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最近、庄野潤三さんが死んだ(2009年9月21日)。文学史的には第三の新人と呼ばれ、わたしの好きな吉行淳之介や遠藤周作、阿川弘之、安岡章太郎などと同時代の作家である。名前は知っていたが、吉行以外の作家はあまり読んでいない。遠藤、阿川、安岡氏は読んでみたいという気はあったが読まないで過ごしてきた。しかし、庄野氏に至っては読みたいという気も起こさなかった。名前がなんか洒落ていなくて、作品もオーラがないような気がしたのがその原因か。ここにきて、ちょっと読むかなと思い『けいこちゃんのゆかた』というのを読んだ。小説だと思い読み始めるが、勝手がどうも違う。随筆というのとも違う。日記でもない。とにかく不思議な本である。いいか悪いかと問われればいいと答える。年老いた夫婦が子供を送り出した後、二人っきりで仲良く生活する日常の様が描かれている。毎日の二回の散歩、近所の人たちとの暖かい交流、鳥や鈴虫のこと、子供と孫との交流、ハーモニカ演奏などが淡々と描かれている。外国生活でのよい習慣として、貰
い物をしたらすぐお礼文を書くということを実行し、子供たちもその習慣を受け継いだとして感謝をする。この文章の中には、波風は吹かず、雨も降らないし、刺もない。
本人は脳梗塞かなにかで倒れて、リハビリの最中である。今は1日約2万歩の散歩をしているが、最初は妻に付き添ってもらいリハビリの散歩をしている。その介助の必要がなくなると杖をついて散歩をし、やがて杖もつかなくなる。今は妻に頼まれた買い物をして帰るまでになる。結構大変なリハビリの途中が省かれているのである。他にも悪いことは省かれいいことしか書かれてない。そのため、まるで夢の中にいるようでもあり、天国はさもありなんと思われるような世界である。著者とその奥さまが体現者なのだが、私が体現するであろう老後とは雲泥の差である。
何でこうなるのかが大切で、これは著者自身の人格や思想のなせる技なのであろう。派手なことを好まず、日常の細かな変化を喜び筆にとる、人の悪口を言わずいたわりつつお付き合いをする。人からものをいただいたらお礼をいい、心を込めてお返しをする。わかっているけど中々できない。そんな庄野さんはいったい何者かと考えて、ふと思い当たる。かれは上質な教育者なんだと・・・
彼の父君はかの帝塚山学院の創立者であるし、彼自身も兵隊から帰ってきて教壇に立っていたことがある。嘘は言わず、ただ前ばかり見ている、教育者だと結論するのがおさまりがいい。亡くなられて残念だし、残された奥さまの寂しさはひとしおだろうし子供や孫も辛かったろう。ご冥福を祈る。
最近、庄野潤三さんが死んだ(2009年9月21日)。文学史的には第三の新人と呼ばれ、わたしの好きな吉行淳之介や遠藤周作、阿川弘之、安岡章太郎などと同時代の作家である。名前は知っていたが、吉行以外の作家はあまり読んでいない。遠藤、阿川、安岡氏は読んでみたいという気はあったが読まないで過ごしてきた。しかし、庄野氏に至っては読みたいという気も起こさなかった。名前がなんか洒落ていなくて、作品もオーラがないような気がしたのがその原因か。ここにきて、ちょっと読むかなと思い『けいこちゃんのゆかた』というのを読んだ。小説だと思い読み始めるが、勝手がどうも違う。随筆というのとも違う。日記でもない。とにかく不思議な本である。いいか悪いかと問われればいいと答える。年老いた夫婦が子供を送り出した後、二人っきりで仲良く生活する日常の様が描かれている。毎日の二回の散歩、近所の人たちとの暖かい交流、鳥や鈴虫のこと、子供と孫との交流、ハーモニカ演奏などが淡々と描かれている。外国生活でのよい習慣として、貰
い物をしたらすぐお礼文を書くということを実行し、子供たちもその習慣を受け継いだとして感謝をする。この文章の中には、波風は吹かず、雨も降らないし、刺もない。
本人は脳梗塞かなにかで倒れて、リハビリの最中である。今は1日約2万歩の散歩をしているが、最初は妻に付き添ってもらいリハビリの散歩をしている。その介助の必要がなくなると杖をついて散歩をし、やがて杖もつかなくなる。今は妻に頼まれた買い物をして帰るまでになる。結構大変なリハビリの途中が省かれているのである。他にも悪いことは省かれいいことしか書かれてない。そのため、まるで夢の中にいるようでもあり、天国はさもありなんと思われるような世界である。著者とその奥さまが体現者なのだが、私が体現するであろう老後とは雲泥の差である。
何でこうなるのかが大切で、これは著者自身の人格や思想のなせる技なのであろう。派手なことを好まず、日常の細かな変化を喜び筆にとる、人の悪口を言わずいたわりつつお付き合いをする。人からものをいただいたらお礼をいい、心を込めてお返しをする。わかっているけど中々できない。そんな庄野さんはいったい何者かと考えて、ふと思い当たる。かれは上質な教育者なんだと・・・
彼の父君はかの帝塚山学院の創立者であるし、彼自身も兵隊から帰ってきて教壇に立っていたことがある。嘘は言わず、ただ前ばかり見ている、教育者だと結論するのがおさまりがいい。亡くなられて残念だし、残された奥さまの寂しさはひとしおだろうし子供や孫も辛かったろう。ご冥福を祈る。