先週末からちょっといろいろとあって更新が滞ってしまった。
しかもそういう時に限って
連続して興味ある気づきがあったりする。
忘れてしまわないうちに少しでも書き留めておくことにした。
実はあることがきっかけとなり、
知人とメール交換をしていたときのこと。
ひとつの同じ対象について互いの見解を交換したのだが、
ひじょうに対照的な内容だった。違いがくっきりと現れていた。
その対象に寄せる関心の度合いや対象とのスタンスの取り方、
独自の思考傾向や感受性など、
いろいろな要素が反映した結果だと思う。
つくづく十人十色だと思った。
そう、こういう違いが
体の状態にも反映していないわけがないよね…。
たとえばコップの中の水をみて
「もうこれしかない」と思う人と
「まだこんなにある」と思う人とでは
心理的あるいは精神的にも違いがあるだろうなと
思う人は多いだろう。
日常生活ではこれと似たような状況は日常茶飯事、
いちいち気にしてなんかいられないと
思いながらやり過ごしていることが多い。
でも、そう思っているのは頭の中だけで、
実はこころとからだはその一つ一つに対して
いちいち反応してたりするのではないのかという気もする。
冒頭で紹介した知人とのやりとりは、
いろいろな事情を考慮した上で無難な道を探ろうとする
「対象と自分と環境までを含めて考えてみた」ものと
「対象と自分との関係を中心にすえて考えてみた」ものとも
いえそうだ。
前者のような社会性や公共性のような視点から
物事を考えていくタイプはいわゆる
「他人や場の雰囲気に気を配る、気遣う」
「周囲を気にする→周囲の期待に応える」という視点が常にある。
そこに重きをおくばかりに
「他人のために用意された自分」を演じることになる危険性も
はらんでいる。
素の自分をどこかに置き忘れてきてしまうのだ。
これはある意味、満たされなかった思い残しのようなものを
少しずつ澱のようにして貯め込む可能性がありそう。
後者の場合は、対象と自分という
狭い世界で考えているので、
必ずしも周囲に受け入れられるとは限らないこともあり得る。
だがその一方で他の要素が混じらない分、
対象への純粋な思いは満たされることになるのではないか。
自分らしさを実感できそうな印象があるかな?
いわば“おいちゃん”的視点と
“寅さん”的視点ともいえそうなこれらは、
もともと一人の中に共存しているものだろう。
たとえば、まじめなタイプの人は“おいちゃん”の方が
働きすぎている傾向があるのかもしれない。
今の世の中“おいちゃん”と“寅さん”の切り替えが
うまく出来なかったり、
両者のバランスがうまくとれずに
何となく自分に不安を感じている人が少なくないのかも。
いずれにしてもバランスが良くないということは
何かしらの緊張を抱えていることになる。
緊張自体が悪いのではない。
緊張したら緊張を解くことを忘れなければいいのだ。
緊張を解かずに緊張し続けること、
習慣化してしまうことが良くないのではないのかな。
緊張の習慣化を防ぐには緊張を知ること。
いろんな緊張の仕方があることを知ること。
そして自分で自分の緊張に気づくことからかな?
しかもそういう時に限って
連続して興味ある気づきがあったりする。
忘れてしまわないうちに少しでも書き留めておくことにした。
実はあることがきっかけとなり、
知人とメール交換をしていたときのこと。
ひとつの同じ対象について互いの見解を交換したのだが、
ひじょうに対照的な内容だった。違いがくっきりと現れていた。
その対象に寄せる関心の度合いや対象とのスタンスの取り方、
独自の思考傾向や感受性など、
いろいろな要素が反映した結果だと思う。
つくづく十人十色だと思った。
そう、こういう違いが
体の状態にも反映していないわけがないよね…。
たとえばコップの中の水をみて
「もうこれしかない」と思う人と
「まだこんなにある」と思う人とでは
心理的あるいは精神的にも違いがあるだろうなと
思う人は多いだろう。
日常生活ではこれと似たような状況は日常茶飯事、
いちいち気にしてなんかいられないと
思いながらやり過ごしていることが多い。
でも、そう思っているのは頭の中だけで、
実はこころとからだはその一つ一つに対して
いちいち反応してたりするのではないのかという気もする。
冒頭で紹介した知人とのやりとりは、
いろいろな事情を考慮した上で無難な道を探ろうとする
「対象と自分と環境までを含めて考えてみた」ものと
「対象と自分との関係を中心にすえて考えてみた」ものとも
いえそうだ。
前者のような社会性や公共性のような視点から
物事を考えていくタイプはいわゆる
「他人や場の雰囲気に気を配る、気遣う」
「周囲を気にする→周囲の期待に応える」という視点が常にある。
そこに重きをおくばかりに
「他人のために用意された自分」を演じることになる危険性も
はらんでいる。
素の自分をどこかに置き忘れてきてしまうのだ。
これはある意味、満たされなかった思い残しのようなものを
少しずつ澱のようにして貯め込む可能性がありそう。
後者の場合は、対象と自分という
狭い世界で考えているので、
必ずしも周囲に受け入れられるとは限らないこともあり得る。
だがその一方で他の要素が混じらない分、
対象への純粋な思いは満たされることになるのではないか。
自分らしさを実感できそうな印象があるかな?
いわば“おいちゃん”的視点と
“寅さん”的視点ともいえそうなこれらは、
もともと一人の中に共存しているものだろう。
たとえば、まじめなタイプの人は“おいちゃん”の方が
働きすぎている傾向があるのかもしれない。
今の世の中“おいちゃん”と“寅さん”の切り替えが
うまく出来なかったり、
両者のバランスがうまくとれずに
何となく自分に不安を感じている人が少なくないのかも。
いずれにしてもバランスが良くないということは
何かしらの緊張を抱えていることになる。
緊張自体が悪いのではない。
緊張したら緊張を解くことを忘れなければいいのだ。
緊張を解かずに緊張し続けること、
習慣化してしまうことが良くないのではないのかな。
緊張の習慣化を防ぐには緊張を知ること。
いろんな緊張の仕方があることを知ること。
そして自分で自分の緊張に気づくことからかな?