松静自然 -太極拳導引が教えてくれるもの-

松静自然とは落ち着いた精神情緒とリラックスした身体の状態をいい、太極拳導引の基本要求でもあります。これがまた奥深く…

安定は求め続けるもの?

2006-04-18 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
不安定は良くないことなのか?という問いかけは、
実はもうひとつの問いかけがあってのこと。
それは逆説的ともいえそうな、
安定はいいことなのか?というもの。

誤解を招きやすい表現なだけに
迷っていたのだけれど、
やはりいま自分が気になっていること、
気づき始めていることを書くことにしてみた。
不安定よりも安定を好むのは
普通であり自然なことに思えるのだが、
この好みというのも絶対的なものではないように思う。

たとえば非日常的なケースでは
不安定な状態がもっている
ハラハラドキドキ的な高揚感を好ましく思うこともある。
例えばゲームが楽しいと思えるのも
それが非日常性の展開だからで
これが日常となったら、さぞやしんどく思うのではないか。

つまり不安定とはドラマチックであり
展開が読めず予想が立たない状況下でありながら
何とか予測しようとする困難さが
ほどよい緊張感となれば楽しく、
限界を越えれば過剰な緊張を招く。
いうならば変動エネルギーそのもの。
若さなんていうものも
不安定要素が多いことの表れかも。
ということは未熟さも不安定と同義かな。

一方の安定は揺らぎや動きがない
固定化した静的状態である。
外界からの影響も受けにくそうで
堅牢なイメージになるのかもしれない。
熟年なんていうのは経験もそこそこ積み、
ものの道理もわきまえ、精神的な余裕もあるような
落ち着いた印象なのかもしれない。

このように考えてくると
人が生まれて死ぬまでの命の期間は
不安定から安定へと移行する時の流れにもみえてくる。
ゲーテが『若きウェルテルの悩み』(だったと思う)の中で
《生きている間は迷うに決まっているものだ》と書いていたのも、
こういうことだったのかなぁ。

もともと生きることは不安定そのものなのであり、
不安定であることを受け容れた上で
その不安定な波の振幅を
なるべく小さく緩やかな穏やかなものにするには
どうすればよいのかと考える。
導引が目指している養生の考え方でもある。

だからまずは不安定を感じ、
それを受け入れることから始まるのかも。
とは言いつつも、実際に後から後から
不安定な状態がいろいろな形で現れ続けると、
どんどん安定から遠ざかっているような気分になる。
自分がダメなわけではない、
それが普通であり自然な成り行きとは思いつつも
やはりどこか心理的にメゲたくなるなぁ。

あきらめればそこまでなのだ(たぶん)。
安定とはどこまでも求め続けていく中にこそ
存在するのかも。
ということは不安定の中にある?
あぁ…今はもうココが限界orz