私は東京の調布市に住む年金生活の76歳の身であるが、
昨夜、テレビのニュースで、
俳優の田中邦衛(たなか・くにえ)さんが3月24日、
老衰のため死去した、と知ったりした・・。
私は若き青年期に映画青年の真似事をし、数多く映画作品を鑑賞したり、
やがてテレビ・ドラマを鑑賞し、名優・田中邦衛さんが出演された作品も観たりしてきたので、
確かな存在感のある名優・田中邦衛さんは、お亡くなりになってしまったか、と落胆を深めたりした・・。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/a0/586271c514738fd0a3822c113077fa5d.jpg)
この後、ネットで田中邦衛さんの死去に伴う配信された記事の中で、
昨夜、テレビのニュースで、
俳優の田中邦衛(たなか・くにえ)さんが3月24日、
老衰のため死去した、と知ったりした・・。
私は若き青年期に映画青年の真似事をし、数多く映画作品を鑑賞したり、
やがてテレビ・ドラマを鑑賞し、名優・田中邦衛さんが出演された作品も観たりしてきたので、
確かな存在感のある名優・田中邦衛さんは、お亡くなりになってしまったか、と落胆を深めたりした・・。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/a0/586271c514738fd0a3822c113077fa5d.jpg)
この後、ネットで田中邦衛さんの死去に伴う配信された記事の中で、
『毎日新聞』より配信された記事を精読し、
改めて深く教示されたりした。
改めて深く教示されたりした。
《・・「北の国から」の黒板五郎役をはじめ多くのテレビドラマや、
映画で知られる個性派俳優の田中邦衛さんが3月24日、
亡くなったことが分かった。88歳だった。
亡くなったことが分かった。88歳だった。
テレビドラマ「北の国から」の脚本家、倉本 聰さんの話
ショックを受けて、何も言えない。
あんなにまじめで情けなくて、いい人はいなかったですよね。
特別な人でした、僕にとっては。かけがえのない人でしたね。
「北の国から」の五郎役は、他にも候補がいたが、
誰が一番情けないだろうと考えて、みんなで即一致した。
僕自身がものすごく情けない人間で、
男ってまじめにやればやるほど矛盾が出てくる。
そのことを邦さんに言った時、
「そうなんだよな」ととても共感してくれたのを覚えている。
一番心に残っているのは、人に頭を下げている情けない姿かな。
「北の国から」は何度もまた作ろうという話があったのに、残念だ。
邦さんは永遠に生きている気がする。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/ce/a65305fe184911ba97fc921e04b960e5.jpg)
あんなにまじめで情けなくて、いい人はいなかったですよね。
特別な人でした、僕にとっては。かけがえのない人でしたね。
「北の国から」の五郎役は、他にも候補がいたが、
誰が一番情けないだろうと考えて、みんなで即一致した。
僕自身がものすごく情けない人間で、
男ってまじめにやればやるほど矛盾が出てくる。
そのことを邦さんに言った時、
「そうなんだよな」ととても共感してくれたのを覚えている。
一番心に残っているのは、人に頭を下げている情けない姿かな。
「北の国から」は何度もまた作ろうという話があったのに、残念だ。
邦さんは永遠に生きている気がする。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/ce/a65305fe184911ba97fc921e04b960e5.jpg)
田中邦衛さんが出演した映画「学校」などで監督を務めた山田洋次さんの話
俳優がたくさんいる中で、邦衛さんは抜きんでて、
善良の塊みたいな人。
一緒にいると幸せになれるような人だった。
あんな人は二度と出ないと思う。‥》
一緒にいると幸せになれるような人だった。
あんな人は二度と出ないと思う。‥》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/13/7a4c09b288ad4e05dafa13e2a6de2637.jpg)
私は田中邦衛さんが出演された映画作品で、初めて鮮明に感動させられたのは。
『人間の條件』第3部 戦雲篇で、確か1959年(昭和34年)と記憶している・・。
主人公・梶(仲代達矢)が軍隊に送られた、軍隊生活に於いて、
理論武装で対抗しようとするので、上からも古参兵達からも睨まれる中、
古参兵からを徹底的にいじめ抜かれる気弱な初年兵・小原(田中邦衛)、
或いはアカと称される共産主義者とレッテルを貼られ新城一等兵(佐藤慶)、
このおふたりの田中邦衛さん、佐藤慶さんは、突出した名演であった。
この当時の私は、高校生で映画館によく通い、東宝映画は二本立てで、
映画館は上映していたので、苦手な『若大将シリーズ』を観たりしたが、
田中邦衛さんは、コミカルで憎めないキャラクターを演じて、
こうした役柄もできるんだぁ、と微苦笑させられたりした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/64/a2e60ee6f26d3c045bb8d8278c041829.jpg)
この前後、出演された映画作品と数多く中で、『椿三十郎(1962年)』、『怪談(1965年)』、
『どですかでん(1970年)』、『冬の華(1978年) 』、『駅 STATION(1981年)』、
『居酒屋兆治(1983年)』、夜叉(1985年)』などが思い浮かべたりした。
テレビ・ドラマとしては1965年(昭和40年)に放送された『若者たち』は、
漠然と視聴していたが、1981年(昭和56年)に放映された『北の国から』シリーズは、
私は後年、作品の視聴はもとより、シナリオの単行本もすべて購読したひとりとなった。
私は1981年(昭和56年)の当時は、あるレコード会社に勤め、
情報畑で日夜奮戦していたので、放映開始された『北の国から』は無知であった。
やがて連続ドラマが終って、再放送された『北の国から』を視聴して、
瞬時に魅了された。
もとよりこの『北の国から』の脚本を書かれたのは、
テレビ・シナリオ、映画、舞台の脚本、随筆など多彩に活動されている倉本 聰(くらもと・そう)さんである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/1f/76b339b4c5ad65891733e4c7253ff7c5.jpg)
私が倉本 聰さんの作品に初めて触れたのは、1975(昭和50)年1月過ぎであった。
映画の脚本家・橋本 忍(はしもと・しのぶ)さんの『砂の器』のシナリオが読みたくて、
本屋で雑誌の『シナリオ』(シナリオ作家協会)の1月号を買い求めた。
その中に、東芝日曜劇場の『りんりんと』のシナリオが掲載されていた。
なんてシリアスなドラマを書く人、と倉本 聰さんの作品に初めて知り、印象が残った。
やがて10数年後に私にとっては、倉本 聰さんの数多くシナリオ、随筆などを殆どすべて購読して、
作品はもとより、生活信条、創作の考え方、環境問題等で、多々ご教示を頂き、
信愛するひとりとなり、今日に至っている。
こうした中で、田中邦衛さんに関して、倉本聰さんの随筆など記載されていることもあり、
私は数多く学んだりしてきた・・。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/3f/1de7708da980ea474d6c234e059cd047.jpg)
余談であるが、私はたった一度だけ田中邦衛さんをお見かけしたことがある。
『北の国から』が再放送されてまもない時、
確か35年の前の頃、私は勤めていた六本木の本社で退社後、
近くにある俳優座の裏通りを歩いていた。
前方から防寒服を羽織るように歩いてきた男・・
田中邦衛さんだ、と瞬時に感じ、私は黙礼をした。
やがて私たちはお互いにすれ違う前、
田中邦衛さんは、少し頭を下げ、去って行った。
この当時の田中邦衛さんは、ドラマの大作としては初めて主役となった『北の国から』で、
数多く方に感動を与え、ご本人は戸惑いながら実感を感じ高揚した時期と思われ、
意気揚々とした足取りで、
私はすれ違う時、時の人の風圧を感じたりした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/09/234da8431bb996a9894372a647b94019.jpg)
長年、数多くの分野の作品に出演されて、多くの御方に感動を与えた田中邦衛さん・・、
確かな存在感のある名優であった。
無力な私は、亡き田中邦衛さんには、
黙礼しながら、ご冥福をお祈りします、と心の中で呟(つぶや)いたりした。
『人間の條件』第3部 戦雲篇で、確か1959年(昭和34年)と記憶している・・。
主人公・梶(仲代達矢)が軍隊に送られた、軍隊生活に於いて、
理論武装で対抗しようとするので、上からも古参兵達からも睨まれる中、
古参兵からを徹底的にいじめ抜かれる気弱な初年兵・小原(田中邦衛)、
或いはアカと称される共産主義者とレッテルを貼られ新城一等兵(佐藤慶)、
このおふたりの田中邦衛さん、佐藤慶さんは、突出した名演であった。
この当時の私は、高校生で映画館によく通い、東宝映画は二本立てで、
映画館は上映していたので、苦手な『若大将シリーズ』を観たりしたが、
田中邦衛さんは、コミカルで憎めないキャラクターを演じて、
こうした役柄もできるんだぁ、と微苦笑させられたりした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/64/a2e60ee6f26d3c045bb8d8278c041829.jpg)
この前後、出演された映画作品と数多く中で、『椿三十郎(1962年)』、『怪談(1965年)』、
『どですかでん(1970年)』、『冬の華(1978年) 』、『駅 STATION(1981年)』、
『居酒屋兆治(1983年)』、夜叉(1985年)』などが思い浮かべたりした。
テレビ・ドラマとしては1965年(昭和40年)に放送された『若者たち』は、
漠然と視聴していたが、1981年(昭和56年)に放映された『北の国から』シリーズは、
私は後年、作品の視聴はもとより、シナリオの単行本もすべて購読したひとりとなった。
私は1981年(昭和56年)の当時は、あるレコード会社に勤め、
情報畑で日夜奮戦していたので、放映開始された『北の国から』は無知であった。
やがて連続ドラマが終って、再放送された『北の国から』を視聴して、
瞬時に魅了された。
もとよりこの『北の国から』の脚本を書かれたのは、
テレビ・シナリオ、映画、舞台の脚本、随筆など多彩に活動されている倉本 聰(くらもと・そう)さんである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/1f/76b339b4c5ad65891733e4c7253ff7c5.jpg)
私が倉本 聰さんの作品に初めて触れたのは、1975(昭和50)年1月過ぎであった。
映画の脚本家・橋本 忍(はしもと・しのぶ)さんの『砂の器』のシナリオが読みたくて、
本屋で雑誌の『シナリオ』(シナリオ作家協会)の1月号を買い求めた。
その中に、東芝日曜劇場の『りんりんと』のシナリオが掲載されていた。
なんてシリアスなドラマを書く人、と倉本 聰さんの作品に初めて知り、印象が残った。
やがて10数年後に私にとっては、倉本 聰さんの数多くシナリオ、随筆などを殆どすべて購読して、
作品はもとより、生活信条、創作の考え方、環境問題等で、多々ご教示を頂き、
信愛するひとりとなり、今日に至っている。
こうした中で、田中邦衛さんに関して、倉本聰さんの随筆など記載されていることもあり、
私は数多く学んだりしてきた・・。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/3f/1de7708da980ea474d6c234e059cd047.jpg)
余談であるが、私はたった一度だけ田中邦衛さんをお見かけしたことがある。
『北の国から』が再放送されてまもない時、
確か35年の前の頃、私は勤めていた六本木の本社で退社後、
近くにある俳優座の裏通りを歩いていた。
前方から防寒服を羽織るように歩いてきた男・・
田中邦衛さんだ、と瞬時に感じ、私は黙礼をした。
やがて私たちはお互いにすれ違う前、
田中邦衛さんは、少し頭を下げ、去って行った。
この当時の田中邦衛さんは、ドラマの大作としては初めて主役となった『北の国から』で、
数多く方に感動を与え、ご本人は戸惑いながら実感を感じ高揚した時期と思われ、
意気揚々とした足取りで、
私はすれ違う時、時の人の風圧を感じたりした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/09/234da8431bb996a9894372a647b94019.jpg)
長年、数多くの分野の作品に出演されて、多くの御方に感動を与えた田中邦衛さん・・、
確かな存在感のある名優であった。
無力な私は、亡き田中邦衛さんには、
黙礼しながら、ご冥福をお祈りします、と心の中で呟(つぶや)いたりした。