夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

ふたたび農家の児として育てられた『里彦』の私が、やがて海の情景に魅せられ・・。

2024-09-21 14:25:14 | 喜寿の頃からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の79歳の身であるが、
先程、ぼんやりとテレビを視聴する中、行楽地の海の情景が映し出されて、
見惚(みと)れていた・・。

やがて幼年期、農家の児として育てられた私が、
初めて海の潮の匂いを感じた時、
或いは幾たびか国内旅行で海を観たりして、果てしなく拡がる海に驚いたりしたこと、
思いを馳せたりした・・。 

               

私は1944年(昭和19年)の秋に、農家の三男坊として生を受けた。

やがて地元の小学校に1951年
(昭和26年)の春に入学した当時は、
祖父、父が中心となって、小作人だった人たちの手助けを借りて、 程ほど広い田畑を耕していた。
そして所有している田んぼの中に小さな川が流れ、湧き水もあり、 竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。

やがて私が1953年(昭和28年)の小学2年の三学期に父が病死し、
翌年の1954年(昭和29年)の5月に祖父も他界され、
生家は大黒柱の2人が亡くなり、没落しはじめた・・。


こうした中、確か小学3年生の頃、
先生から『山彦 海彦』の話を私たち生徒に優しく教えて頂いた時、

私は少し戸惑ったりした・・。

少年の私としては、山の幸で生活されている両親に育った『山彦』でもないし、
或いは海辺で生計をたてている両親の児の『海彦』にも属さないので、
困ったなぁ・・と心の中で呟(つぶや)いたりした。

この頃の生家は、周辺は平坦な田畑、雑木林、竹林などが広がり、
少し離れた周辺はゆるやかな丘陵であり、国分寺崖と先生たちは称していた。

この当時の私は、山辺も知らなかったし、海も観たことのない少年であり、
やむなく里の児の『里彦』だ、と秘かに心に決めたりした。
このような深情が私の心の奥底に今だあり、『里彦』とか『里っ児』と思ったりする時もある。

          
       

私が海の匂いを初めて感じたのは、映画の『二十四の瞳』からであった・・。
確か1954年(昭和29年)の秋、小学4年生だった私たち生徒は、
先生に引率され学年別に指定された日に電車に乗り、
京王線の布田駅の近くの映画館で『二十四の瞳』を観賞した・・。

後年になると、木下惠介・監督の『二十四の瞳』の名作と知るのであるが、
この当時の私は、映画のシーンの小豆島の海の情景、修学旅行に行く瀬戸内海の景観に、
呆然と観て、あれが海かょ・・と少年心なりに衝撃をを受けたりした。

そして、ストーリーも完全に理解できない私は、
数多くのシーンで涙を浮かべたりしていた。


この映画で何よりも心を震わせ、感極まって涙を流したのは、
敗戦後の恩師の大石先生(高峰秀子さん)の教員復職の祝賀会を成人した生徒たちが開き、
戦争で失明した磯吉(田村高廣さん)が、一年生の時に先生と生徒12名の記念写真を指差しながら、
生徒全員の位置を示すシーンであった。

そして、この時に廊下に立っていた成人した生徒の女性(月丘夢路さん)が、
『浜辺の歌』を唄うシーンであった。


この『浜辺の歌』は、圧倒的に海の匂いを感じ、

その後、私は国内旅行で幾たびも海辺を観たり、海岸を散策したりすると、
心の底で、『浜辺の歌』を唄ったりすることが多かったりした。
          
             

そして私が初めて海を観たのは、1956年(昭和31年)の小学6年生の夏、
独りで小田急線に乗り、湘南海岸の江ノ島に行き、海岸、展望台から相模灘の海を観て、
田舎者の里彦の私は言葉もなく、果てしなく彼方までの海原を呆然としながら、
長らく見つめたりした・・。



やがて1960年〈昭和35年〉の夏、高校1年の私は夏休みを利用して、
初めて独りで宿泊する旅行をして、伊豆七島のひとつの大島に訪れた。

夜、東京湾の確か晴海埠頭(はるみ・ふとう)だった記憶しているが、
ここから乗船し、早朝に伊豆大島を訪れた後、
午後に出航する観光船で、伊豆半島の下田港に向かい、下田にある観光旅館に宿泊する。

そして翌日は、伊豆半島の西岸を観光周遊バスで、名所に立ち寄りながら北上し、
修善寺にある観光旅館に宿泊した後は、 三島まで私鉄を利用し、
国鉄(現在・JR)で東京駅に帰京するプランであった。

この旅路の中、伊豆大島の元町港から下田港行きの定期航路の観光船は、高波の為に欠航し、
私は今宵の宿は下田にある観光旅館に宿泊行きのする予約をしていたので、
あわてふためいたりしたが、やがて熱海港行きの定期航路だけが、
午後2時過ぎに出航、と報じられたりした。

このような状況で、やむなく熱海港行きの定期観光船に乗船したが、
私たち観光客で満席となり、私は客室に入らず、サン・デッキ付近の小さな椅子に腰掛けた。

空一面は、わずかな雲で快晴の青空が拡がり、私は燦燦と照り昼下りの陽射しを全身に浴び、
果てしなく海原が広がる情景を眺め、そして潮風を受けながら、私は身も心も爽快な心となった・・。

この当時は、私にとっては苦手な俳優の加山雄三さんが演じた若大将シリーズ映画が、
盛んに映画館で上映されていた時代であった。
そして海に魅了される人たちの思いが、私なりに少し解かったような心情となった。

わずか1時間半ばかり航路であったが、 熱海港を下船後、
私は伊豆急行が開通前の時期で、 東海バスの下田行きの路線バスの乗車場所を何とか探し、
乗り込んだりした旅路の想いである。

この後は50数年の中、幾たびか旅を重ねている中で、冬のオーホック海の厳冬の荘厳な流氷、
日本海、太平洋の近海をフェリーなどに乗船して観たりしてきた。

             

過ぎし2010年〈平成22年〉の2月下旬に、
小笠原諸島の『父島』でザトウクジラを観ることを最優先課題として、
私たち夫婦は2月24日から3月7日まで船中泊往復路2泊、『父島』のホテル滞在9泊の旅路をした。
   
この後、陸地の新緑、紅葉、雪が舞い降る旅を幾たびを重ねて、
そして2013年〈平成25年〉の2月に、南海の情景も観たくなり、
八重山諸島の中核の石垣島に9泊滞在しながら、 この周辺の地、海を観たりしてきた・・。
   
    

こうした八重山諸島の情景を見たりした中、何かしらヨットで《サンセット・クルーズ》があると知り、
私たち夫婦は申し込みながら、観光の乗船客は6名前後かしら、と私は家内と談笑していた。

まもなく欧米人のような方で細身の長身の容姿の40代の男性が、 私たちの近くに来て、
『XXさんですか? 私が本日の《サンセット・クルーズ》担当するXXXXです』
と私に日本語で挨拶した。

私は観光ツアーの方は、日本人の男性で船長のアシスタントの若き男性を想定していたので、 少し驚いたが、
家内は全く予測していなかったので驚いた、と後で私に言ったりした。

そしてこの欧米人風の男性に導かれて、
送迎車に乗り、やがてヨットが係留されている桟橋に行った。


やがてアシスタントもいなく、この欧米人風の男性がたった独りで操縦、案内人と知り、
私たちは最後部の椅子席に腰かけた。                

私たちが何よりも驚いたのは、乗客の観光客は私たち二人だけで、
貸切船で贅沢この上もなく、と私は感じたりした。

そして私は日本語と英語の単語を混ぜ合わせて、この欧米人風の男性と談笑したりした。
 
まもなく桟橋を離れて、この当時は尖閣諸島で緊迫していた時で、海上保安庁の巡視船(?)が視られると、
『何かとお忙しくて・・大変ですねぇ』
と操縦士兼案内人の欧米人風の男性は、私たちに言ったりした。

このたった一言で、私はこの方の感性と思いに瞬時に魅了され、
お互いのこれまでの人生航路を話し合ったりして、 交遊を深めたりした。

   
    

    

この後、私たち夫婦は夕陽が海の彼方の沈む情景を観たりした。

やがて私たち夫婦はホテルに帰館した後、
確かに海上に於いての安全、救助などは、海上保安庁の諸兄諸姉で、
そして領海の保全は米軍に協力を仰ぎながらも、海上自衛隊の諸兄諸姉も、 果てしない努力と英知、そして責務で、
私たち国民は守られている、と私は感謝を深めたりした。

             

余談であるが、旅路で『浜辺の歌』を唄ったのは、たまたま2018年の4月、
沖縄本島の北西部地域の本部(もとぶ)にあるリゾートホテルに6泊7日で滞在する中、
「クロワッサン・アイランド」と称せられる水納島(みんなじま)を訪れた時であった。

(略)・・上陸後、まもなく私たち夫婦は、浜辺を散策した・・。

              

そして家内は、日傘を差して沖の方に歩いて行った。

私は付近の浜辺に腰を下ろして、長らく打ち寄せる清怜な波、澄み切った波間を眺める中、
何かと単細胞の私は、脳裏からひとつの歌が浮かび、心の中で唄いだしたりした・・。

                

♪あした浜辺を さまよえば  昔のことぞ 忍(しの)ばるる
 風の音よ 雲のさまよ  寄する波も 貝の色も

【 『浜辺の歌』 作詞・林古渓、作曲・成田為三 】 
留意)1916年(大正5年)に作詞・作曲に伴い、著作権保護期間から過ぎているが、
敬意しながら転記させて頂いた。


このような歌は、幾つかの時代の悲しみも、或いは喜びも、
すべて幾千万年の中で打ち寄せる波が浄化する、
と漠然と思いながら、長らく眺めたりした・・。  
 
         

このように農家の児として育てられた『里彦』の私が、
やがて海の情景に魅せられ、早や65年が過ぎている・・。


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