2006年11月28日の朝の8時過ぎ、
【 さだまなぬ天気・・♪ 】
と題して、短めに投稿していた。
【・・
東京の郊外は深夜から雨が降りだして、先程から霧雨となっている。
昨夜の天気予報に於いて、午前中は晴れ間となるが午後は曇り、と報じていたが、
今朝の予測は雨時々曇りと変った。
気流の流れにも天気は左右されるのば頭でわかっていても、
気持ちが付いてゆけなくて、少し戸惑っている。
うつろな気流、果たして日中は・・と空を見つめている。
・・】
この後、午前中のひととき、
【 私がサイモン&ガーファンクルを聴いた頃・・♪ 】
と題し、三回に分けて投稿していたが、集約して掲載する。
【・・
昭和43年、私は大学を中退して3年が過ぎようとした頃であった。
映画青年、文学青年のまねごとをし、先行きの見えない日々を過ごしていた。
学生時代の友人達は社会の一線で出て、社会に対しまぶしくもあったが、
根拠のない自信ばかり強くて、屈折した日々を送っていた。
大学を中退した後、シナリオ・ライターの養成所に入り、
養成所、講師からアルバイトを紹介してもらった。
アメリカのテレビドラマの下請けで、出演者として脇役で数本出たりした。
或いは、ある月刊誌の記事の与えられた課題を取材し、下書きまでして、
講師が筆を入れて、講師の名で発表されたが、
ある程度の収入となった。
このようなことを何時まで行っても文章修行の時間がなくなり、
警備員などのアルバイトをしながら自由な時間を確保したりした。
あるお彼岸の時、親戚の叔父さんから、
『若い時・・なんとでも成るが・・30からどうするの・・』
と怒られたりした。
学生時代の友人達は、社会に出て、逢う機会も次第になくなり、
何かしら取り残されたようになってきた。
やはり定職に就いて、いずれは・・と思い、
新聞広告で就職募集の中途採用欄を見て、ある大手の家電会社の営業職を受験した。
この試験の帰りに映画館で『卒業』を観た・・。
この頃、ラジオから『サウンド・オブ・サイレンス』がよく流れていた。
映画はこの曲を中心に流れ、私は魅了させられ、
初めてサイモン&ガーファンクルの歌声、メロディーに酔いしれた。
家電の営業職の中途採用は、その後は面接を二回ばかりして、幸いに採用通知を頂いた。
このような時、近所の家電販売店の店主が実家にたびたび来宅していた。
『あんたなぁ・・家電の営業・・といってもなぁ・・余程の覚悟でならないと・・使い捨て・・消耗品なるよ・・
同じやるなら・・手に職を持った・・・技術だょ・・』
と私は忠告された。
私は社会に対し、中途半端な身であったので、技術職といっても皆目検討が付かなかった・・。
このような時に、本屋の店頭でダイヤモンド社のビジネス雑誌で、
『三週間でわかるコンピューター』の付録があった。
購入して読んだが、理工関係に弱い私は理解出来ない方が多かった。
ただ漠然として、これからの企業ではコンピューターが伸張する、
と理解していた程度であった。
私はコンピューターのソフトコースの専門学校に1年間学んだ上、
ある程度の企業に中途入社しょうと思った。
同期の生徒は、高校を卒業したばかり理工方面に強い若い男女が多く、
私は遅れた青年のひとりとして、学んだ。
私は積分、微分には苦慮したが、授業を受けていく中、
コンピューターを操作していても処理時間に相当掛かるので、
空き時間があり、企業に入ったら、この時間を創作時間に当てようと思ったりした。
この後、ある企業に入社したが、企業は甘くなく徹底的に管理部門のひとりとして鍛えられた。
昭和45年4月、私はある大手の音響・映像の会社に中途入社が出来た。
この頃は、サイモン&ガーファンクルの『ミセス・ロビンソン』、『スカボロー・フェア』、
『サウンド・オブ・サイレンス』等が収録されたLP『サイモンとガーファンクルのグレーテイス・ヒット』をよく聴いていた・・。
そして究極のアルバム『明日に架ける橋』が発売され、
レコードが擦り切れるくらい好く聴いた・・。
♪Sail on silvergirl、
Sail on by
Your time has comev to shine
【『明日に架ける橋』 song by Poul Simon】
私はガーファンクルの声でこの部分に触れると胸が熱くなり、思わず涙ぐむ・・。
私の彷徨した時代に終わり、遅ればせながら社会人としてスタートを切り、
そして海の彼方のアメリカの混迷した社会も思いながら、
この曲を聴いたりしていた。
私の勤める会社は、レコード専門会社として独立し、
私は企業の一年生として業務にのめり込んだ。
この年の夏、他社であるが『コンドルは飛んで行く』が流行し、
そして晩秋には三島由紀夫が自裁され、
私の青年期は確実に終わりを告げた。
・・】
この日の午後に、
【 私の魂(たましい)まで響いたテレビ番組・・♪ 】
と題して、2回に及び投稿していたが、集約して掲載する。
【・・
私は昨夜、NHKで10時より【プレミア10】の定期番組に於いて、
《世紀を刻んだ歌》と題した『明日に架ける橋・賛美歌になった愛の歌』を観た・・。
私の若い頃、サイモン&ガーファンクルに魅せられた一時期があり、
特に『明日に架ける橋』が心の歌のひとつして残って折、
懐かしげに観た次第であった。
私の知らない若い女優・緒川たまきが取材をしながら、カメラで撮るという進行で、
『明日に架ける橋』を丹念に思索する番組であった。
アメリカ9.11の同時多発テロ後、
この歌を含めて6曲前後、放送が自粛され、
こうした中でもポール・サイモン自身が犠牲者追悼の為に唄っている情景が映し出された・・。
その後、『明日に架ける橋』でピアノ伴奏をしたラリー・ネクテルとのインタビューの折り、
『・・偶然に意図したものより、良くなる事がある・・
イントロを考えたのは自分で・・
思わずそのまま存在しなかった3番まで弾(ひ)いてしまった』
と発言していた。
そのそばで聴いていたガーファンクルはハミングをして、
サイモンは帰宅後、3番目の歌詞の・・銀の少女・・を書き上げた、
と証言されていた。
サイモン自身、古きゴスペルのひとつを聴き、『明日に架ける橋』のアイディアが沸き、創作できたらしい。
その後、番組では南アフリカで1970年代の半ばに、アパルトヘイトの問題が世界を騒がせた折、
アレサ・フランクリンの唄う『明日に架ける橋』が南アフリカの多くのお宅の家で流れた・・。
ポール・サイモン自身、南アフリカのアパルトヘイトの喧騒の時代、
南アフリカの入国は認められず、この隣国で多くのアーティスト達とコンサートを6万人前後の中で開いたりした・・。
そして肝心の南アフリカに於いては、
アレサ・フランクリンのゴスペル風のバージョンの唄が愛され、
悲惨で希望のない住民に賛美歌として唄い継がれていく・・。
そして、現代の若い中学生の合唱で、
ゴスペラとしての『明日に架ける橋』が唄われている。
取材者の緒川たまきが番組の終わりとして、
『明日に架ける橋』は、もはやサイモンとガーファンクルの歌にとどまらず、
ひとつの賛美歌として多くの人々に愛される歌になっている、
とこのような意味の言葉を残して、番組は終わっている。
番組終了後、私は少し涙ぐんだ・・。
たった一つの歌は、民族、国家を乗り越えて、
人々に勇気と希望をもたらす力を秘めている・・。
そして歌が生まれ40年前後たった今でも、
世界に数々の動乱ある時代を中、歌は人々の中で伝承されている。
テレビ番組のドキュメンタリーのひとつであるが、
ときとして私の魂(たましい)まで響く番組がある。
私は今日の午前中、
この随筆欄て『私がサイモン&ガーファンクルを聴いた頃・・♪』を三回にわたり綴ったが、
この番組を観て、誘発され、そして余情して綴ったりしていた・・。
・・】
定年退職後の一年を過ぎた2005年11月28日の朝の8時過ぎ、
【 我が家も冬の陣・・♪ 】
と題して、短めに投稿していた。
【・・
東京の郊外も晩秋も深まっているが、ここ数日に家内は室内を冬に備えている・・。
冬用の毛布、布団、炬燵を準備している。
そして私の冬用のセーター、スポーツ・シャツ、ズボン、肌着、綿入りの半纏を、
スリー・シーズンから入れ替えていた。
主婦の方は、何かしら忙しい時期となっている。
私の方も朝六時の定刻に起床し、
まだ薄暗い朝の中で煎茶を淹れて、
家内の枕元に牛乳とコーヒーのそれぞれのマグ・カップを置いたりしている。
その後、新聞を読みながら、NHKのニュースを観たりしている・・。
七時になると家内は起きて来て、洗濯機をセットし、
私は戸を開け始める・・。
こうして我が家の冬の季節は、昨年と同様に始まっている・・。
朝の陽射しを受け、ぼんやりとパソコンに向かい、
何時ものように『地元の天気予報』、『NIKKEI NET』等を検索している。
・・】
この日の午後3時半過ぎには、
【 住みかの理想を求めて・・♪ 】
と題して、投稿していた。
【・・
私は東京の郊外で、調布市に住んでいる。
世田谷区と狛江市に隣接した場所である。
従って、電話地区は都内となっていて、不動産の売却依頼のチラシが、
毎日、数社から郵便ポストに入ってくる。
近くに流れる野川沿いに、住宅地に整備されたのは、バブル時期であった。
50坪程度に区画された土地が一億円以上で、売地と表示されていたので、
家内と驚いたりしていた。
私はこの近くで一戸建ての程々の広さの庭で生活して、
多額な住宅ローンを返済していた。
定年前にやっと返済が終ったので、
定年後の今は、土地と家屋に伴う固定資産税と都市計画税を支払っている。
家を建てる時、気負って茶室まで造ったので、
造園にかける資金がなくなり、雑木を植え込んで対処した。
植え込んだ雑木は、か細い頼りない樹木であったが、3年、7年と過ぎれば、
それなりの樹形になってきた。
こんなふうに28年を過ぎれば、
淘汰した雑木もあり、新たに植え込んだ樹木もある。
こうして季節に応じて、雑木はそれなりの色合いを楽しませてくれる。
数年前、新聞の広告で高層マンションの案内が載っていたのがあった。
『こういうマンション、庭の手入れも必要なく、
住み易(やす)そうね・・都内の展望も観えるし・・
港の情景も観えるわ・・都内のホテルも近いし・・』
と家内は言った。
『だけど、季節感がないよ・・』
と私は言った。
『そうかしら・・』
と家内は言った。
『そうした情景は飽きるよ・・
そうした情景に近いホテルに3泊4日で泊まったら、
解ると思うよ・・』
と私は言った。
私の定年後の理想は、
旅行先で観かける里山を切り拓いたホテルの付近の分譲住宅であった。
里山の樹木に囲まれた一軒屋に住み、
ときたまホテルのレストランで食事をする。
こうした事を10数年前に家内に話した所、
『利便性がないわ・・買い物も大変よ・・お友達も遠くなるし・・
風邪を退いても、ケガをしても、その上よ、身体を壊しても近くに病院がないわ・・』
と言われ、反対された。
我が家の結論として、このまま今の家に住み、
片方が身体が弱った時、看護用の老人マンションに移る、
と話し合ったしたのである。
それまで我が家の周辺と違った国内旅行先でその地なりの情景を受容し、
思い出を創っていく、こととなった。
それぞれの理想の家は、まぼろしとなった次第となったりした。
・・】
私の定年退職日の少し前に、家内の父が病死し、葬儀が終えた後、
私自身の定年退職に伴う書類などを提出したり、慌ただしい日々が続いた。
そして、まもなくブログの世界を知り、二つばかりのサイトに加入したりし、
この中の一部に、【 上総亀山滞在記 【2004.11.29. ~ 12.1.】 】
と題して投稿文が残っていたので掲載する。
【・・
家内の父の四十九日だった。
家内の母が、千葉県木更津のはずれに墓地を求めていたので、納骨に訪れた。
死去後、何かと慌ただしい日々が過ぎていた。
JRの支線で久留里線の終点に亀山温泉があったので、この地でゆっくりと休養を取る事とした。
亀山は房総半島のほぼ中心部に位置し、人造湖があり、
湖畔の周囲に宿泊場所が点在し、晩秋が終わりかけている所と想像していた。
ホテルに夕暮れまじかに着いた。
部屋のベランダ沿いに小さな石庭があり、すぐ目の前の湖畔の周囲は桜の樹が群生し、
朱色した葉があたりを染めていた。
この桜の樹に寄り添うようにイチョウの大きな三本の樹木が
黄色した葉がふんだんに彩っていた・・。
夕食後、ホテルのパンフレットを見ていたら、
日本で一番遅いと言われる紅葉・・と書かれていた。
この周囲が紅葉の真っ盛りが、理解できた。
早朝の湖面は、朝霧につつまれてあたり一面、乳白色だった。
家内と家内の母と三人で、湖岸に沿った遊歩道を歩く。
湖岸には公園が多く、ベンチが湖面に向かい、
芝生を張りつめた上に桜、ミズナラの朱色の葉が、湖上からの微風で揺らいでいた・・。
切り通しの小道を歩いていたら、路上の落ち葉は朝霧で濡れて、
陽射しを受けていた・・。
あまり手を加えていない雑木の中で、大きな紫式部の群生が、たわわに実を付けていた。
うっかりすると、見過ごしてしまいそうだった。
今年も確かに、秋が受容できた・・。
紅葉クルーズと称した、湖上の遊覧船に乗る。
この湖は幾つかの蛇行した川の集まりだったので、
渓谷がそれぞれに変化し、渓谷の樹木も移ろった景観を見せている。
錦繍の名所の光景は、全国に数多くあるが、余りにも形作られた面が多く、一面不満が残る。
この湖、湖畔、渓谷沿いの樹木は、どこか懐かしい風景だった。
日本のふるさとの原点である風景に思え、胸に沁みた・・。
ホテルに戻る途中に、手打ち蕎麦の看板が見えたので、蕎麦屋に入る。
手打ち蕎麦、看板に書かれている場合にしろ、
或いはお品書きに書かれていても、大方満足することは少ない。
『手打ちそば 上総屋京兵衛』は、蕎麦はやや硬めで、
手打ち特有の口の中で不均一の程度が良く、そばつゆは濃くて、深い。
葱(ネギ)にしろ山葵(ワサビ)にしても完成をしている。
『今日みたいな日は出来すぎだ・・』
と私は家内に言ったら、笑っていた。
旅先でこうしためぐり合わせが、生きているうち、あと何回巡ってくるか、
と考えながらホテルに戻った。
家内と家内の母が、釣りをすると、昨夜に約束していたので、
私は付近を散策することとした。
昨日、遊覧船で廻った反対の方面を歩き出した。
この湖は幾つかの川が集約して出来ていたので、数多くの橋が架かっている。
昨日とは別の遊覧船で、湖畔コースめぐりをするため、
目的とした遊覧船に行ったが、
休日のため、別の遊覧船乗り場を探した。
あちらこちらと探した結果、
『F.コテージつばきも』と、と書かれた看板があったので、
湖畔に向かって坂道を下った。
大きなケヤキの枝から、数多くの葉が空中に漂い、パラパラと頭上に舞い降りてきた・・。
湖畔沿いにペンション風のコテージが見えてきた。
コテージの庭は広く、枯れた芝生の上に、
10数本の桜、ミズナラが朱色したふんだんの葉、そしてイチョウ手の黄葉した葉が陽射しを受けていた。
湖畔の遠くの対岸の渓谷は深緑の常緑樹の中に、
黄色と朱色の落葉樹が複雑なパッチワークのように彩っていた・・。
テラスでビールを呑みながら、この庭園と湖上を見ていたら、
このテラスにいると
すべての人が
詩人になる
と思えた。
ホテルの帰路、昨日の蕎麦屋に入り、遅い昼食とした。
そばつゆは昨日より幾分甘くは感じられたが、都会の蕎麦屋より遥かに高密度が保たれていた。
ホテルの大浴場の窓越しに、
部屋から見えた桜の樹は、葉は全て散り落とし、ここ数日の時が過ぎたことを教えてくれた。
明日は帰宅するが、三泊四日であったのか、
親子三人がのんびりと過ごせた、と心身とも感じた・・。
・・】
このように定年退職後の本日の11月28日を基軸とした投稿文を読み返したのであるが、
その年のこの頃の思いが発露されている。
過ぎ去った日々は少しはかなくも感じるが、
やはり私の心には微苦笑を重ねながらも、愛惜があるのは本音である。
a href="http://www.blogmura.com/">
【 さだまなぬ天気・・♪ 】
と題して、短めに投稿していた。
【・・
東京の郊外は深夜から雨が降りだして、先程から霧雨となっている。
昨夜の天気予報に於いて、午前中は晴れ間となるが午後は曇り、と報じていたが、
今朝の予測は雨時々曇りと変った。
気流の流れにも天気は左右されるのば頭でわかっていても、
気持ちが付いてゆけなくて、少し戸惑っている。
うつろな気流、果たして日中は・・と空を見つめている。
・・】
この後、午前中のひととき、
【 私がサイモン&ガーファンクルを聴いた頃・・♪ 】
と題し、三回に分けて投稿していたが、集約して掲載する。
【・・
昭和43年、私は大学を中退して3年が過ぎようとした頃であった。
映画青年、文学青年のまねごとをし、先行きの見えない日々を過ごしていた。
学生時代の友人達は社会の一線で出て、社会に対しまぶしくもあったが、
根拠のない自信ばかり強くて、屈折した日々を送っていた。
大学を中退した後、シナリオ・ライターの養成所に入り、
養成所、講師からアルバイトを紹介してもらった。
アメリカのテレビドラマの下請けで、出演者として脇役で数本出たりした。
或いは、ある月刊誌の記事の与えられた課題を取材し、下書きまでして、
講師が筆を入れて、講師の名で発表されたが、
ある程度の収入となった。
このようなことを何時まで行っても文章修行の時間がなくなり、
警備員などのアルバイトをしながら自由な時間を確保したりした。
あるお彼岸の時、親戚の叔父さんから、
『若い時・・なんとでも成るが・・30からどうするの・・』
と怒られたりした。
学生時代の友人達は、社会に出て、逢う機会も次第になくなり、
何かしら取り残されたようになってきた。
やはり定職に就いて、いずれは・・と思い、
新聞広告で就職募集の中途採用欄を見て、ある大手の家電会社の営業職を受験した。
この試験の帰りに映画館で『卒業』を観た・・。
この頃、ラジオから『サウンド・オブ・サイレンス』がよく流れていた。
映画はこの曲を中心に流れ、私は魅了させられ、
初めてサイモン&ガーファンクルの歌声、メロディーに酔いしれた。
家電の営業職の中途採用は、その後は面接を二回ばかりして、幸いに採用通知を頂いた。
このような時、近所の家電販売店の店主が実家にたびたび来宅していた。
『あんたなぁ・・家電の営業・・といってもなぁ・・余程の覚悟でならないと・・使い捨て・・消耗品なるよ・・
同じやるなら・・手に職を持った・・・技術だょ・・』
と私は忠告された。
私は社会に対し、中途半端な身であったので、技術職といっても皆目検討が付かなかった・・。
このような時に、本屋の店頭でダイヤモンド社のビジネス雑誌で、
『三週間でわかるコンピューター』の付録があった。
購入して読んだが、理工関係に弱い私は理解出来ない方が多かった。
ただ漠然として、これからの企業ではコンピューターが伸張する、
と理解していた程度であった。
私はコンピューターのソフトコースの専門学校に1年間学んだ上、
ある程度の企業に中途入社しょうと思った。
同期の生徒は、高校を卒業したばかり理工方面に強い若い男女が多く、
私は遅れた青年のひとりとして、学んだ。
私は積分、微分には苦慮したが、授業を受けていく中、
コンピューターを操作していても処理時間に相当掛かるので、
空き時間があり、企業に入ったら、この時間を創作時間に当てようと思ったりした。
この後、ある企業に入社したが、企業は甘くなく徹底的に管理部門のひとりとして鍛えられた。
昭和45年4月、私はある大手の音響・映像の会社に中途入社が出来た。
この頃は、サイモン&ガーファンクルの『ミセス・ロビンソン』、『スカボロー・フェア』、
『サウンド・オブ・サイレンス』等が収録されたLP『サイモンとガーファンクルのグレーテイス・ヒット』をよく聴いていた・・。
そして究極のアルバム『明日に架ける橋』が発売され、
レコードが擦り切れるくらい好く聴いた・・。
♪Sail on silvergirl、
Sail on by
Your time has comev to shine
【『明日に架ける橋』 song by Poul Simon】
私はガーファンクルの声でこの部分に触れると胸が熱くなり、思わず涙ぐむ・・。
私の彷徨した時代に終わり、遅ればせながら社会人としてスタートを切り、
そして海の彼方のアメリカの混迷した社会も思いながら、
この曲を聴いたりしていた。
私の勤める会社は、レコード専門会社として独立し、
私は企業の一年生として業務にのめり込んだ。
この年の夏、他社であるが『コンドルは飛んで行く』が流行し、
そして晩秋には三島由紀夫が自裁され、
私の青年期は確実に終わりを告げた。
・・】
この日の午後に、
【 私の魂(たましい)まで響いたテレビ番組・・♪ 】
と題して、2回に及び投稿していたが、集約して掲載する。
【・・
私は昨夜、NHKで10時より【プレミア10】の定期番組に於いて、
《世紀を刻んだ歌》と題した『明日に架ける橋・賛美歌になった愛の歌』を観た・・。
私の若い頃、サイモン&ガーファンクルに魅せられた一時期があり、
特に『明日に架ける橋』が心の歌のひとつして残って折、
懐かしげに観た次第であった。
私の知らない若い女優・緒川たまきが取材をしながら、カメラで撮るという進行で、
『明日に架ける橋』を丹念に思索する番組であった。
アメリカ9.11の同時多発テロ後、
この歌を含めて6曲前後、放送が自粛され、
こうした中でもポール・サイモン自身が犠牲者追悼の為に唄っている情景が映し出された・・。
その後、『明日に架ける橋』でピアノ伴奏をしたラリー・ネクテルとのインタビューの折り、
『・・偶然に意図したものより、良くなる事がある・・
イントロを考えたのは自分で・・
思わずそのまま存在しなかった3番まで弾(ひ)いてしまった』
と発言していた。
そのそばで聴いていたガーファンクルはハミングをして、
サイモンは帰宅後、3番目の歌詞の・・銀の少女・・を書き上げた、
と証言されていた。
サイモン自身、古きゴスペルのひとつを聴き、『明日に架ける橋』のアイディアが沸き、創作できたらしい。
その後、番組では南アフリカで1970年代の半ばに、アパルトヘイトの問題が世界を騒がせた折、
アレサ・フランクリンの唄う『明日に架ける橋』が南アフリカの多くのお宅の家で流れた・・。
ポール・サイモン自身、南アフリカのアパルトヘイトの喧騒の時代、
南アフリカの入国は認められず、この隣国で多くのアーティスト達とコンサートを6万人前後の中で開いたりした・・。
そして肝心の南アフリカに於いては、
アレサ・フランクリンのゴスペル風のバージョンの唄が愛され、
悲惨で希望のない住民に賛美歌として唄い継がれていく・・。
そして、現代の若い中学生の合唱で、
ゴスペラとしての『明日に架ける橋』が唄われている。
取材者の緒川たまきが番組の終わりとして、
『明日に架ける橋』は、もはやサイモンとガーファンクルの歌にとどまらず、
ひとつの賛美歌として多くの人々に愛される歌になっている、
とこのような意味の言葉を残して、番組は終わっている。
番組終了後、私は少し涙ぐんだ・・。
たった一つの歌は、民族、国家を乗り越えて、
人々に勇気と希望をもたらす力を秘めている・・。
そして歌が生まれ40年前後たった今でも、
世界に数々の動乱ある時代を中、歌は人々の中で伝承されている。
テレビ番組のドキュメンタリーのひとつであるが、
ときとして私の魂(たましい)まで響く番組がある。
私は今日の午前中、
この随筆欄て『私がサイモン&ガーファンクルを聴いた頃・・♪』を三回にわたり綴ったが、
この番組を観て、誘発され、そして余情して綴ったりしていた・・。
・・】
定年退職後の一年を過ぎた2005年11月28日の朝の8時過ぎ、
【 我が家も冬の陣・・♪ 】
と題して、短めに投稿していた。
【・・
東京の郊外も晩秋も深まっているが、ここ数日に家内は室内を冬に備えている・・。
冬用の毛布、布団、炬燵を準備している。
そして私の冬用のセーター、スポーツ・シャツ、ズボン、肌着、綿入りの半纏を、
スリー・シーズンから入れ替えていた。
主婦の方は、何かしら忙しい時期となっている。
私の方も朝六時の定刻に起床し、
まだ薄暗い朝の中で煎茶を淹れて、
家内の枕元に牛乳とコーヒーのそれぞれのマグ・カップを置いたりしている。
その後、新聞を読みながら、NHKのニュースを観たりしている・・。
七時になると家内は起きて来て、洗濯機をセットし、
私は戸を開け始める・・。
こうして我が家の冬の季節は、昨年と同様に始まっている・・。
朝の陽射しを受け、ぼんやりとパソコンに向かい、
何時ものように『地元の天気予報』、『NIKKEI NET』等を検索している。
・・】
この日の午後3時半過ぎには、
【 住みかの理想を求めて・・♪ 】
と題して、投稿していた。
【・・
私は東京の郊外で、調布市に住んでいる。
世田谷区と狛江市に隣接した場所である。
従って、電話地区は都内となっていて、不動産の売却依頼のチラシが、
毎日、数社から郵便ポストに入ってくる。
近くに流れる野川沿いに、住宅地に整備されたのは、バブル時期であった。
50坪程度に区画された土地が一億円以上で、売地と表示されていたので、
家内と驚いたりしていた。
私はこの近くで一戸建ての程々の広さの庭で生活して、
多額な住宅ローンを返済していた。
定年前にやっと返済が終ったので、
定年後の今は、土地と家屋に伴う固定資産税と都市計画税を支払っている。
家を建てる時、気負って茶室まで造ったので、
造園にかける資金がなくなり、雑木を植え込んで対処した。
植え込んだ雑木は、か細い頼りない樹木であったが、3年、7年と過ぎれば、
それなりの樹形になってきた。
こんなふうに28年を過ぎれば、
淘汰した雑木もあり、新たに植え込んだ樹木もある。
こうして季節に応じて、雑木はそれなりの色合いを楽しませてくれる。
数年前、新聞の広告で高層マンションの案内が載っていたのがあった。
『こういうマンション、庭の手入れも必要なく、
住み易(やす)そうね・・都内の展望も観えるし・・
港の情景も観えるわ・・都内のホテルも近いし・・』
と家内は言った。
『だけど、季節感がないよ・・』
と私は言った。
『そうかしら・・』
と家内は言った。
『そうした情景は飽きるよ・・
そうした情景に近いホテルに3泊4日で泊まったら、
解ると思うよ・・』
と私は言った。
私の定年後の理想は、
旅行先で観かける里山を切り拓いたホテルの付近の分譲住宅であった。
里山の樹木に囲まれた一軒屋に住み、
ときたまホテルのレストランで食事をする。
こうした事を10数年前に家内に話した所、
『利便性がないわ・・買い物も大変よ・・お友達も遠くなるし・・
風邪を退いても、ケガをしても、その上よ、身体を壊しても近くに病院がないわ・・』
と言われ、反対された。
我が家の結論として、このまま今の家に住み、
片方が身体が弱った時、看護用の老人マンションに移る、
と話し合ったしたのである。
それまで我が家の周辺と違った国内旅行先でその地なりの情景を受容し、
思い出を創っていく、こととなった。
それぞれの理想の家は、まぼろしとなった次第となったりした。
・・】
私の定年退職日の少し前に、家内の父が病死し、葬儀が終えた後、
私自身の定年退職に伴う書類などを提出したり、慌ただしい日々が続いた。
そして、まもなくブログの世界を知り、二つばかりのサイトに加入したりし、
この中の一部に、【 上総亀山滞在記 【2004.11.29. ~ 12.1.】 】
と題して投稿文が残っていたので掲載する。
【・・
家内の父の四十九日だった。
家内の母が、千葉県木更津のはずれに墓地を求めていたので、納骨に訪れた。
死去後、何かと慌ただしい日々が過ぎていた。
JRの支線で久留里線の終点に亀山温泉があったので、この地でゆっくりと休養を取る事とした。
亀山は房総半島のほぼ中心部に位置し、人造湖があり、
湖畔の周囲に宿泊場所が点在し、晩秋が終わりかけている所と想像していた。
ホテルに夕暮れまじかに着いた。
部屋のベランダ沿いに小さな石庭があり、すぐ目の前の湖畔の周囲は桜の樹が群生し、
朱色した葉があたりを染めていた。
この桜の樹に寄り添うようにイチョウの大きな三本の樹木が
黄色した葉がふんだんに彩っていた・・。
夕食後、ホテルのパンフレットを見ていたら、
日本で一番遅いと言われる紅葉・・と書かれていた。
この周囲が紅葉の真っ盛りが、理解できた。
早朝の湖面は、朝霧につつまれてあたり一面、乳白色だった。
家内と家内の母と三人で、湖岸に沿った遊歩道を歩く。
湖岸には公園が多く、ベンチが湖面に向かい、
芝生を張りつめた上に桜、ミズナラの朱色の葉が、湖上からの微風で揺らいでいた・・。
切り通しの小道を歩いていたら、路上の落ち葉は朝霧で濡れて、
陽射しを受けていた・・。
あまり手を加えていない雑木の中で、大きな紫式部の群生が、たわわに実を付けていた。
うっかりすると、見過ごしてしまいそうだった。
今年も確かに、秋が受容できた・・。
紅葉クルーズと称した、湖上の遊覧船に乗る。
この湖は幾つかの蛇行した川の集まりだったので、
渓谷がそれぞれに変化し、渓谷の樹木も移ろった景観を見せている。
錦繍の名所の光景は、全国に数多くあるが、余りにも形作られた面が多く、一面不満が残る。
この湖、湖畔、渓谷沿いの樹木は、どこか懐かしい風景だった。
日本のふるさとの原点である風景に思え、胸に沁みた・・。
ホテルに戻る途中に、手打ち蕎麦の看板が見えたので、蕎麦屋に入る。
手打ち蕎麦、看板に書かれている場合にしろ、
或いはお品書きに書かれていても、大方満足することは少ない。
『手打ちそば 上総屋京兵衛』は、蕎麦はやや硬めで、
手打ち特有の口の中で不均一の程度が良く、そばつゆは濃くて、深い。
葱(ネギ)にしろ山葵(ワサビ)にしても完成をしている。
『今日みたいな日は出来すぎだ・・』
と私は家内に言ったら、笑っていた。
旅先でこうしためぐり合わせが、生きているうち、あと何回巡ってくるか、
と考えながらホテルに戻った。
家内と家内の母が、釣りをすると、昨夜に約束していたので、
私は付近を散策することとした。
昨日、遊覧船で廻った反対の方面を歩き出した。
この湖は幾つかの川が集約して出来ていたので、数多くの橋が架かっている。
昨日とは別の遊覧船で、湖畔コースめぐりをするため、
目的とした遊覧船に行ったが、
休日のため、別の遊覧船乗り場を探した。
あちらこちらと探した結果、
『F.コテージつばきも』と、と書かれた看板があったので、
湖畔に向かって坂道を下った。
大きなケヤキの枝から、数多くの葉が空中に漂い、パラパラと頭上に舞い降りてきた・・。
湖畔沿いにペンション風のコテージが見えてきた。
コテージの庭は広く、枯れた芝生の上に、
10数本の桜、ミズナラが朱色したふんだんの葉、そしてイチョウ手の黄葉した葉が陽射しを受けていた。
湖畔の遠くの対岸の渓谷は深緑の常緑樹の中に、
黄色と朱色の落葉樹が複雑なパッチワークのように彩っていた・・。
テラスでビールを呑みながら、この庭園と湖上を見ていたら、
このテラスにいると
すべての人が
詩人になる
と思えた。
ホテルの帰路、昨日の蕎麦屋に入り、遅い昼食とした。
そばつゆは昨日より幾分甘くは感じられたが、都会の蕎麦屋より遥かに高密度が保たれていた。
ホテルの大浴場の窓越しに、
部屋から見えた桜の樹は、葉は全て散り落とし、ここ数日の時が過ぎたことを教えてくれた。
明日は帰宅するが、三泊四日であったのか、
親子三人がのんびりと過ごせた、と心身とも感じた・・。
・・】
このように定年退職後の本日の11月28日を基軸とした投稿文を読み返したのであるが、
その年のこの頃の思いが発露されている。
過ぎ去った日々は少しはかなくも感じるが、
やはり私の心には微苦笑を重ねながらも、愛惜があるのは本音である。
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