第3章
私が勤めていたフィリップス・レコードを主体する日本フォノグラムは、
外資はアメリカのCBSとソニーで折半としたCBS/ソニーに続いて第二番目となり、
オランダのフィリツプス50%、日本ビクター40%、松下電器10%との資本構成で通産省から認可され、
1970(昭和45)年の6月に設立された。
そして1972(昭和47)年の1月に於いては、オランダのフィリツプスと西ドイツのシーメンスが音楽分野で合併して、
ポリグラムを設立した。
何かイギリスのEMIに対抗する為に、欧州本土の二強が連携した、と私達は受け止めたのである。
日本でのシーメンスはポリドール、フィリップスはフォノグラムであり、
お互いに二頭立てのような馬車のように競争されたが、
しばらくの年月は私達のようなレベルではお互いに交流はなかったのである。
1980(昭和55)年4月に於いて、東芝EMIに所属していたアリスが脱退し、
アリスのヤング・ジャパンがポリグラムと折半で、ポリスター・レコードを設立した。
そして販売受託は私達のフォノグラムが担当し、製造はポリドールがした程度であった。
その後、日本市場に於いて、ポリドールが業績が低迷となり、
日本の筆頭株主の富士電機が1983(昭和58)年の10月前に日本ビクターに譲渡した後、
日本ビクターはポリドールの再生を図る為に、私達のフォノグラムをポリドールに販売委託させたのである。
私は自社の独自システムを完成してまもない時に上層部の人から指示されて、
ポリードルに販売委託する管理面での対応をしたので、
初めて具体的にポリドールの管理畑の主要人たちと対応協議を重ねたのである。
私達のレベルにおいては、ポリドールとフォノグラムの合体のポリグラムとして本稼動をするのかしら、
と期待をしていたのであるが、実際に本稼動をしたのは1993(平成5)年の4月からであった。
この10年間に於いては、ポリドールは新生となった社長のもとで、
受託販売を成功を重ね、大幅に成長し、日本ビクターの株主率を低下し、やがて外資100%に変貌をした。
この少し前、私達のフォノグラムも外資100%となったりしていた。
このポリグラムの本稼動で時、私達のフォノグラムはポリグラムの本稼動でポリトールと合体したのであるが、
実質は圧倒的に販売額が大きく、組織も大きいポリドールに吸収合併されたのが事実である。
第4章
やがて私達はポリグラムの一員としてお互いに健闘していたが、
社長が交代され、自社の邦楽強化、管理体制の強化で首脳陣も大幅に改定され、
外資のメジャーにふさわしい会社に大きく変貌をした。
その後、ポリグラムがカナダの洋酒を主体とするシーグラムに買収をされた。
このシーグラムの傘下にMCAレコードがあり、成長が望まれる音楽市場の強化が目的であると、
私達は知らされたのである。
MCAレコードはユニバーサルの音楽分野のひとつであり、
日本の市場に於いては、日本ビクターがMCAと合弁で、MCAビクターのレコード会社を設立していた。
こうして私達がシーグラムの傘下としてポリグラムに勤め、MCAレコードの取り扱いの中、
ビクター音産の改称後のビクター・エンタティメントにポリグラムは販売委託し、
ポリグラムはMCAレコードを傘下に収めた。
その後は、肝要のシーグラムをフランスのビバンディが買収し、まもなくユニバーサル・ミージックとした後、
再び自社で販売網の体制として、今日に至っている。
こうした株主の変貌で、私達はポリグラムからユニバーサル・ミージックに変化したのであるが、
この音楽業界を取り巻く環境が、この15年間で大幅に変化したのである。
このことは図らずも読売新聞の経済部の記者にご指摘されたとおり、
《・・
音楽ソフトの生産額は、1998年の6074億円をピークに年々減少し、
2008年は3617億円と10年連続で前年実績を下回った。
人口減少に加え、インターネットを通じて端末携帯に曲を贈る音楽配信が、
急速に普及しているためだ。
一曲単位で購入できる音楽配信が手軽さで人気を集める一方、
CDアルバムの購入者を減らし、単価下落を招いている。
好みの多様化でミリオンセラーとなるヒット曲も減り、音楽ソフト市場は行き詰まり状態にある。
・・》
レコード業界は、業界全体の売上げピークは1998(平成10)年で、
デパート業界と同様にかげりが見え、
この前後に各社が社内業務の見直し、組織の大幅な改定、グループ会社内の統廃合、
そして資本による合併などが行われたりした。
これに伴ない、正社員のリストラが行われ、人事配置転換による他部門の異動、出向、
早期退職優遇制度により退職が行われた。
先輩、同僚、後輩の一部の人が、第二の人生を選択し、早期退職優遇制度に申請を出されていたが、
私は定年まで勤め上げる思いが強くあったので、出向の話を打診された時、
彼等の決断を見送っていた。
その後、私が人事担当の取締役から、出向の話を打診された時、
私は出向を受け入れ、取引会社のひとつに勤めはじめた。
出向先は神奈川県の東名高速道路に隣接した所にある物流会社の本社であり、
日本レコードセンターという会社である。
この会社は日本ビクターの資本が中核となり、私が入社直後に勤めた商品部が母体となり、
各レコード・メーカーの音楽ソフトの商品を全国に保管はもとより、
音楽ソフトの販売店などに物流する専門会社であった。
音楽ソフト商品のレコード、カセット、CD等、映像商品としてビデオテープ、DVD等を運営管理している。
そしてそれぞれの物流センターは、
販売店からの日毎の受注に応じた出荷や返品を含めた商品の出入り、保管などの業務管理を行っている。
私はこの中のひとつのユニバーサル商品の専用の物流センターに通ったが、
センター長をはじめとする正社員の5名の指示に基づいて、
若手の男性の契約社員、アルバイトの10名、
30代と40代の多い女性のパートの100名前後の職場であった。
私は、このセンターの歓迎会をして頂き、
『鮭(サケ)が生まれた川に再び戻るように・・
音楽ソフト商品を取り扱う物流商品センターに・・30年ぶりに戻りました・・』
と照れながら挨拶をしたりした。
そして5年後、私はこの出向先で定年退職をしたのは、2004(平成16)年の秋であった。
私は大手、中堅のレコード会社などを時代の変貌と共に勤め、
ある時は障害レースのようにくぐり抜け、数多くの人とめぐり逢い、
別れも告げたりしてきた。
そして、この間に満天の星空のように音楽の曲を知ったりした。
私はレコード業界の会社はもとより中小業であり、
この勤めた35年の間でも、幾多のレコード会社の興亡もあり、つたない私は翻弄もされたが、
私は定年後の年金生活を過ごしている今、幸福な時代を過ごせた、と感謝している。
今回、日本ビクターが傘下の音楽ソフト専門会社であるビクターエンタティメントを売却する方針と知り、
私は何かとビクターエンタティメントにお世話になった身として、寂しく愛惜を重ねたりしている。
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私が勤めていたフィリップス・レコードを主体する日本フォノグラムは、
外資はアメリカのCBSとソニーで折半としたCBS/ソニーに続いて第二番目となり、
オランダのフィリツプス50%、日本ビクター40%、松下電器10%との資本構成で通産省から認可され、
1970(昭和45)年の6月に設立された。
そして1972(昭和47)年の1月に於いては、オランダのフィリツプスと西ドイツのシーメンスが音楽分野で合併して、
ポリグラムを設立した。
何かイギリスのEMIに対抗する為に、欧州本土の二強が連携した、と私達は受け止めたのである。
日本でのシーメンスはポリドール、フィリップスはフォノグラムであり、
お互いに二頭立てのような馬車のように競争されたが、
しばらくの年月は私達のようなレベルではお互いに交流はなかったのである。
1980(昭和55)年4月に於いて、東芝EMIに所属していたアリスが脱退し、
アリスのヤング・ジャパンがポリグラムと折半で、ポリスター・レコードを設立した。
そして販売受託は私達のフォノグラムが担当し、製造はポリドールがした程度であった。
その後、日本市場に於いて、ポリドールが業績が低迷となり、
日本の筆頭株主の富士電機が1983(昭和58)年の10月前に日本ビクターに譲渡した後、
日本ビクターはポリドールの再生を図る為に、私達のフォノグラムをポリドールに販売委託させたのである。
私は自社の独自システムを完成してまもない時に上層部の人から指示されて、
ポリードルに販売委託する管理面での対応をしたので、
初めて具体的にポリドールの管理畑の主要人たちと対応協議を重ねたのである。
私達のレベルにおいては、ポリドールとフォノグラムの合体のポリグラムとして本稼動をするのかしら、
と期待をしていたのであるが、実際に本稼動をしたのは1993(平成5)年の4月からであった。
この10年間に於いては、ポリドールは新生となった社長のもとで、
受託販売を成功を重ね、大幅に成長し、日本ビクターの株主率を低下し、やがて外資100%に変貌をした。
この少し前、私達のフォノグラムも外資100%となったりしていた。
このポリグラムの本稼動で時、私達のフォノグラムはポリグラムの本稼動でポリトールと合体したのであるが、
実質は圧倒的に販売額が大きく、組織も大きいポリドールに吸収合併されたのが事実である。
第4章
やがて私達はポリグラムの一員としてお互いに健闘していたが、
社長が交代され、自社の邦楽強化、管理体制の強化で首脳陣も大幅に改定され、
外資のメジャーにふさわしい会社に大きく変貌をした。
その後、ポリグラムがカナダの洋酒を主体とするシーグラムに買収をされた。
このシーグラムの傘下にMCAレコードがあり、成長が望まれる音楽市場の強化が目的であると、
私達は知らされたのである。
MCAレコードはユニバーサルの音楽分野のひとつであり、
日本の市場に於いては、日本ビクターがMCAと合弁で、MCAビクターのレコード会社を設立していた。
こうして私達がシーグラムの傘下としてポリグラムに勤め、MCAレコードの取り扱いの中、
ビクター音産の改称後のビクター・エンタティメントにポリグラムは販売委託し、
ポリグラムはMCAレコードを傘下に収めた。
その後は、肝要のシーグラムをフランスのビバンディが買収し、まもなくユニバーサル・ミージックとした後、
再び自社で販売網の体制として、今日に至っている。
こうした株主の変貌で、私達はポリグラムからユニバーサル・ミージックに変化したのであるが、
この音楽業界を取り巻く環境が、この15年間で大幅に変化したのである。
このことは図らずも読売新聞の経済部の記者にご指摘されたとおり、
《・・
音楽ソフトの生産額は、1998年の6074億円をピークに年々減少し、
2008年は3617億円と10年連続で前年実績を下回った。
人口減少に加え、インターネットを通じて端末携帯に曲を贈る音楽配信が、
急速に普及しているためだ。
一曲単位で購入できる音楽配信が手軽さで人気を集める一方、
CDアルバムの購入者を減らし、単価下落を招いている。
好みの多様化でミリオンセラーとなるヒット曲も減り、音楽ソフト市場は行き詰まり状態にある。
・・》
レコード業界は、業界全体の売上げピークは1998(平成10)年で、
デパート業界と同様にかげりが見え、
この前後に各社が社内業務の見直し、組織の大幅な改定、グループ会社内の統廃合、
そして資本による合併などが行われたりした。
これに伴ない、正社員のリストラが行われ、人事配置転換による他部門の異動、出向、
早期退職優遇制度により退職が行われた。
先輩、同僚、後輩の一部の人が、第二の人生を選択し、早期退職優遇制度に申請を出されていたが、
私は定年まで勤め上げる思いが強くあったので、出向の話を打診された時、
彼等の決断を見送っていた。
その後、私が人事担当の取締役から、出向の話を打診された時、
私は出向を受け入れ、取引会社のひとつに勤めはじめた。
出向先は神奈川県の東名高速道路に隣接した所にある物流会社の本社であり、
日本レコードセンターという会社である。
この会社は日本ビクターの資本が中核となり、私が入社直後に勤めた商品部が母体となり、
各レコード・メーカーの音楽ソフトの商品を全国に保管はもとより、
音楽ソフトの販売店などに物流する専門会社であった。
音楽ソフト商品のレコード、カセット、CD等、映像商品としてビデオテープ、DVD等を運営管理している。
そしてそれぞれの物流センターは、
販売店からの日毎の受注に応じた出荷や返品を含めた商品の出入り、保管などの業務管理を行っている。
私はこの中のひとつのユニバーサル商品の専用の物流センターに通ったが、
センター長をはじめとする正社員の5名の指示に基づいて、
若手の男性の契約社員、アルバイトの10名、
30代と40代の多い女性のパートの100名前後の職場であった。
私は、このセンターの歓迎会をして頂き、
『鮭(サケ)が生まれた川に再び戻るように・・
音楽ソフト商品を取り扱う物流商品センターに・・30年ぶりに戻りました・・』
と照れながら挨拶をしたりした。
そして5年後、私はこの出向先で定年退職をしたのは、2004(平成16)年の秋であった。
私は大手、中堅のレコード会社などを時代の変貌と共に勤め、
ある時は障害レースのようにくぐり抜け、数多くの人とめぐり逢い、
別れも告げたりしてきた。
そして、この間に満天の星空のように音楽の曲を知ったりした。
私はレコード業界の会社はもとより中小業であり、
この勤めた35年の間でも、幾多のレコード会社の興亡もあり、つたない私は翻弄もされたが、
私は定年後の年金生活を過ごしている今、幸福な時代を過ごせた、と感謝している。
今回、日本ビクターが傘下の音楽ソフト専門会社であるビクターエンタティメントを売却する方針と知り、
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