな)が舞い散るのである。」

(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)

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2013・09・05

2013-09-05 07:30:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「願わくば畳の上で」より。

「さすがに昔の文人たちは、たいてい自分の家で死んでいる。漱石も子規も、家の中の何かを見ながら死んだはずである。牧野信一なんか、わざわざ小田原の生家まで帰って死んでいるし、荷風にしたって、一人で病院へ行こうと思えば行けたのに、面倒だからそのまま寝てしまったのかもしれない。二葉亭は家で死のうと思って船に乗り、間に合わなくてベンガル湾上で絶命した。だいたい鷗外や一葉が白い救急車で病院へ運ばれるなんて絵にならない。『うたかたの記』を書き、医者のくせに病院へも行かず、畳の上で死んだから鷗外は鷗外なのだし、『にごりえ』の女たちの部屋とよく似た破れ畳に敷いた薄い布団の上で細い息を引き取ったから、私にとって一葉は一葉なのである。」

(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)

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2013・09・04

2013-09-04 08:45:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「願わくば畳の上で」より。

「昔は生れるのも死ぬのも、自分の家が普通だった。生れたのも死んだのもおなじ部屋というのも、そんなに珍しい話ではなかった。私はどこで死ぬかはまだわからないが、生れたのは東京・阿佐ヶ谷の自分の家だった・近所の産婆さんが取り上げてくれた。だから、生れて何日かして目が見えるようになって、はじめて網膜に映ったのは、たぶん座敷の大きな仏壇とか、長押(なげし)にかかった御真影(ごしんえい)とか、庭先の金木犀(きんもくせい)とか、あるいは簾(すだれ)越しの薄青い空とか、とにかく家の中での視界だったに違いない。もちろんそんな記憶はないけれど、私はそういう生れ方で幸せだったと思っている。いまの赤ん坊は、ほぼ百パーセント病院で生れるから、はじめて目にするのは白い天井か壁である。そして死ぬのも〈都内の病院〉なら、最後に霞んで消えていくのも白い天井と壁ということになる。そんなものを見て死にたくない。軒端で揺れる、縁日で買った赤いガラスの風鈴でもいい。猫の額ほどの貧しい庭に、一本だけある桜の木の枯れ枝でもいい。部屋の中のものなら、いずれ読もうと思って買い込んだきり、とうとう読まずに終った本の背表紙でもいい。破れ障子だって、品の悪い酒屋のカレンダーだって、病院の白い壁よりはましである。」

(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)

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2013・09・03

2013-09-03 07:00:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「願わくば畳の上で」より。

「正月早々縁起でもないと叱られそうだが、昔の人は死に場所にこだわった。特に男は、三十過ぎればしょっちゅうそんなことばかり考えていたらしい。人の一生、どこで息を引き取ろうとたいして変わりはなさそうだが、生れたときが人委せだっただけに、いろいろと運や事情もあろうけど、死ぬときぐらい少しは自分の意志で時や場所を選びたいと思うのも人情である。花の盛りに死にたいと願い、その如月(きさらぎ)の望月(もちづき)のころと、ずいぶん細かく指定して、その通りに死ねた御仁(ごじん)もあるのだから、願ってみて損はないのかもしれないが、やっぱりそんな運のいい人は稀で。大方は、ここじゃない、こんな死にざまじゃないと、内心千々に乱れながら、それでも最後の見栄を張り、ぎごちなく笑ったりして死んでいく。
 〈畳の上では死ねない〉という言葉もいまでは死語である。ろくな死に方はしないという比喩としての意味は生きていても、実際畳の上で死ぬ人なんて、いまどきめったにいやしない。毎日の新聞の死亡記事を拾ってみたって、病院以外の場所で死んでいるのは十人に一人もいない。どの人も、この人も、申し合わせたように〈心不全のため……都内の病院で〉である。どんな病気だって最後は心不全に決まっているし、都内の病院という言い方も、白々(しらじら)と乾いた風景だけが思い浮かんで淋しくなる。だから、たまに〈杉並区の自宅で〉などと書いてあると、余計なお世話だがホッとする。よかったですねと言いたくなる。しかし、そんな死に方もいまや僥倖のようなもので、本人がいくら自分の家の畳の上で死にたいと言い張っても、周りが放って置かない。倒れれば、ものの五分で救急車が飛んでくる。嫌でも病院へ運ばれる。助からないことが目に見えていたって、家で死なれては迷惑とばかりに、とにかく病院へ運び込む。家は健康に住むための場所で、死に場所ではなくなってしまったのである。」

(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)

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2013・09・02

2013-09-02 07:30:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、三谷幸喜著「清須会議」より。

「安心は人を愚かにし、不安は人を賢くする。」

(三谷幸喜著「清須会議」幻冬舎文庫 所収)

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2013・09・01

2013-09-01 06:40:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「父の影、子の影」より。

「私は五十を過ぎた。昔の父の顔や声が、ふと夢に現れたりして、私は不思議な気持ちになっていた。四十年近い空白の歳月の果てに、父はどうして私の傍に戻ってきたりするのだろう。何の脈絡もなく、嘗ての日父が詠んだ俳句が思い出されたり、街の雑踏の中で、あの日の蝉時雨が蘇るのである。一度思い出すと、永い氷河期が終わって氷が溶けはじめるように、いろんな父が私の胸の中に現れては笑い、落ち着いた声で話しかけ、ときには剽軽(ひょうきん)な仕草で戯れかかったりする。たとえば、私が三十のとき、あるいは四十のころ、父はどうして私の前に姿を現さなかったのだろう。まるで、私が父の死の歳を過ぎるのを待っていたような、この性急さは、いったいどうしたことだろう。私は、思い出すたびに戸惑った。
 父は最後の数年はともかくとして――いや、その失意の時代をも含めて、父は自分の人生を全うしたのだ。むしろ、無残の姿を幼い末っ子に晒すことによって、その子の中に生きつづけたのである。末期のときまで雄々しく、優しく矜(ほこ)り高かった父親だけが、人として勝れ、人生に意味があったわけではなかろう。何十年という時間を経て、ふと蘇るのが、もっとも父らしい父のような気もするのである。
 そして私は考える。私は、軍刀の代りに草刈り鎌を腰にさし、落日を背にうつむいてリヤカーを曳いて帰ってきた父のように、これまで生きてきただろうか。苛酷な人の目に、一言も抗弁することもなく、口を固く結んで生きてきただろうか。――それは、いまから数十年の後に、私の息子が答えをだすことかもしれない。
 父が子に遺すのは、微かに揺れる影である。影は陽が傾くにつれて地面に長く伸び、子の体を包み込む。父の大きな影に包まれて、いまその子は不思議な安らぎの中にいる。
                                   (『現代』96年9月)」

(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)

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