最近、導引と練習を
微妙に使い分けているような気がする。
別に意識的に試みたことではなく、
気がついたら何となくそんなことになっていた。
ただひたすら導引をしたいなぁという感じで、
体の方で勝手に動いているみたいな。
自分が意識でコントロールしているのかどうかも
はっきりしない状態だった。
それでも呼吸は深くて精神的にも沈静していて、
頭は空っぽでスッキリ。
なんともいえない充足感があって、
もしかしたらこういうのが導引だったのかな~。
こういう状態をいつでも引き出せているわけではない。
たまたま遭遇してしまった感が強い。
でも、だからといってこの感覚を
そのまま忘れてしまうのも
何だかもったいないような気がして、
こちらを仮に「導引」と、今回は呼ぶことにしてみた。
したがって教室や個人で自主的に行う導引練習は
「練習」という具合。
実際、教室では動作を教わるとか
既習動作をさらに細かい要求に則って
練習することが中心となるから、
どっちかといえば
動作の理解を確認することが主眼になりがち。
このため、たとえば緊張し過ぎて力が入らぬように
意識しなからというような、
導引の基本要求を満たす動きを追求することよりも、
動作の方が気になってしまう。
「導引」というよりは「練習」が中心となる。
一方、個人で行う場合は
なるべく「導引」にしたいので
はじめから気持ちを切り替えるようにしている。
教わったことの確認や復習をする場合は
ほとんど練習となるのだけれど、
くり返し行っている間に、じょじょに意識を
練習モードから導引モードへと切り替えていってみる。
意識的に「導引」を目的とした練習にシフトさせてみると、
どっちともいえない状態の方がはるかに多いと気づく。
結局のところ、どっちでもいいのだ。
こうした試みが無駄なことなのか、どうなのか。
それは個人の価値観によるものだろう。
緊張や力みも現象のひとつにすぎない。
ほんとにちょっとした変化の具合で
体から受け取る感触や印象も変わるものだと思う。
見方や感じ方の違いで
導引になったり練習になったりする。
違うようだけど同じにもみえる、
同じようだけど違うようにもみえる。
結局はいつもの処へと戻ってくる。
陰陽、平衡、協調、自然…
まだまだ、わかってないなぁ
微妙に使い分けているような気がする。
別に意識的に試みたことではなく、
気がついたら何となくそんなことになっていた。
ただひたすら導引をしたいなぁという感じで、
体の方で勝手に動いているみたいな。
自分が意識でコントロールしているのかどうかも
はっきりしない状態だった。
それでも呼吸は深くて精神的にも沈静していて、
頭は空っぽでスッキリ。
なんともいえない充足感があって、
もしかしたらこういうのが導引だったのかな~。
こういう状態をいつでも引き出せているわけではない。
たまたま遭遇してしまった感が強い。
でも、だからといってこの感覚を
そのまま忘れてしまうのも
何だかもったいないような気がして、
こちらを仮に「導引」と、今回は呼ぶことにしてみた。
したがって教室や個人で自主的に行う導引練習は
「練習」という具合。
実際、教室では動作を教わるとか
既習動作をさらに細かい要求に則って
練習することが中心となるから、
どっちかといえば
動作の理解を確認することが主眼になりがち。
このため、たとえば緊張し過ぎて力が入らぬように
意識しなからというような、
導引の基本要求を満たす動きを追求することよりも、
動作の方が気になってしまう。
「導引」というよりは「練習」が中心となる。
一方、個人で行う場合は
なるべく「導引」にしたいので
はじめから気持ちを切り替えるようにしている。
教わったことの確認や復習をする場合は
ほとんど練習となるのだけれど、
くり返し行っている間に、じょじょに意識を
練習モードから導引モードへと切り替えていってみる。
意識的に「導引」を目的とした練習にシフトさせてみると、
どっちともいえない状態の方がはるかに多いと気づく。
結局のところ、どっちでもいいのだ。
こうした試みが無駄なことなのか、どうなのか。
それは個人の価値観によるものだろう。
緊張や力みも現象のひとつにすぎない。
ほんとにちょっとした変化の具合で
体から受け取る感触や印象も変わるものだと思う。
見方や感じ方の違いで
導引になったり練習になったりする。
違うようだけど同じにもみえる、
同じようだけど違うようにもみえる。
結局はいつもの処へと戻ってくる。
陰陽、平衡、協調、自然…
まだまだ、わかってないなぁ