私は東京の調布市に住む年金生活のまもなく78歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、たった2人だけ家庭であり、
そして私より5歳若い家内と共に、古ぼけた戸建てに住み、ささやかに過ごしている。
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、たった2人だけ家庭であり、
そして私より5歳若い家内と共に、古ぼけた戸建てに住み、ささやかに過ごしている。
私は年金生活の18年生の中では、散策をしながら、四季折々の情景を享受している。
こうした中、ともすれば魅了された情景を忘れてしまうこともあり、
記憶のかたみとして、デジカメで撮ったりしている。
記憶のかたみとして、デジカメで撮ったりしている。
そして随筆、ノンフィクション、近現代史、総合月刊雑誌などを読んだり、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい名作を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴いたりして、独りを愉しむ時を過ごしている。
このような平穏な年金生活で過ごしているが、
過ぎし年までは、物狂いのようになっていた時期もあったりした。
何かと単細胞の私は、熱中すれば周囲が見えなくなるタイプであり、
これまでの人生の軌跡を思い馳せると、拙(つたな)いなりに当っている面もあるよなぁ、
と苦笑したりしてきた。
年金生活18年生の今、ときおり過ぎし日々のことに愛惜し、思い馳せたりすることもある。
そしてこれまで歩んできた人生の中で、
ときには熱病のように無我夢中となったりする時があったりした。
大半は一時的な3ケ月前後で終わることが圧倒的に多いが、
少なくとも1年以上続き、やがて平熱になった時に振り返った時になど、
我ながら、そんな時代もあったねぇ、と微苦笑したりしてきた。
たとえば音楽の場合は、1971年(昭和46年)に、
偶然にシャンソンの作詞、作曲もされるバルバラの歌を聴き、
瞬時に魅了され、これをきっかけにシャンソンの世界に熱愛した・・。
そして銀座の片隅にあるシャンソン喫茶の『銀巴里』に、
少なくとも週2回ぐらい退社後に通いだして、
出演された多くのシャンソン歌手の唄声に心酔した。
こうした中で、金子由香里さんなどに夢中となったり、
この当時は、もとよりレコードが主流であったので、
往還時に『ヤマハ銀座店』に立ち寄ったりしてアルバムを買い求めて、2年たらずで100枚を超えて、
本場のフランス、そして日本の歌手を自室で擦り切れる程度に聴き惚れていた・・。
やがて1989年(昭和64年)に、
遅ればせながらシンガー・ソング・ライターの中島みゆきさんを偶然に聴いた。
『エレーン』の歌であり、この当時の私はあるレコード会社の情報畑で、
奮闘していた時代であった。
こうした中、消費税実施が翌年の4月から実施されるのでシステム改定、
そして昭和天皇がご逝去となり、『昭和』から『平成』の年号改定に苦闘していた時で、
心身ボロボロのような時に聴いたりした・・。。
その後、私は40代の半(なか)ばに、ギックリ腰が悪化して、
28日ばかり入院して、もとより業務から離脱し、社会から取り残されたように心情の時、
『永久欠番』で救われたりした。
この後、リストラ烈風の中、あえなく出向した中、『ヘッドライト・テールライト』が
心の支えとなってきた。
この間、カセット、CDはもとより、随筆、そして評論集まで購読したり、
私の人生の幾たびの苦境の時に、特にこの3曲から救われ、
今でも私の秘かな女神となっている。
やがて1997年(平成9年)の頃に、ハードロック・グループの『X JAPAN』をテレビで観て、
この当時52歳の私でも瞬時に魅了され、
帰宅するたびに殆ど毎晩、2時間ぐらい聴きこんだりしていた。
この後の数年間は、物狂いのように熱愛し、殆ど毎晩CDで聴いたり、
ビデオテープ、DVDの映像作品を視聴したりした。
そして定年後の年金生活の今でも、ときおり聴いたりしている。
私は幼少の頃から、根は単細胞の性格のためか、
ともかく惚れこんだら命がけの恋と同様である。
少年の頃から、なぜかしら女性に憧憬する癖があり、
青年の頃には失恋の方が多かったが、ときには相思相愛で無我夢中で、
恋い焦(こ)がれて時もあった。
私は映画、文學、音楽、そして愛(いと)しき女性にも、
熱愛している時は、この世の中、あなたしか視(み)えない、というように、
時を忘れ、ともすれば食事も忘れ、寝る間も惜(ほ)しんで物狂いになったりしてきた。
恥ずかしながら齢を重ねても私の悪い癖は、ときたま活火山のようになるので、
もとより理性などの平常心は吹き飛んで、心酔を重ねることもある。
そして、病気は治療すれば殆ど治(なお)るが、癖(くせ)は治ることは少ない、
と格言があるが、ときおり私は理性のある人に何歳になったらなれるの・・、
と思ったりする時もある。