松静自然 -太極拳導引が教えてくれるもの-

松静自然とは落ち着いた精神情緒とリラックスした身体の状態をいい、太極拳導引の基本要求でもあります。これがまた奥深く…

続・安定は求めるもの

2006-04-19 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
安定は求めるものではないかということから
更に気になり出したのが、
安定性や安定感というようなことば。
“○○性”という表現には
なんとなく揺らぎがあるように思える。
そこには断定しない、
断定できない含みのようなものがあるのではないか。

その意味でいけば、安定した動きという表現は
厳密にいえばおかしな表現なのかもしれない。
より正確に伝えようとすれば
「安定性の高い動き」「安定感のある動き」
などといった表現になるのではないか。

これまでの日本語には
微妙なニュアンスを使い分ける傾向があったけれど、
最近はとくに何でもかんでもひとくくりにしてしまい、
一語が表現できる(意味を伝えられる)範囲を
超えてしまっているのではないかと思われる現象が
起きているのでは?

「そんなつもりで言っていない」
「いや言っている」といった類いのトラブルは
年中どこかで起きているみたい。
ことに掲示板などのコメント類は
ビックリするような言葉が並ぶことも少なくない。
こういった言葉の硬直化も
緊張を招きそうだなあという気もする。
ほんとにあらゆるところに緊張の種というか芽はあるもので、
自分の体調精神状態などによっては、
とんでもないところで躓いたり痛い思いをすることになる。
そしてまた誰かに同じような思いをさせていたりする
自分がいるわけだ。

でもそういう状況がまったくなくなるとしたら、
世の中はひどくつまらないものになるのだろうなあ
という気はする。
がっちり凝り固まった世界は息苦しいし、
ある程度の揺らぎは必要なのだろうと思う。
そう、程度の問題だ。
程度(あんばい)の判断は
全体を見通す力量がなければむずかしい。

やたら難しく考え込んでしまいそうになるときに
思い出すのは、自分の体のこと。
体は理屈などお構いなしにバランスをとろうとしている。
猫背でアゴが出る(悪いとされる)姿勢だって、
そうやってバランスをとっているのだ。
ただそのバランスの取り方が、
本来的な姿勢バランスにとって
好ましいのかどうかということが問題になってくるのだ。
目指す方向が決まれば自然と導かれて行くように、
もともとはできているのではないのかな。
良くも悪くも連鎖するのであれば
より良い方向へ意識で働きかけるきっかけを起こす
必要はあるのかもしれないが、
すべてを制御する(できる)と思い込むことは
過剰になる可能性が高い。
体への信頼を育てることも大切かもしれないなと思う。
これも「いかし、いかされ」ということなのかなあ。

安定性や安心感という揺らぎを含んだ表現は、
ある意味「これでいい」というような思いを持ったときに
はじめて固定化するものなのかもしれない。
これだ!と思ったのに、いや違うかも…
と、思うことの繰り返しで来ている。
そしてそれは多分、ほんとに固定化する(生を終える)まで
続くのかもしれないなあ。
できれば螺旋状に
少しずつ高みに向かっていられるようにと
こっそり願うのだ…。