私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であり、
まもなく67歳を迎える高齢者であるが、
今朝、曇り時々淡き陽射しとなり、おだやかな『秋分の日』の朝を迎えた。
この日は、『祖先を敬い、亡くなった人々を偲ぶ日』と称せられ、
私たち夫婦も、毎年この日は私の実家の長兄宅に行き、
長兄夫婦と他愛ない話をした後、お墓参りに行く。
その後は、お寺の境内、墓地は、『春分の日』と同様に、にぎわう日でもある。
私はお墓参りは、生者の死者に対する慰めと思ったりしているが、
生を受け、両親、祖父母、親族、祖先のお陰で、私がこうして生きているので、
感謝の意味から墓前にお線香、花をささげて手を合わしている・・。
このように、『春分の日』、『お盆の日』、この日の『秋分の日』、そして『母の命日』、
年にわずか4回ばかりであるが、私たち夫婦はお墓参りをしている。
このような心情を私は思ったりしているが、
今朝いつものように朝の9時半過ぎに、私の実家の長兄宅に行くと、
親戚の叔父さんが来宅されていて、
長兄は不意の用事で留守であったが、義姉と叔父さんをまじえて私たち夫婦の4人で談笑したりした。
叔父さんは私より10年齢上の77歳の方で、この地域で住んでいる代々農家のひとりであったが、
ここ40年前頃から植木業をしている人である。
こうした叔父さんであるので、私は地元の情景の変貌などを、
敗戦後の1945〈昭和20〉年から、私が地元の小学校を卒業した1957〈昭和32〉年頃まで、
話題にしたのであった。
私の育った地域は、田畑、竹林、雑木林など圧倒的に緑の豊かな地帯であったが、
都心のベットタウンとして、私の小学生の高学年に急速に住宅街に変貌していたので、
私の幼年期のおぼろげな記憶をたどりながら、
叔父さんの確かな視線と思情を頼りに、話題の中核とした。
一時間ばかり談笑を重ねた後、叔父さんも帰宅されたので、
まもなく私たち夫婦も長兄宅を辞した後、
私たち夫婦は小田急線の『狛江駅』から徒歩数分にあるお寺まで、
お互いに運動不足もあるので、20分ばかり徒歩の道を往復しょう、と歩きだした。
寺院の境内は、大きな樹木が数多くあり広い方であるが、ご家族連れが多く、にぎわう中、
私たち夫婦はお墓に向った。
お墓は過日の台風で葉が散乱し、少し清めた後、
墓石を水で清め、途中で買い求めた生前の母が好きだったお花を4束のお花が奉(ささげ)、
お米を備えた。
そして、お線香を奉げた。
お線香の紫煙が立ち昇る中、
祖先はもとより、祖父、父、母、次兄などから、改めて私は見守られて日々を過ごしている、
と私は感謝をしながら、手を合わしたりした。
こうした思いを重ねた後、母のおもかげがよぎっていった。
生前の母と家内は、ある程度の遠慮がお互いにあった上、
何かと心身の波長が合い、
私は家内、母に秘かに、今でも感謝している。
私の場合は、父が私の小学校の2年の時、
その数ヵ月後に祖父も死去されたので、何かと母の存在が多かった。
このためか、ときたま生前の母のちょっとしたしぐさ、
言葉づかいが想いだされる・・。
そして淡き陽射しの中、お線香の煙が芳香を残して、
青き空の中にゆったりと、立ち昇りながら消えていった・・。
この後、私は80代のご高齢のご夫妻を見かけ、
お互いに労〈いたわ〉りながら、お墓にお花を捧げている情景を見たりした。
このように人生を過ごされれば、と私は深く感じさせられた・・。
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まもなく67歳を迎える高齢者であるが、
今朝、曇り時々淡き陽射しとなり、おだやかな『秋分の日』の朝を迎えた。
この日は、『祖先を敬い、亡くなった人々を偲ぶ日』と称せられ、
私たち夫婦も、毎年この日は私の実家の長兄宅に行き、
長兄夫婦と他愛ない話をした後、お墓参りに行く。
その後は、お寺の境内、墓地は、『春分の日』と同様に、にぎわう日でもある。
私はお墓参りは、生者の死者に対する慰めと思ったりしているが、
生を受け、両親、祖父母、親族、祖先のお陰で、私がこうして生きているので、
感謝の意味から墓前にお線香、花をささげて手を合わしている・・。
このように、『春分の日』、『お盆の日』、この日の『秋分の日』、そして『母の命日』、
年にわずか4回ばかりであるが、私たち夫婦はお墓参りをしている。
このような心情を私は思ったりしているが、
今朝いつものように朝の9時半過ぎに、私の実家の長兄宅に行くと、
親戚の叔父さんが来宅されていて、
長兄は不意の用事で留守であったが、義姉と叔父さんをまじえて私たち夫婦の4人で談笑したりした。
叔父さんは私より10年齢上の77歳の方で、この地域で住んでいる代々農家のひとりであったが、
ここ40年前頃から植木業をしている人である。
こうした叔父さんであるので、私は地元の情景の変貌などを、
敗戦後の1945〈昭和20〉年から、私が地元の小学校を卒業した1957〈昭和32〉年頃まで、
話題にしたのであった。
私の育った地域は、田畑、竹林、雑木林など圧倒的に緑の豊かな地帯であったが、
都心のベットタウンとして、私の小学生の高学年に急速に住宅街に変貌していたので、
私の幼年期のおぼろげな記憶をたどりながら、
叔父さんの確かな視線と思情を頼りに、話題の中核とした。
一時間ばかり談笑を重ねた後、叔父さんも帰宅されたので、
まもなく私たち夫婦も長兄宅を辞した後、
私たち夫婦は小田急線の『狛江駅』から徒歩数分にあるお寺まで、
お互いに運動不足もあるので、20分ばかり徒歩の道を往復しょう、と歩きだした。
寺院の境内は、大きな樹木が数多くあり広い方であるが、ご家族連れが多く、にぎわう中、
私たち夫婦はお墓に向った。
お墓は過日の台風で葉が散乱し、少し清めた後、
墓石を水で清め、途中で買い求めた生前の母が好きだったお花を4束のお花が奉(ささげ)、
お米を備えた。
そして、お線香を奉げた。
お線香の紫煙が立ち昇る中、
祖先はもとより、祖父、父、母、次兄などから、改めて私は見守られて日々を過ごしている、
と私は感謝をしながら、手を合わしたりした。
こうした思いを重ねた後、母のおもかげがよぎっていった。
生前の母と家内は、ある程度の遠慮がお互いにあった上、
何かと心身の波長が合い、
私は家内、母に秘かに、今でも感謝している。
私の場合は、父が私の小学校の2年の時、
その数ヵ月後に祖父も死去されたので、何かと母の存在が多かった。
このためか、ときたま生前の母のちょっとしたしぐさ、
言葉づかいが想いだされる・・。
そして淡き陽射しの中、お線香の煙が芳香を残して、
青き空の中にゆったりと、立ち昇りながら消えていった・・。
この後、私は80代のご高齢のご夫妻を見かけ、
お互いに労〈いたわ〉りながら、お墓にお花を捧げている情景を見たりした。
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