夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

広島に向かって、80歳になる無力な私は、哀悼の意を表して、ただ黙祷を重ねて・・。

2024-08-06 12:55:42 | 喜寿の頃からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の9月の誕生日を迎えると満80歳の身であるが、
洗面した後、玄関庭に下り立ち、襟を正して黙祷したのは朝の7時過ぎであった。

私は1944年(昭和19年)9月に都心の郊外で農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945年(昭和20年)8月15日に、かの大戦は敗戦となった。

そして敗戦時は一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代に属するが、
8月6日のこの日の午前8時15分に、
対戦中のアメリカが、人類史上初めて広島市の市街に原子爆弾を投下され、
少なくとも15万人の人が即死し、数多くの方が被ばくされたことは学んできた。
          
このことは戦勝国となったアメリカの歴史をどのように描いても、厳然たる事実である。
                    
本日は、79回目の原爆忌を迎える。
広島市の平和記念公園に於いて、平和記念式典(原爆死没者慰霊式・平和祈念式)が営まれ、
被爆者や遺族らが犠牲者の冥福を祈り、
核兵器廃絶への思いを新たにされる。

           

私は沖縄戦が事実上終結した6月23日の『沖縄慰霊の日』、
原爆という余りにも過酷で悲惨な8月6日の『広島被爆』、9日の『長崎被爆』、
そして15日の『終戦記念日』と称せられる『敗戦記念日』は、黙祷をして57年となっている・・。

そして、かの大戦で余りにも多くの方たちが亡くなわれて、
尊い犠牲の上で、今日の日本の心の平和の礎(いしずえ)である、と思いながら、
戦争を知らない私でも深い心の傷として、今日に至っている。

このような思いから、私は国民のひとりの責務として、
この日は広島の空に向い、人々に哀悼の意を表して、黙祷をし、尊い命の冥福を祈っている。

          
          
第2次世界大戦中、アメリカのルーズベルト大統領はドイツに原爆開発で先んじられることを恐れ、
やがて1942年8月に軍部主導によりマンハッタン計画発足させた。

そしてルーズベルト大統領が死去後、選出されたトルーマン大統領は原爆開発のマンハッタン計画の実態を知らされ、
動顛したが、やがて日本を降伏させる『ポッタム宣言』をイギリスのチャーチル首相、ソ連のスターリン首相と
協議する中、1945年7月16日 ニューメキシコ州アラモゴードで原爆実験に成功を知った。

そしてアメリカは、大戦後の状況を圧倒的な優位を確保する為に、特にソ連を意識して、
核兵器の威力を誇示させて、8月6日に 広島に原子爆弾投下、9日に長崎に原子爆弾投下した、
このような思いを私は深めている・・。

この後は周知の通り、戦後は東西冷戦体制の中で、核開発競争は激化し、
アメリカに続き、ソ連、イギリス、フランス、中国の各国が原爆実験に成功させて、
核兵器は世界へ拡散する時代に邁進した。

こうした核兵器開発競争は、もとより地球を破壊し人類を滅亡させるにはあり余るほど、
核兵器の製造・備蓄、そして核実験による地球環境の破壊、
更に核実験場周辺に多数の被曝者を生み出してしまった。

やがて1998年5月、インド、パキスタンが相ついで核実験を行ったことにより、
世界は核兵器保有国がさらに増えていくこともあり得る危険な局面を迎えている。

このように世界の主要国は、核の威力を背景とした軍事力と経済力などで、
したたかな外交が実施され、
それぞれの国は、国益を配慮した政治が行われている現実がある。

そして核兵器廃絶と多く方から念願されても、不条理な世界となっている・・。

このように高齢者の無力な私は、ただ8月6日の朝には、
西の空の果てに有る広島市に向かって、哀悼の意を表して、ただ黙祷を重ねてきたりした・・。


                       


過ぎし私が高校一年生の時、私は下校の時に、映画館に寄り、
ひとつの作品を鑑賞して、震撼させらながら、やがて帰宅したりした。

この作品は、アメリカとソ連の冷戦下の中で製作された、
核戦争後の放射能汚染の恐怖を淡々と描いたシュート原作で、
スタンリー・クレイマー監督の『渚にて』(1960年)であった。

《・・ 1964年、某日、オーストラリアのメルボルン港に、
一隻のアメリカの原子力潜水艦が入港する。
艦長以下、全乗組員は、異常で緊張に青ざめていた。

なぜならば数カ月前に勃発した第三次世界大戦で、原子爆弾が発射され、
今や地球上はこの南半球の一部を除いて、強烈なる放射能に襲われて、
全ての生物、人間はもちろんあらゆる生き物が死滅してしまったからだ。

その南半球のオーストラリアにも刻々と死の灰が近づきつつあり、
この街も驚くべき風景を現出していた。

石油も石炭も電気も、全てのエネルギーが使えなくなったメルボルンの市民たちは、
自転車と馬車で交通するしかない。

この港で死を待つか、すでに完全に死滅したと信じられる祖国アメリカに帰投するか、
艦長は乗組員の意見を受け入れて、断乎出港する。(略)

原子力潜水艦は、黙々とサンフランシスコに向かう。
その頃に艦長は、或る異常に気づく。

すでに無人の国と化した筈のアメリカから、
意味不明の無電が発信されてくるのを傍受したからだ。(略)

そしてついにサンフランシスコ港に到着、
予想した通り、街には人っこ一人いない。全てが原始に無に帰している。

しかし、その謎の音は、まだ続いているのである。
まったく意味の取れぬその発信音を逆探知して、
乗務員は或る工場に入ってゆく。

もちろんそこには人間の姿はない。
そして室内に入る。

窓が明け放たれ、微風が吹き込んでいる。
不気味なまでに静かな風景だ。

発信音の根拠は、ついに発見された。
それは風に揺れている窓際の無電器である。
そして打電していたのは、カーテンだった。

そのカーテンに風が当たるたびに、そこに半ば倒れかけていたコカ・コーラの空き瓶が、
無電器のキイを心なくも叩いていたのだ。

無人の北半球から唯一つ不気味な電信を送り続けていたものは、
なんとコカ・コーラ一本の空瓶だった。 (略)・・

          猪俣勝人・著作『世界映画名作全史 戦後編』・・》



このような核の恐怖を描いた映画、文学の作品も、数多く公開されてきたが、
あたかも無視するように現実は動いている・・。

コメント (2)
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