久しぶりの推手練習をしました。
先生と対すると、どうしても緊張します。
例の“欲をかいた状態”ですね。
必要以上に相手を意識するために
自意識も強くなっているとでもいいましょうか。
先生との練習では
ほとんど双手で行っていますが
四正を意識しながら制御するまでにはいたらないので
四正推手にはまだまだ遠い感じです。
それでも実際の現象を通して
少しずつ意識できるようになっているとは思います。
導引練習の一環として取り組み始めた推手。
いわゆる競技推手のような
試合形式というか勝負をつけることが目的ではなく、
むしろ“こう着状態”を保持する方向というのか
流れをつなげていくことが主要目的になっているような気がします。
いわゆる相手の出方をうかがっている“様子見”のような状態を
延々と続けているかのようにみえる練習法かも。
とはいっても、ただ続けるだけならば
あらかじめ約束された“振付け”のようなものになってしまいます。
互いの弱いところを突きあったりすることも
時々刻々と変化する両者の関係を知る上で
体験しておいて損はないことかとも思います。
なぜならばバランスとは
つねに均等であることをさすわけではないからです。
極端な偏りもまたバランスのひとつの状態です。
その上で協調とはどういうことなのか?
それを探り、意識的に制御することを覚えるために
さまざまな練習を積み重ねているわけで。
導引的推手練習では勝負を否定しているわけではなく
それをも含むバランス、協調状態をめざすことが
主要目的なのだろうなと、現段階では理解しています。
先生と対すると、どうしても緊張します。
例の“欲をかいた状態”ですね。
必要以上に相手を意識するために
自意識も強くなっているとでもいいましょうか。
先生との練習では
ほとんど双手で行っていますが
四正を意識しながら制御するまでにはいたらないので
四正推手にはまだまだ遠い感じです。
それでも実際の現象を通して
少しずつ意識できるようになっているとは思います。
導引練習の一環として取り組み始めた推手。
いわゆる競技推手のような
試合形式というか勝負をつけることが目的ではなく、
むしろ“こう着状態”を保持する方向というのか
流れをつなげていくことが主要目的になっているような気がします。
いわゆる相手の出方をうかがっている“様子見”のような状態を
延々と続けているかのようにみえる練習法かも。
とはいっても、ただ続けるだけならば
あらかじめ約束された“振付け”のようなものになってしまいます。
互いの弱いところを突きあったりすることも
時々刻々と変化する両者の関係を知る上で
体験しておいて損はないことかとも思います。
なぜならばバランスとは
つねに均等であることをさすわけではないからです。
極端な偏りもまたバランスのひとつの状態です。
その上で協調とはどういうことなのか?
それを探り、意識的に制御することを覚えるために
さまざまな練習を積み重ねているわけで。
導引的推手練習では勝負を否定しているわけではなく
それをも含むバランス、協調状態をめざすことが
主要目的なのだろうなと、現段階では理解しています。