私が小学一年の頃でしたから、昭和26年の年だった。
祖父と父は、東京の郊外で農業をしていましたので、
年末近くになると、餅を搗(つ)いた。
祖父の家を含み、六軒の家で交互に手伝う習慣となっていた。
祖父の順番になると、もち米を精米にし、水に漬けた後、
その当日になると早朝から二つ大きな竈(かまど)に火をいれ、
二尺程の正方形の蒸篭(せいろ)を幾重にも重ねて、蒸した。
男衆は五人来てくださり、それに私の家の人である。
午後になると、杵(きね)で臼(うす)の蒸されたもち米を搗いた。
すべて手作業なので、労力のいる時代だった。
餅になると、お供え、長方形ののし餅、とそれぞれに作っていた。
長方形ののし餅は、長方形の板で形を整え、片栗粉でまぶした。
年末から正月のお雑煮、七草を得て、
その後ときたま二月の上旬まで食卓に出される。
このために、十畳の部屋を二つ使い、廊下まではみ出していた。
夕方の六時ごろになると、搗きたての餅をあんこ、大根のからみ、きなこ用に
それぞれ作り、夕食がわりとなった。
男衆は酒が振舞われ、茶碗酒として出された。
近所の叔父さんが、私に言った。
『XXちゃん、何を食べるの』
『う~ん、大根の辛いの・・』と私は言った。
『そうかい、からみねぇ、XXさん、この子きっと呑んべえになるね』
と赤い顔した叔父さんは、私の父に言った。
この数年後に父が亡くなり、祖父も他界したので、
私の家は急速に変わっていった。
私の周囲の家々も時代の波が押し寄せ、
このような風習は、消えた去った・・。
祖父と父は、東京の郊外で農業をしていましたので、
年末近くになると、餅を搗(つ)いた。
祖父の家を含み、六軒の家で交互に手伝う習慣となっていた。
祖父の順番になると、もち米を精米にし、水に漬けた後、
その当日になると早朝から二つ大きな竈(かまど)に火をいれ、
二尺程の正方形の蒸篭(せいろ)を幾重にも重ねて、蒸した。
男衆は五人来てくださり、それに私の家の人である。
午後になると、杵(きね)で臼(うす)の蒸されたもち米を搗いた。
すべて手作業なので、労力のいる時代だった。
餅になると、お供え、長方形ののし餅、とそれぞれに作っていた。
長方形ののし餅は、長方形の板で形を整え、片栗粉でまぶした。
年末から正月のお雑煮、七草を得て、
その後ときたま二月の上旬まで食卓に出される。
このために、十畳の部屋を二つ使い、廊下まではみ出していた。
夕方の六時ごろになると、搗きたての餅をあんこ、大根のからみ、きなこ用に
それぞれ作り、夕食がわりとなった。
男衆は酒が振舞われ、茶碗酒として出された。
近所の叔父さんが、私に言った。
『XXちゃん、何を食べるの』
『う~ん、大根の辛いの・・』と私は言った。
『そうかい、からみねぇ、XXさん、この子きっと呑んべえになるね』
と赤い顔した叔父さんは、私の父に言った。
この数年後に父が亡くなり、祖父も他界したので、
私の家は急速に変わっていった。
私の周囲の家々も時代の波が押し寄せ、
このような風習は、消えた去った・・。