私たち夫婦は今回滞在した『マリンピアザ オキナワ』の指定された部屋のバルコニーからは、
左側からは本部(もとぶ)の街並みの片隅が観え、瀬底(せそこ)島を結ぶ瀬底大橋、そして瀬底(せそこ)島が
観えたりした。
そして前方の彼方には、小さな島が見え、まもなく私は島の形がパンの「クロワッサン」に似ているので、
数多くの方たちから『クロワッサン・アイランド』と呼ばれていることを知ったりした。
正式名所は、本部半島の沖に浮かぶ水納島(みんなじま)であり、渡久地港から定期船で15分ばかりであるが、
島の周囲はサンゴ礁があるので、透明感ある美しい海となり、東から北にかけて広がる白い砂浜がある、
と学んだりしてきた。
そして右側には、伊江島が観られる・・。
私は伊江島に関して、書物より敗戦前の沖縄本土の過酷な決戦の前哨戦として、
連合軍が伊江島を破壊するような攻撃があったことを学んだりした。
そして周知の通り、残留していた日本軍か、或いは村民の長の決意か、
どなたが命令を発したことに取り出されてきたが、
確かなことは多くの村民が自決した悲哀を秘めた島・・と私は感じ深めてきた島である。
こうしたことを学ぶと、敗戦前に都心の郊外で生を受けた私でも、
後ろめたい深情があり、安楽に訪れることはできなくなり、哀悼を重ねながらも、
今回の旅路も訪れることはできなかった。
こうした心情で私はバルコニーから、幾たびも眺めたりしてきた。
やがて私たち夫婦は、安楽な心情で、『クロワッサン・アイランド』と称された水納島(みんなじま)に、
9日に訪れた・・。
宿泊しているホテルより渡久地港までタクシーで行ったりした。
この一昨日の7日には、本部(もとぶ)の街並みを散策している中、
この渡久地港も歩いたりした・・。
こうした中で、『沖縄県警察』の船舶が係留されていたことに、
沖縄本島は諸島に囲まれていることに、改めて教示させられたりした。
今回の9日、快晴に恵まれたの中、 水納島(みんなじま)までの定期船の時刻表、船舶を
改めて確認したりした。
やがて私たち夫婦は、10時発の定期船に乗船して、まもなく「クロワッサンアイランド」の水納港に着岸した。
まもなく私たち夫婦は、浜辺を散策した・・。
そして家内は、日傘を差して沖の方に歩いて行った。
私は付近の浜辺に腰を下ろして、長らく打ち寄せる清怜な波、澄み切った波間を眺める中、
何かと単細胞の私は、脳裏からひとつの歌が浮かび、心の中で唄いだしたりした・・。
♪あした浜辺を さまよえば
昔のことぞ 忍(しの)ばるる
風の音よ 雲のさまよ
寄する波も 貝の色も
【 『浜辺の歌』 作詞・林古渓、作曲・成田為三 】
留意)1916年(大正5年)に作詞・作曲に伴い、著作権保護期間から過ぎているが、敬意しながら転記させて頂いた。
このような歌は幾つかの時代の悲しみも、或いは喜びも、すべて幾千万年の中で打ち寄せる波が浄化する、
と漠然と思いながら、長らく眺めたりした・・。
この後、私たち夫婦は『水納港』待合休憩所に立ち寄り、外部はコンクリートで、
内部は広くゆったりとしている中、幾つかの木造のテーブル、長椅子があり、
こうした中で、浜の出入り口には階段があり、この階段で腰を下ろして、心地よい浜風を受けたりした。
やがて私たち夫婦は、クロワッサンのような形をしている内側に向かって歩き出したりした。
やがて、忽然にクロワッサンの内側に到着して、これも美麗な情景だなぁ・・と私は心の中で呟いたりした。
潮が退いた干潮の光景であったが、満潮になれば波間で満たされて消え去り、
こうした情景も素敵だ、と思いさせられたりした。
私たちは3時間ばかり、島内の光景を享受した後、水納港発の13時半の定期船に乗船して、
帰路に向かった。
私は定期船の後部より、彼方に過ぎ去っていく「クロワッサン・アイランド」と称せられる水納島(みんなじま)を観たりしたが、
この世のドリーム・アイランドだったことに、改めて気づかされたりした。