過日、作曲家の高木東六・氏が亡くなったが、
新聞、テレビなどで訃報のニュースを報じていた。
私はこのお方は、『水色のワルツ』を作曲され、
NHKの『あなたのメロディ』の審査員で出演されたのを視聴していた程度であった。
訃報のニュースで知る、ある程度のこのお方を少し知ったりした・・。
月間雑誌の『文藝春秋』の中で、定期特集の【蓋棺録(がいかんろく)】があるが、
著名人の訃報記事であり、亡くなれたお方の人生の軌道を短文で、
深い想いでそのお方の人生を切り取っているのに何時も感銘を受けている。
どのお方が綴られているのが解からないが、
まぎれもなく人生を達観し、的確に表現している人と思っている。
今回は、作曲家・高木東六・氏を取り上げていた・・。
無断であるが、記事の一部を引用させて頂きます。
・・演歌が大嫌いだった。
「演歌を歌う限り、日本に文化はない」とまで言った。
その高木が、たった1回だけ作曲した演歌が『水色のワルツ』だった。
1947年、疎開先で完成させるが、専属のビクターには、
「レベルが高すぎて売れない」と言われた。
そこでコロムビアに持ち込み、1950年、二葉あき子が歌って発売される。
初じめはなかなか売れなかった。
ヒットしたのは、1952年に映画『水色のワルツ』が封切られてからだった。
エッセイもよく書いた。
得意なのが艶笑ものだった。
・・・お堅いNHKなどでは、「イメージを悪くする」といって嫌ったが、
「あれは、僕の息抜きだから、やめる気はなかった」
・・・正式な音楽教育を受けた歌手との仕事を好んだが、
例外は藤原義江と美空ひばりだった。
「藤原さんは演奏会でもでたらめで、
伴奏がずれると、僕が悪いかのように睨(にら)んだ」。
美空ひばりは「一度で覚えてしまって、僕の考える以上に細やかに歌った」。
・・・90歳を超えてからも、毎日40本のタバコを吸い、
コーヒーを好きなだけ飲み、こってりしたウナギやスキヤキを食べた。
「あるがままに生きる。
それが長寿の秘訣です」。
以上、記事の一部を引用させて頂きました。
彼の努力と才能もさることながら、自在に生きられた高木東六・氏には、
『あなたは人生の達人です・・敬服致します・・』
と私は思わず頭を下げて、唸(うな)ったりしている。
新聞、テレビなどで訃報のニュースを報じていた。
私はこのお方は、『水色のワルツ』を作曲され、
NHKの『あなたのメロディ』の審査員で出演されたのを視聴していた程度であった。
訃報のニュースで知る、ある程度のこのお方を少し知ったりした・・。
月間雑誌の『文藝春秋』の中で、定期特集の【蓋棺録(がいかんろく)】があるが、
著名人の訃報記事であり、亡くなれたお方の人生の軌道を短文で、
深い想いでそのお方の人生を切り取っているのに何時も感銘を受けている。
どのお方が綴られているのが解からないが、
まぎれもなく人生を達観し、的確に表現している人と思っている。
今回は、作曲家・高木東六・氏を取り上げていた・・。
無断であるが、記事の一部を引用させて頂きます。
・・演歌が大嫌いだった。
「演歌を歌う限り、日本に文化はない」とまで言った。
その高木が、たった1回だけ作曲した演歌が『水色のワルツ』だった。
1947年、疎開先で完成させるが、専属のビクターには、
「レベルが高すぎて売れない」と言われた。
そこでコロムビアに持ち込み、1950年、二葉あき子が歌って発売される。
初じめはなかなか売れなかった。
ヒットしたのは、1952年に映画『水色のワルツ』が封切られてからだった。
エッセイもよく書いた。
得意なのが艶笑ものだった。
・・・お堅いNHKなどでは、「イメージを悪くする」といって嫌ったが、
「あれは、僕の息抜きだから、やめる気はなかった」
・・・正式な音楽教育を受けた歌手との仕事を好んだが、
例外は藤原義江と美空ひばりだった。
「藤原さんは演奏会でもでたらめで、
伴奏がずれると、僕が悪いかのように睨(にら)んだ」。
美空ひばりは「一度で覚えてしまって、僕の考える以上に細やかに歌った」。
・・・90歳を超えてからも、毎日40本のタバコを吸い、
コーヒーを好きなだけ飲み、こってりしたウナギやスキヤキを食べた。
「あるがままに生きる。
それが長寿の秘訣です」。
以上、記事の一部を引用させて頂きました。
彼の努力と才能もさることながら、自在に生きられた高木東六・氏には、
『あなたは人生の達人です・・敬服致します・・』
と私は思わず頭を下げて、唸(うな)ったりしている。