下呂市萩原町上上呂にある鹿供養塚に久しぶりに出かけました。
鹿供養塚は文化六年(西暦1809年)今から200年前に大雪が降り1,114頭ものシカが死んだのを供養した塚です。
その時の積雪は2mにも達したということです。
現在このあたりの雪は積もってもせいぜい50㎝程度ですから驚異的な積雪です。
雪に弱いシカは身動きがとれず死んでいったものと思われます。
その当時もシカの農林業被害はあったと思われるにも関わらず供養した方々の優しさが感じられます。
日本人と野生動物の関わり合いの一旦を知ることができる史跡であると思っています。
この鹿供養塚の存在を知った時には下呂市萩原町上呂のあたりにシカはいませんでしたので昔はいたんだ。と思っていました。
ところが現在では上呂地区にもシカはしっかり生息していて農林業被害が発生して人々を悩ませています。
文化六年の大雪で絶滅したのかな?と思っていたのですが、翌年には農業被害が発生した記録が近くにある久津八幡宮に残っているとのことですし、明治6年に刊行された斐太後風土記の益田郡上呂郷(現在の下呂市萩原町上呂周辺)の村々の産品に鹿が登場しますので明治時代にはシカがいたことがわかります。
しかし下呂市萩原町のお年寄りに聞くとイノシシの被害を防ぐために寝ずの番はしたがシカはいなかったといいます。
70代の方々の話ですので昭和初頭にはいなかったことになります。
一体全体いつから何が原因でいなくなったのだろう?と思っています。
史実から考えると現在のこの地域でのシカの存在は長い時間を経て再び戻ってきたということがわかります。
しかし分布が戻ってきた理由は色々考えられますが私にはよく分からないといったところです。
ちなみに斐太後風土記を見ると飛騨地方の南部ではシカの存在を確認することができますが現在のシカの分布は白川村や飛騨市にも及んでいますので明治初頭よりシカの分布は広いということが推察できます。(一度斐太後風土記から明治初頭のシカ分布図を作ってみたいと思っています)
この原因はやはり小雪傾向にあるのだろうか?とも思えますが、そんな単純な理由ではないと個人的には考えています。
何だか話しが逸れてしまいましたが鹿供養塚を見ると色々なことを考えてしまいます。(管理人)
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その時の積雪は2mにも達したということです。
現在このあたりの雪は積もってもせいぜい50㎝程度ですから驚異的な積雪です。
雪に弱いシカは身動きがとれず死んでいったものと思われます。
その当時もシカの農林業被害はあったと思われるにも関わらず供養した方々の優しさが感じられます。
日本人と野生動物の関わり合いの一旦を知ることができる史跡であると思っています。
この鹿供養塚の存在を知った時には下呂市萩原町上呂のあたりにシカはいませんでしたので昔はいたんだ。と思っていました。
ところが現在では上呂地区にもシカはしっかり生息していて農林業被害が発生して人々を悩ませています。
文化六年の大雪で絶滅したのかな?と思っていたのですが、翌年には農業被害が発生した記録が近くにある久津八幡宮に残っているとのことですし、明治6年に刊行された斐太後風土記の益田郡上呂郷(現在の下呂市萩原町上呂周辺)の村々の産品に鹿が登場しますので明治時代にはシカがいたことがわかります。
しかし下呂市萩原町のお年寄りに聞くとイノシシの被害を防ぐために寝ずの番はしたがシカはいなかったといいます。
70代の方々の話ですので昭和初頭にはいなかったことになります。
一体全体いつから何が原因でいなくなったのだろう?と思っています。
史実から考えると現在のこの地域でのシカの存在は長い時間を経て再び戻ってきたということがわかります。
しかし分布が戻ってきた理由は色々考えられますが私にはよく分からないといったところです。
ちなみに斐太後風土記を見ると飛騨地方の南部ではシカの存在を確認することができますが現在のシカの分布は白川村や飛騨市にも及んでいますので明治初頭よりシカの分布は広いということが推察できます。(一度斐太後風土記から明治初頭のシカ分布図を作ってみたいと思っています)
この原因はやはり小雪傾向にあるのだろうか?とも思えますが、そんな単純な理由ではないと個人的には考えています。
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