夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
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かの大戦、九十九里から米軍上陸計画、現地の91歳女性「最近までデマかと」、私は学び、震撼させられ・・。

2024-08-14 14:24:43 | 喜寿の頃からの思い
先程、【 読売新聞オンライン 】の『戦後79年特集へ』の中で、
『 九十九里から米軍上陸計画、現地の91歳女性「最近までデマかと」・・・
  本土決戦なら 戦後日本は東西分裂の可能性も 』と題された見出しを見たりした。

私は東京の調布市に住む79歳の年金生活の身であるが、
過ぎし1944年〈昭和19年)9月下旬、今住んでいる近くで農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945年〈昭和20年)8月15日に日本は連合国に降伏し、敗戦となった時、
1歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代のひとりとなっている。

後年になると敗戦する数年前の状況に関して、祖父、父、母、叔母の同居する人たちから、
或いは親戚の叔父、叔母からも、この当時のことを教えて貰ったりしてきた・・。

         

この当時、住んでいた北の方面には軍事戦闘機を製造する中島飛行機の工場があり、
西の方面には軍事物資を生産する軍需工場とされた東京重機が数キロ先にあった為、
ときおり近くに爆弾が落ち、空襲警報のたびに、
宅地から少し離れた生家の崖の雑木林にある防空壕に避難した、と話しを聞いたりした。

祖父と父か中心となって、程ほどの広さの田畑を耕し、
小作人の人々の手も、お借りたりしていた時代でもあった。

そして空襲警報が発令されると、何をおいてもとりあえず防空壕に避難したので、
慌しい恐怖の時代でもあった。

少しばかり遠方にあった軍事物資を製造する場所、軍用機を生産している場所を目標に、
米軍の爆撃機が幾たびか飛来し、爆弾を大量に落としたのであるが、
ときには付近の田畑、雑木林に落下した、 と後年に親戚の叔父さんに私は教えて貰ったりした。

そして250キロの爆弾と言われても私は定かでないので、
更に教えを乞うと、今で言うと大きなプロパンガスぐらいょ、と叔父さんは私に教えてくけたりした。

やがて私は大きなプロパンガスのような爆弾が、空から大量に降ってくる状況を想像すると、
身も心も身震いをしたのは、高校生の頃であった。

そして後年に、1944年(昭和19年)11月24日、アメリカ軍は、
大型長距離爆撃機の『B29』がマリアナ諸島を飛びだった111機が東京に初空襲し、
目標は中島飛行機の工場だった、と学んだりした。

        

その後、幾たびか東京の都心にも空襲し遭い、決定的な東京の大惨事は、
1945年(昭和20年)3月10日、『B29』が320機以上が、
1600~2200メートルの超低高度で、夜間に焼夷弾攻撃という新戦術が、
本格的に導入された初めての空襲であった。

その目的は、市民の生活の場である木造家屋が多数密集する下町の市街地を、
そこに散在する町工場もろとも焼き払うことにあった。

結果として、大きくの街は焼かれ、焼け焦げた遺体の山となり、死者・行方不明者は10万人だった、
と記載されたいた。



私の生家は、戦時中の頃は、玄関の中は農家の特徴である広い土間となり、
その一角の壁面に、各自の綿入れの布地の防空頭巾をつるしていた。

そして空襲警報が発令されると、祖父、父、母、叔母の人々に導かれて、
私が生まれてまもない頃の時は、長兄は5歳、次兄は2歳であったので、
防空頭巾をかぶしてもらい、手をひかれながら、防空壕に避難された・・。

私は乳児であり、おしめの取れない時期であったので、
母たちは何かと大変だっただろう、と思い返したりしている。

後年になると、叔母たちが話されたので聞いたりすると、
この当時は、防空壕の内部の土の上に藁(わら)を敷いた上に、莚(むしろ)か茣蓙(ござ)に座り、
家族全員で互いの安否を確認した上で過ごした、と教えられたりした。

        

私が小学3年生の頃になると、図画の授業で先生に我ら学童は引率されて、
学校の近辺の丘陵の雑木林に行った時、
コンクリートできた高射砲の台の跡が数多く見受けられた。

もとより戦時中、アメリカ軍の飛行機の来襲に備えて、高射砲で向かい撃つ態勢で、
造られた形跡であった。
そして上空から見えにくいようにコールタールの黒色に塗られていた。

この頃までは、小学校の帰路に寄り道をすると、数多くの防空壕が見受けられたり、
生家の防空壕も小学の後年の頃までは遊んだりした。

生家の雑木林の崖の一角に、縦横1.8メートルぐらいの入り口に木戸があり、
少し入ってまもなくすると、横に掘られ横幅が広くなり、奥は8メートルぐらいと感じたりした。
わずかに湿度を感じたりしたが、広間のようにゆったりとしていた。

後年の成人になった私は、
防空壕は入り口からまもなく角度が横になったのは、万一の爆風を避けることであろう、
そして幾分広めの内部は、平素の農作物の保存場所に併用していた、
とおぼろげに思ったりした。

この私の生家の防空壕は、私が中学に入学してまもない時、
都道が新設されることとなり、跡形もなく付近の田畑、雑木林も含め、

住宅街に大きく変貌したのであった。

このように戦争を知らない私は、防空頭巾、防空壕、高射砲台の跡、
後年の後づけとして知ったりした程度である。

       

このようなことを思い馳せたりしていたが、
もとより防空頭巾は、アメリカ軍の爆撃機が飛来して空から爆弾を落としたり、焼夷弾で焼き尽くしたり、
軍事生産地、住宅街などに大打撃を与え、住民も殺傷する目的を防ぐ目的であるので、
地上にいる人たちは余りにも残酷で、戦争は悲惨である。

敗戦となった日本は、数多くの方は家族を亡くされ、住まいも焼かれ、財産も失くしたが、
国からの賠償もなく、国民ひとり独りが立ち上がり、敗戦後の日々を歩みだしたことに、
私はただ項垂(うなだ)れるばかりで、当時の人々に思いを馳せると、胸が熱くなる。


          

このような深情のある私は、今回の記事を真摯に学びたく、読んでしまった。

太平洋戦争末期、米軍は日本本土上陸を目指す「ダウンフォール作戦」を立案し、
その一環として、九十九里浜などから地上部隊を上陸させる計画を進めていた。

当時の様子について本紙に投書を寄せた千葉県旭市の斉藤あさ子さん(91)を訪ね、
平和への思いなどを聞いた。

女学生が貼り合わせた美濃和紙も使われた「風船爆弾」、岐阜の郷土史家が絵本に…「子供も大人も読めるように」
戦争体験を振り返る斉藤さん(7月3日、千葉県旭市で)
戦争体験を振り返る斉藤さん(7月3日、千葉県旭市で)


戦時中、旭町(現・旭市)の国民学校に通っていました。
九十九里浜は、東京を空襲する米軍機の通り道となっており、
落ち着かない日々を過ごしました。

米軍が、浜から上陸する作戦を立てていたとは、思いもよりませんでした。


米国および英国に対して戦を宣す――。
太平洋戦争開戦の放送を聞いたのは、9歳の時でした。

町中のラジオから軍艦マーチが流れ、
日本軍の連戦連勝を知らせる大本営の発表に大喜びをしていました。
校舎には、ご真影が掲げられ、私たちはその前を最敬礼して学校に通っていました。

潮目が変わったのは、1944年の夏です。
サイパン島やテニアン島など南の島が次々と玉砕し、戦況が悪化し始めました。
学校には、陸軍の部隊が駐屯し、私たちは近くのお寺で勉強するようになりました。

☆頻発する空襲

 

家族と写真に納まる斉藤さん(右から2人目)(1941年1月撮影、斉藤さん提供)
家族と写真に納まる斉藤さん(右から2人目)(1941年1月撮影、斉藤さん提供)


東京大空襲のあった45年3月10日の頃だったと思います。
未明に役所のサイレンが鳴り、一家で学校の防空 ごう に逃げ込みました。

空を眺めると、校庭にあった桜の木の枝に接触するほど、
低空で飛行機が飛んできました。

目をこらすと、胴体に黒々とした星のマークが見えました。米軍機でした。

爆音が響き、空からはチラチラと花火のように 、焼夷しょうい 弾が降ってきました。
夜明けに近くの田んぼに行くと、焼夷弾が、ずぼずぼと突き刺さっていました。
町中に落ちていたら、一面焼け野原になっていたことでしょう。

それから空襲が、頻発するようになりました。
郵便局員だった姉2人は、真夜中でも職場に向かって、建物を守りに行きました。

郵便局は、電話交換業務を担う大事な施設でした。
父を早く亡くした私の家には男手はなく、
母は、負けじと竹やりとバケツを持って、集会所に出向いていきました。

当時12歳の私は、飼っていた猫を抱いて、防空壕で、みんなの帰りを待っていました。
いつかは神風が吹いて、日本が勝つ。そう固く信じていました。


☆牛車で避難

 

斉藤さんの自宅近くの学校に駐屯していた旧日本兵(1945年、斉藤さん提供)
斉藤さんの自宅近くの学校に駐屯していた旧日本兵(1945年、斉藤さん提供)


ある日の夕方、近くの子どもたちと遊んでいたら、
兵隊さんから「浜から敵が上陸してくる。海から遠いところに逃げるように」と伝達がありました。

乾パンや金平糖などを詰め込んだ救急袋を背負って、
集合場所に行くと、牛車が待っていました。

見送りにきた姉たちは「今生の別れになる」と涙を流していました。
私は言葉も出ず、下を向いていました。

女学生が貼り合わせた美濃和紙も使われた「風船爆弾」、岐阜の郷土史家が絵本に…「子供も大人も読めるように」


牛車に乗り込み、いざ山の方へ動き出そうとした寸前、
兵隊さんが来て「上陸計画は中止になった」と告げました。
私はあっけにとられて、そのまま家に帰りました。

まもなく8月15日を迎えました。
近所のラジオ店で聞いた玉音放送は雑音がひどく、
何を言っているのか、分かりませんでした。

大人たちが「男はこれから奴隷だ。女は売られる」と動揺し、
戦争に負けたことを理解しました。

家では、夜になっても明かりをつけることはせず、
夕飯も食べずに暗闇で泣いていました。

戦後の食糧難は、農家だった母の実家に米や野菜を分けてもらって、しのぎました。
東京の人は大変だったと思います。
リュックに着物や帯などを入れて、畑にやってきてはお芋などと物々交換していました。


米軍の上陸作戦は、最近までデマだと思っていました。
もし戦争が長引き、千葉に上陸してきたら、
たくさんの人が命を落としていたに違いありません。

戦争は、偉い人が決めれば止められます。
世界で戦争が続いている今、指導者の勇気ある決断を強く願っています。(聞き手 鳥塚新)


☆九十九里浜から進軍計画…東京包囲「コロネット作戦」

 

防衛省の「戦史 叢書そうしょ 」などによると、
米軍は1945年11月に、九州南部に進攻して飛行場を制圧し、
翌46年3月には、関東方面に上陸する計画を立てていた。
東京に進軍し、日本に無条件降伏を迫る狙いがあった。

関東への上陸作戦は、「コロネット作戦」と呼ばれている。
千葉県の九十九里浜や神奈川県の相模湾から、同時に上陸して地上戦を展開し、
東京を包囲する構想だった。

現実味を帯びる本土決戦に備えて、大本営は九十九里浜などで、陣地構築を命じている。
ただ物資は十分ではなく、作業は進まなかったという。

東城村(現・東庄町)に駐屯していた元兵士は、
上陸した米軍に対し、銃先に剣をつけて突撃する命令が下されていたと証言している。

8月に戦争が終結し、作戦が決行されることはなかった。

ノンフィクション作家の保阪正康氏は著書で
「本土決戦が起きていれば、五百万人以上が戦死、戦病死していたのではないか」
と指摘し、戦後の日本統治は、東西に分裂していたとの見方を示している。・・ 》

注)記事の原文に、あえて改行など多くした。


千葉県の九十九里浜や神奈川県の相模湾から、同時に上陸して地上戦を展開し、
東京を包囲する構想・・初めて私は学び、震撼させられたりした。

その上、ノンフィクション作家の保阪正康氏は著書で
《・・「本土決戦が起きていれば、五百万人以上が戦死、戦病死していたのではないか」
と指摘し、戦後の日本統治は、東西に分裂していたとの見方を示している・・》
このようなことも学び、動顛したりした。



22歳の頃から、沖縄戦が事実上終結した6月23日の『沖縄慰霊の日』、
原爆という余りにも過酷で悲惨な8月6日の『広島被爆』、そして9日の『長崎被爆』、
まもなく15日の『終戦記念日』と称せられる『敗戦記念日』は、黙祷をして60年近く過ぎている・・。

こうした根底には、かの大戦で、余りにも多くの方たちが亡くなわれて、
尊い犠牲の上で、今日の日本の心の平和の礎(いしずえ)である、と思いながら、
戦争を知らない私でも深い心の傷として、今日に至っている。

このような思いから、私は国民のひとりの責務として、
こうした日は、人々に哀悼の意を表して、黙祷をし、尊い命の冥福を祈っている。 
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