遠い昔、昭和26年の頃だった。
祖父と父が農家をしていたので、お茶の樹があった。
宅地からゆるい坂を昇りきり、防風ように欅(けやき)が五十数本あり、
その先は平坦な地で陽当たりがよく、苗床、洗濯の干し場に利用された。
この平坦な所を抜けると畑であり、その先に村道があった。
この村道と畑の境界線にお茶の樹があった。
幅は四尺、高さが五尺で、五十間前後であった。
五月の初旬頃になると、新芽を摘んでいた。
一家総出であった。
私が幼児で三歳の頃は、近くに莚(むしろ)で寝そべっていた、
と母から後年に教えてもらっている。
新芽を摘んだ後、生葉撰り(なまはより)といったお茶の葉から
混ぜりものや蝕まれた葉を取り除く選別作業をしていた。
その後、生葉を新鮮なうちに、蒸篭(せいろ)で蒸した後、
団扇などであおいで、よくさましていた。
そして、長方形の大きな台の上に炭火をおこし、
その上に鉄板を敷き、先ほどのお茶をもんいた・・。
煎茶として出来た後、大きな桐箱、茶包みの箱に収納した。
この煎茶は、家族が一年中に使い、来宅した方の一部の方に差し上げたりした。
もっともこの選別は、戸主の祖父の一言によった。
私は幼児の頃、いじけていたので、いたずらをして、父からよく怒られた。
祖父は、長兄、次兄に続き、私も男の子であったので、
不憫に思ったらしく、祖父の名の一字を私の名前にくれた。
祖父からは、可愛がってくれたが、煎茶を淹れるとき、
いいかげんな振る舞いで淹れると怒られた。
私が成人してから、煎茶を淹れる時、ときたま祖父を想い出される。
祖父と父が農家をしていたので、お茶の樹があった。
宅地からゆるい坂を昇りきり、防風ように欅(けやき)が五十数本あり、
その先は平坦な地で陽当たりがよく、苗床、洗濯の干し場に利用された。
この平坦な所を抜けると畑であり、その先に村道があった。
この村道と畑の境界線にお茶の樹があった。
幅は四尺、高さが五尺で、五十間前後であった。
五月の初旬頃になると、新芽を摘んでいた。
一家総出であった。
私が幼児で三歳の頃は、近くに莚(むしろ)で寝そべっていた、
と母から後年に教えてもらっている。
新芽を摘んだ後、生葉撰り(なまはより)といったお茶の葉から
混ぜりものや蝕まれた葉を取り除く選別作業をしていた。
その後、生葉を新鮮なうちに、蒸篭(せいろ)で蒸した後、
団扇などであおいで、よくさましていた。
そして、長方形の大きな台の上に炭火をおこし、
その上に鉄板を敷き、先ほどのお茶をもんいた・・。
煎茶として出来た後、大きな桐箱、茶包みの箱に収納した。
この煎茶は、家族が一年中に使い、来宅した方の一部の方に差し上げたりした。
もっともこの選別は、戸主の祖父の一言によった。
私は幼児の頃、いじけていたので、いたずらをして、父からよく怒られた。
祖父は、長兄、次兄に続き、私も男の子であったので、
不憫に思ったらしく、祖父の名の一字を私の名前にくれた。
祖父からは、可愛がってくれたが、煎茶を淹れるとき、
いいかげんな振る舞いで淹れると怒られた。
私が成人してから、煎茶を淹れる時、ときたま祖父を想い出される。