と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

醤油もキャラも、薄味の方がよろしいようである。身体に良い。

2018年09月02日 08時50分52秒 | 精神のありかた

濃いキャラの方々と酒を飲んでいた。薄味のボキとしては辟易した。

 

 

昨日の懇親会では参った。退職した方々がたくさんおられた。ほとんどが再就職をしていた。大学のセンセをしているのもいたし、千差万別であった。

それにしても味が濃い。性格がである。

あまりにも濃い性格だと辟易してしまう。一緒に酒を飲んでいてもおいしくない。現役時代はこんなんじゃなかったのになぁと思った。キャラが濃すぎる。ボキ以外の人たちは。

ボキは本来が淡々として生きているだけである。いわばお任せ人生である。自分のわがまま勝手というのがない。生きているんだか、死んでいるんだかわからないような風来坊である。風が吹いたら、ふ~~~~~~っと飛ばされていくだけ。おもしろみもなんもない。

だから、味の薄い人間である。

もっとも人から食われたこともないし、他人を食ったこともないけど(^0^)。

 

味が薄い方がいい。なぜか。迷惑をかけないからである。自己主張ばかりしていると、毒素が体内に入ってしまう。自分の言葉で自分を痛めつけてしまう。そういう人は大病を患う。ボキがそうだったからである。エコノミークラス症候群で16日も入院したのだ。それで某大学大学院を中退してしまったのだ。せっかく大金ハラって入学(定年後)したのにである。もったいないことをしてしまったものである。

 

味が濃いと、どうしても他人への悪口が始まる。欠点を探して、それを責め立てる。アホだの、馬鹿だの、つまらねぇ人間だとか言っておだをあげていく。実際は自分の方がアホであり、馬鹿であり、つまらねぇ人間なにのに自分だけ舞い上がっている。

そんなことより、いるのかいないのかわからないくらいに存在感のない人間の方がずっと良い。だいいち、危険な思いをすることもない。他人からけんかを売られることもない。

宗教にも手を出さない方がいい。ある特定の宗教に凝り固まると、他の宗派から攻撃を受ける。どっちの教義が正しいのだ?とか論戦を挑まれる。新興宗教にそういうのが多い。だから手を出さない方が無難である。ただし、宗教が好きだったらその宗派の教典を読んでいればいいだけである。

好きなようにやっていればいいのだ。誤読の問題が若干あるが、自分が納得していればそれでよし。今は、インターネットでなんでも調べられる。要するに自分がそれでよしと思ったらそれで良いのである。

 

しかし、貴重な体験をしてきた。ボキは、宴会が始まって2時間もたってしまったから途中であったが帰った。ほろ酔い気分が心地良かった。「美女とアルコールのにおいでげっぷがでたから」と言って帰った。実際は、美女なんか誰もいなかったけどねぇ(^0^)。

あ、そうだ。

めがねを新調したから、これから取りに行ってくる。13万円もした。

それと教材研究をしなくちゃアカン。午後は太極拳がある。覚えの悪い弟子である。しょうもないか。もっとも師匠は、ボキの存在なんか忘れておられるだろうけど。

ヾ(*´∀`*)ノ

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淡々として生きるのが、一番の目標である

2018年09月01日 18時35分20秒 | 精神のありかた

昨日は東京に行っていた。

それから高速バスで帰ってきて、夜は塾である。これを人は多忙だなぁと言うのであろう。

事実、ボキの長男は、「親父はいつまで仕事しているつもりだろうか」と嫁さんに言ったそうだから、多忙だと思われているんだろうなぁと感じた。

しかし、ボキはできるんだったら、いつまでも現役でいたいのである。惚けも防ぐことができる。

塾でもそうだ。教えているからこそ、自分から学ぶのである。英語なんかまさにそうである。NHKの語学講座も聴き始めて7年目になる。でないと、教えられない。むろんまだまだ不十分な知識でもあるから。

しかし、ボキは焦らない。

淡々としてやっている。

焦ったってどうにもならない。

自分を受け入れているからでもある。

過去も否定しない。過去にやってしまったことは消えない。しかし、自己嫌悪まで陥ることもない。そんなことをやっても無駄である。

現在もそうだ。今やっていることは非常に貴重なことでもある。会っている方々とのご縁を大切に、こだわらずに、淡々として生きていればハラもたたないではないか。

経験上。

未来もそうだ。未来は、現在の後に続くのではない。未来は、現在のままである。だから、「今」が大事なのである。今の連続が、未来でもあるからだ。

こういうボキのことを覇気がないと言う方もむろんおられる。元気がないとか、やる気がないとかとも言われる。

そりゃそれで大いに結構である。それは他人から見た評価であるからだ。

そんなもんにこだわって人生を間違えないことである。

 

今日はこれから千葉市に出かける。九時からある会合がある。退職した方々との懇親会もお昼頃ある。これまで、断ってきたが、今回は参加することにした。

なぜなら、あまり不参加を繰り返していたら忘れられてしまうからだ。ま、大先輩からの誘いもあったからだが。

つきあいというのは嫌いではない。それでも、つきあいと自称して、酒を飲み過ぎた。現役時代に。

だから病気になっちまったのである。

今日も、気をつけよう。

途中で帰ってもよし。

「あ、気持ち悪くなってしまった」とか「美人とアルコールには弱くて」とか言って帰ってしまおうっと。

わはははっはははっははははっはははっははははっは。

 

その前にウオーキングである。外は気持ち良い。

淡々として、出かけてきます。

 

ヾ(*´∀`*)ノ

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つまんなさそうに生きているよりも、面白がって生きている方が活性化できます

2018年08月26日 07時54分46秒 | 精神のありかた

面白がって生きていることだ。人生を活性化させるから。なんでもそうでっせ。

 

 

なんでもそうだが、「面白がる」ことが大事なことなのではないのかと思う。

一昨日の5番目のアルバイト決定もそうだ。面白がっているから、試験を受けてみる気になったのである。それに、ボキは普通科高校で授業をやったことがない。二校の農業高校のみで、あとは長い長いギョーセーショク&カンリーショク畑にいた。それで37年間のセンセ生活を終えてしまった。寂しいかぎりであった。柔道部の顧問も二校しかやっていない。柔道を一緒にやって、若い人たちとのふれあいを求めていたのに、出来なかった。

これもシナリオがあらかじめ書かれていたのである。そういう運命だったのだ。

だから、定年後に塾だの、大学の非常勤講師だの、通信制高校の講師だの、今回の私立高校講師だの、交通安全講話専門の講師だのとやっているのである。合計5つやっていると書いているのだ。

多忙だと思われるかもしれない。全然そんなことはない。時間だけ行けば良いのだから、拘束時間は短い。当然、収入も少ない。あたりまえである。時間的拘束が短いからである。

その代わり、充実している。勉強しなきゃこっちも困るからである。特に塾は、あらかじめどんな生徒を持つかわかっていない。ごまかしがきかない。実力勝負である。こいつはアタマの刺激になる。だから、毎日NHKの英語講座を聴いているのだ。しかも二つ。でないとわからないの連発になってしまうではないか。

したがって、スリルが多い。

ドキドキするようなスリルがある。(あまりドキドキするようなこともないけど)

これが面白いのである。

こんな面白いことはない。変人だと言われる由縁である。

 

わははははっははははっははははっははははっはは。

 

よく言われることがある。そんなに稼いでどうするんだい?って。誤解の猪八戒である。損得でやっているのではないからである。だいいち稼いでいない。時間数にしたら、まったく稼いでいるというのに値しない。そりゃぁ、毎日8時間稼いでいたら、これだけの種類をやっていたらずいぶん稼ぐことになる。

違うのである。事実上そんなことは不可能でもあるし。

ボキは、損得勘定は巧みな方である。あるが、面白がってやっているから出来るのである。ある意味、ボランティアのようなものである。

年金をいただいているから出来るのである。ありがたいものである。

こんな面白いジジイ生活を送ることができるだけ、シアワセである。

 

今朝は、いつも徘徊しているウオーキングコースで神社に寄ってきた。

これだけのアルバイトをさせていただいていることを感謝してきた。

神社に行っても、ボキはお願いごとをして来ない。ありがとうございますとお礼を言ってくるだけである。(神社はお願いごとをしてくる所にあらずと思っているので)

こんな風来坊のジジイが、今さら神社でお願いごとをしても、神様は呆れかえっているだろうから。

 

わははっはははっははははっはははははははっは。

 

ヾ(@⌒―⌒@)ノ

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淡々として生きる。これが正岡子規や尾畠春夫氏に教えていただいたことである。感謝である。

2018年08月23日 08時19分16秒 | 精神のありかた

淡々として生きることは、死ぬことよりも難しいのではないのか。いろんなしがらみがあるし。もっとも死ぬのも嫌だけどねぇ。めでたくポッと逝くのが理想だけど。

 

 

淡々として生きる。

これである、これ。ボキの目標。

今までが、なにしろ邪気に満ちた前半生であったからだ。まったく恥の多いジジイである。とてもじゃないが、よく生きていられるもんだと思う。それほど邪気に満ち満ちていた。

だからである。だから淡々として生きていくことを目標にしたいのである。

正岡子規の「病牀六尺」にある。岩波文庫ワイド版である。ボキの愛読書である。

最初に、病気の苦しいことが書かれる。

引用してみる。

 

>○病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。僅わずかに手を延ばして畳に触れる事はあるが、蒲団ふとんの外へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。甚はなはだしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある。苦痛、煩悶、号泣、麻痺剤まひざい、僅かに一条の活路を死路の内に求めて少しの安楽を貪むさぼる果敢はかなさ、それでも生きて居ればいひたい事はいひたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限つて居れど、それさへ読めないで苦しんで居る時も多いが、読めば腹の立つ事、癪しゃくにさはる事、たまには何となく嬉しくてために病苦を忘るるやうな事がないでもない。

 

たった六尺の布団が、広すぎるくらいであるとまで書いている。引き込まれる。脊椎カリエスという死病を患いながら、あれだけの俳句世界を構築した正岡子規である。どんなに辛かったであろうか。それを思うと、ボキもため息しかでない。

しかしである。

しかし、正岡子規はこんなことも書いているのだ。

 

>○余は今まで禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。

 

これである。

禅者の恐山菩提寺の住職代理を務める南直哉氏も、なんかのテレビ番組でこの正岡子規の文章に触れていた。悟りという部分である。

平気で死ぬことではない。むしろ平気で生きていることこそが、悟りであると正岡子規は言っているのである。

これは、ある意味大いなるカルチャーショックであった。

つまり、平気で生きるためには、「過去も未来も現在も」「平気で受け入れる」ということなのである。

このことは、時として激しい自己嫌悪に陥ることが今でもあるボキには、宝であった。特に、定年後に入学した某大学大学院を中退せざるを得なくなったときに、この部分が迫ってきたのである。この文庫本は、東洋一の巨大病院でベッドに寝かせられていたときも読んでいたからである。寝ながら、よ~~~~く考えていた。もしかして、学位を取りたいというのはオノレの執着だけではなかったのか、と。その結果中退したのだった。

 

さらにある。

それは周防大島で2歳児を救出した尾畠春夫氏である。この方の無私の精神に打たれた。

世の中の浮沈や、地位名誉なんてまるっきり関係ないのである。そんなもんとは無関係に、平気のヘイザで行動をなさっている。この方のように無私の精神で行動をしているのだろうかと思った。

いろいろと考えさせられることが多い夏である。

 

明日は、5番目の副業をやりたいので二次試験に行ってくる。一次試験は通ったからである。千葉市である。合格できたら、デスクトップパソコンを買いたい。一番高い奴を。

わはっははははっははっはははっはははっはははっはははは。

 

淡々として「行動」あるのみ。

ボキはそれしか出来ないからだよ~~~~ん。

 

ヾ(@⌒―⌒@)ノ

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自分を消してしまう人 中根東里は凄い人じゃなぁ 教育は愛であるという見本のような人であります

2018年05月12日 18時33分53秒 | 精神のありかた

中根東里という儒者がいたそうな(1694~1765)。江戸後期の儒者たちの中でも稀有の俊秀であったそうな。

なにしろ自分の名が残らないように、作品を燃やし続け、隠れ続け、自分の存在や生きていた痕跡を消し続けていたのだから凄い人がいるもんだ。こんなこと、現代の学者先生や研究者にはとてもできない相談でしょうけど。実績がなければ、学位論文さえ提出できないのだからねぇ。自分を消していたら、喰っていけないだろうし。

俊秀であった。元禄の時代に中国語に通じて自在に操れたのだから。鎖国をしていた江戸時代にあって伊豆下田の貧乏寺で小坊主をしていた。小坊主時代に、お経の漢文には中国語本来の音が残っていることに気がついてしまったのだ。

寺を飛び出してしまって、中国僧のいる黄檗山萬福寺に移ってとうとう中国語をマスターしてしまった。

年少にしてあの大蔵経全巻を読破してしまったのだから恐れ入る。

これだけ読書をしていたし、さらに中国語の音がわかっていたのだから敵無しである。荻生徂徠も、書の細井光沢も、朱子学の室鳩巣等からも自宅に招かれて共に勉強した。

中根東里のエライところは、こんなに学問ができるのにどこにも仕官しなかったことである。

喰うために学問を愛したわけではなかった。ゼニがあれば、読書をした。ゼニがなくなったら竹の皮で草履を作ってそれを売っていた。それで暮らした。だから竹皮草履先生と呼ばれていたそうだ。

当然、妻もいなかった。しかし、子ども好きだった。飢えて困っていた幼い姪っ子を引き取って一緒に暮らしていた。まるで良寛のごとしだ。もっとも良寛は子どもと暮らしていたわけではないけど。

下野の国、佐野の植野という小さな村で、村人の要請に応じて寺子屋の師匠になった。それで暮らせるようになっていった。

肉親を失った者には、「出る月を待つべし 散る花を惜しむことなかれ」と言った。

さらにある。佐野市ホームページには以下のような記述もある。

 

佐野市指定文化財 中根東里学則版木



佐野市指定文化財 中根東里学則版木の写真元文2年(1737)植野の泥月庵(現在の植野小付近)で、中根東里が弟子を教育するために作った学則の版木です。当時の教育を研究するのに重要な資料となっています。

中根東里は、植野村の医師金束信甫に招かれて、享保20年(1735)江戸から来て、信甫の家の泥月庵で塾を開きました。

東里42歳、信甫24歳の時からです。学則は、陽明学の大本を明らかにしたものです。この版木は、市に寄付された須永文庫にあり、材質は欅で、1枚に20字ずつ陽刻されています。
 

 

 今の学者サマや研究者サマにはとうてい真似できない行動だろう。

なにしろ「自分を消してしまう」のだから。

「教育は愛である」と思う。こういう人を見ていると、ボキなんぞマダマダだなぁと慚愧の思いである。自分が消せないのだから。ゴミ論文を書いたり、こんなつまらないブログというものをやっているし。しかも、こんなもんナンの実績にもならない。実績にしようとも思っていないけど。ブログだって、打鍵しながら考え事をしているだけだけど。無意味かも知れないけどねぇ。

情けない。

中国語だって全然ダメだし。

教育でもって喰ってきてしまったし。

昨日なんか、さらに第三の副業に就職してしまったし。

 

自分を消すなんてボキにはできない。

 

ああああああああああああああああああああああああああああああああ!

情けない。

 

ヾ(@⌒ー⌒@)ノ

 

中根東里の「壁書」


一 父母をいとをしみ、兄弟にむつまじきは、身を修むる本なり。本かたければ
 末しげし。
一 老を敬ひ、幼をいつくしみ、有德を貴び、無能をあはれむ。
一 忠臣は國あることを知りて、家あることを知らず。孝子は親あることを知り
 て、己れあることを知らず。
一 祖先の祭を愼み、子孫の敎を忽にせず。
一 辭はゆるくして、誠ならむことを願ひ、行は敏くして、厚からんことを欲す。
一 善を見ては法とし、不善を見てはいましめとす。
一 怒に難を思へば、悔にいたらず。欲に義を思へば、恥をとらず。
一 儉より奢に移ることは易く、奢より儉に入ることはかたし。
一 樵父は山にとり、漁父は海に浮ぶ。人各々其業を樂むべし。
一 人の過をいはず。我功にほこらず。
一 病は口より入るもの多し。禍は口より出づるもの少からず。
一 施して報を願はず。受けて恩を忘れず。
一 他山の石は玉をみがくべし。憂患のことは心をみがくべし。
一 水を飲んで樂むものあり。錦を衣て憂ふるものあり。
一 出る月を待つべし。散る花を追ふ勿れ。
一 忠言は耳にさからひ、良藥は口に苦し。

 

中根東里
名は若思、字は敬父、伊豆の人、幼にして僧となる。物徂徠の門に学ぶうち、悟るところあり、
遂に還俗す。後、室鳩巣に師事せり。後に王学に転じてより、独り之を講究す。生平赤貧、或
は江戸に居り、或は鎌倉に往き、上毛に寓す。明和二年二月七日相模の浦賀に歿す。



※2

中根東里 『清貧で学問に励む』

原文

京浜浦賀駅から鴨居方面へ向かう。途中のバス停「新町」の先に浄土宗、顕正寺がある。境内に江戸時代の陽明学者、中根東里が眠る。 墓石は平頭角柱型で伊豆山石製。塔身の高さ三〇・四㌢、側面の幅二〇・九㌢、基礎の高さ十七・五㌢。 正面に「東里居士(こじ)墓」、裏面に「居士姓中根、諱若思、字敬父、亦孫平、伊豆人也」。 いずれも東里の自筆だ、といわれる。左側面には別筆で「明和二年(1765)乙西春二月七日以疾、年七十二」。 近くの標識にはこう記されている。「中根東里先生、先生廿二歳ノ時 父ヲ失ウ、禅寺二入り浄土教ヲ修ム、儒学二移り徂徠(ソライ)、 鳩巣(キュウソウ)二師事ス。ノチ陽明学二転シ、遂(ツイ)ソノ極致二達シ、万物一体ノ義ヲ明力二ス、 宝暦十二年(1762)二月七日二卒ス年七十二
昭和三二年弥生 横須賀市
               横須賀文化協会」
つまり東里はー時、出家をしたが、著名な学者だった荻生(おぎゆう)徂徠、更に室(むろ)鳩巣に弟子入り、 古学派の学者となり、また陽明学を修めー家をかまえるに至った、という。 中根東里の説くところは天地万物一体の義を明らかにし、その心は仁であり、人が学問するのはその仁を実践するためにある、という。 彼自身、清貧に甘んじ学問に励んだ。
浦賀に来たのは姉が浦賀奉行所与力の合原勝房に嫁していた。その縁を頼って下野(しもつけ)栃木県)天明郷(今の佐野市)の知松庵から浦賀の合原家に移り住み、 晩年を過ごし没後、母の墓所である顕正寺に葬られた。なお姉の合原夫妻は、浦賀港をへだてた対岸の西浦賀町二丁目、常福寺の境内に眠る。 墓石によると、勝房は享保十五年(1730)、妻(東里の姉)は明和六年(1769)に没した。



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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/