NHK教育で始まった新番組『知るを楽しむ』。
水曜日のテーマは「なんでも好奇心」。
4月は横浜中華街~人・街・食の歴史物語を全4回にわたって
放映する予定になっています。
横浜中華街はよく訪れるところですから、
それこそ興味津々で第1回を見ました。
牌楼をくぐって横浜中華街に足を踏み入れると、
この街の道がみな斜めに走っているのが
不思議だったのですが、幕末に埋め立てて作られた
横浜新田の跡地に作られたことが
番組内で紹介されていました。
しかも当時の新田の形状と現在の街の形状は
ピッタリ一致するのです。
つまりあの斜め道はあぜ道の名残りだったのです。
でも、確か震災や空襲のたびに復興した中華街です。
現在までずっと同じ形状を保ったというのも
何か理由があったのかもしれません。
西洋文明を日本に紹介するための橋渡しをしたのが
華僑と呼ばれる中国人です。
中国では既に西洋人相手に取り引きを行っていましたから
英語もわかるし、日本人とは筆談で交渉ができる
というメリットがあったため、
居留地で商売を始める西洋人たちがこぞって彼らを
雇ったのです。
こうして彼らは西洋人とともに横浜にやって来ました。
巧みな商才と感覚で
西洋人と日本人との通訳をつとめるなど(買弁=「ばいべん」と言った)、
彼らの存在なくして日本の文明開化はなかった
ということでしょう。
彼らの街づくりは独特だったようです。
もちろん日本からは就業規制を受けていたこともあって
限られた業種の中から
料理人、理髪、洋裁などに就いたようで、
例えば広州出身者は料理人、
上海や香港出身者は貿易関係というように
出身地ごとに業種がだいたい決まっていたというのも驚きでした。
競合するのではなく
それぞれの得意とする分野をいかしながら
彼らの街とくらしを作り上げていったのです。
横浜開港当時の中国は清国。
清朝政府から追われる身であった
孫文をかくまったのも
横浜中華街の華僑たちでした。
孫文と同郷の広州人を中心に華僑と呼ばれる人達が
日本と清国の微妙な関係の中で
どのようにして生きてきたのかなど、
末裔の方達による興味深い話がきけました。
それにしても孫文が歩いたかもしれない道を
知らずに歩いていたのかと思うと…。
水曜日のテーマは「なんでも好奇心」。
4月は横浜中華街~人・街・食の歴史物語を全4回にわたって
放映する予定になっています。
横浜中華街はよく訪れるところですから、
それこそ興味津々で第1回を見ました。
牌楼をくぐって横浜中華街に足を踏み入れると、
この街の道がみな斜めに走っているのが
不思議だったのですが、幕末に埋め立てて作られた
横浜新田の跡地に作られたことが
番組内で紹介されていました。
しかも当時の新田の形状と現在の街の形状は
ピッタリ一致するのです。
つまりあの斜め道はあぜ道の名残りだったのです。
でも、確か震災や空襲のたびに復興した中華街です。
現在までずっと同じ形状を保ったというのも
何か理由があったのかもしれません。
西洋文明を日本に紹介するための橋渡しをしたのが
華僑と呼ばれる中国人です。
中国では既に西洋人相手に取り引きを行っていましたから
英語もわかるし、日本人とは筆談で交渉ができる
というメリットがあったため、
居留地で商売を始める西洋人たちがこぞって彼らを
雇ったのです。
こうして彼らは西洋人とともに横浜にやって来ました。
巧みな商才と感覚で
西洋人と日本人との通訳をつとめるなど(買弁=「ばいべん」と言った)、
彼らの存在なくして日本の文明開化はなかった
ということでしょう。
彼らの街づくりは独特だったようです。
もちろん日本からは就業規制を受けていたこともあって
限られた業種の中から
料理人、理髪、洋裁などに就いたようで、
例えば広州出身者は料理人、
上海や香港出身者は貿易関係というように
出身地ごとに業種がだいたい決まっていたというのも驚きでした。
競合するのではなく
それぞれの得意とする分野をいかしながら
彼らの街とくらしを作り上げていったのです。
横浜開港当時の中国は清国。
清朝政府から追われる身であった
孫文をかくまったのも
横浜中華街の華僑たちでした。
孫文と同郷の広州人を中心に華僑と呼ばれる人達が
日本と清国の微妙な関係の中で
どのようにして生きてきたのかなど、
末裔の方達による興味深い話がきけました。
それにしても孫文が歩いたかもしれない道を
知らずに歩いていたのかと思うと…。