夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

《初冬の12月の旅》 北のまほろば青森の旅路は・・。【下】【2010.12.14.~12.22.】

2012-12-18 12:51:34 | 旅のあれこれ
          第9章  『県立郷土館』、そして冬の五能線は・・。

青森グランドホテルで朝食を終えた後、市内の路地に残り雪が見られ、歩道は根雪となり、
19日の日曜日の為か、主要道路以外は除雪されていなかったが、冬晴れとなり、
陽射しのある処では雪解けとなっていた・・。

こうした中、ホテルの前より『県立郷土館』までタクシーを利用した。

館内は、考古展示室、自然展示室、民俗展示室などが、
ゆったりとしたスペースで展示されていたが、
私は輝いた郷土の先人たちの展示室に好奇心があり、
それぞけの分野で業績を遺(のこ)された人の足跡を読みながら、
教示されることが多かった。

『県立郷土館』を辞した後、私達は青森駅を目指して、
根雪の歩道を注意しながら、冬晴れの中を歩いた・・。

駅に近づくと、新しくできた地場食材を買い求めことのできる『A-FACTORY』が、
数多くの人たちを見かけ、
青森駅発13時54分発の『リゾートしらかみ』に乗車するまで、
この『A-FACTORY』で過ごそうと私は家内に提案した。

館内は日曜日のせいか、地元にお住まいの家族、私達のような観光客で賑っていた・・。
確かに色々な青森県産の食材、食品があり、
昼食の代りに何かないかしら、と私達は探した・・。

私は餡子(あんこ)の餅を選定し、煎茶を探したのであるが見当たらず、ビールとし、
生まれて初めての組合わせに、我ながら苦笑した。
家内はアップルを焼いた菓子風のパンを頂きながら、コーヒーを飲んだりした。


この後、青森駅の在来線のプラットホームで、
秋田駅行きの『リゾートしらかみ』を待機していたのであるが、
入線してくる『リゾートしらかみ』を見て、私は嫌な予感をしたのである・・。
今年の5月に、秋田駅から不老不死温泉の最寄駅の『ウェスパ椿山』まで、
その後もウェスパ椿山駅から青森駅まで乗車して、まさに快適の体感をしたのであった。

この理由のひとつとして、座席のゆったりとした車内、広い車窓からの情景があったが、
JR東日本の秋田支社が運行している、この『リゾートしらかみ』の場合は、
トイレの横に小さな喫煙室があったのである。

最近ハイブリットの新型車両が登場し『青池』号と命名された、と何かのニュースで知っていたが、
これを機会に『ぶな』、『くまげら』号の両編成列車も、小さな喫煙室が廃止されるのではないか、
と私は危惧したのであるが、結果として的中したのである。

私は東海道・山陽新幹線に一部の車両には、喫煙室があるが、
昨今の嫌煙風潮に最適かしら、と愛煙家の私は思っているのである。

この『リゾートしらかみ』の運行として、せめての救いとして、
『弘前』、『川部』の両駅で6分、7分の待機時間があるので、私は『川部』駅のプラットホームで、
携帯灰皿を持ちながら、憩(いこ)いのひとときの煙草を喫ったりした。


『リゾートしらかみ』は、青森駅を発車して市街に出ると、積雪の情景の中で、
岩木山の雄大な景観が見え、リンゴの果樹園がまじかに見ながら田園の情景となった。
            

そして奥津軽と称せられる『五所川原』駅を過ぎて、まもなく海沿いの情景となり、
日本海の南下する。
そして海沿いの線を走りながら、海岸の美景が展開するのが、観光客として魅了されるひとつである。
私は秘かな願っていたことは、この時節として雪が舞い降る中の海岸線の情景、
或いは冬晴れの中、車窓から夕陽を見ながら、と期待していたのである。

結果として、どんよりとした曇り空の中を走破したが、『深浦』駅に近づく頃から、
雲の合間から落陽が観え、五分ぐらい私を含めの乗客は、歓声を上げたり、写真を撮ったり、
見惚(みと)れたりしていた。
            
この後、まもなくして宿泊する『不老不死温泉』の最寄駅のウェスパ椿山駅に、
夕暮れの16時47分に到着し、
私達は観光ホテルの待機して下さっているマイクロバスに乗車した。



          第10章  『黄金崎 不老ふ死温泉』

私達夫婦は、今年の5月24日から青森県の一部を周遊した時、
この『黄金崎 不老ふ死温泉』に3連泊して、旅の始まりであったが、
鮮烈な思いがあり、今回の旅も同じ部屋を予約できたので、宿泊することにした。
                
この時の思いとしては、下記のように投稿している・・。

【・・
私達夫婦はウェスパ椿山駅で午後4時20分に下車し、
駅前で待機していた宿泊先の『不老ふ死(ふろうふし)温泉』の送迎バスに乗り込んだ。
小雨の降り続ける中、日本海に面した黄金崎(こがねざき)にある観光ホテルには、10分たらず到着した。

そして、この観光ホテルの新館に3泊としていた。

http://www.furofushi.com/ 
☆『黄金崎 不老ふ死温泉』ホームページ☆


打ち寄せる波のまじかにある海岸の露天風呂で、
日本海の落陽を眺め・・として名高い観光ホテルであるが、
3泊4日をしたが、雨時々曇りの日々となり、夕陽が洋上に沈む光景は無念ながらめぐり逢えなかった。

しかし、雨が止んだひととき、館内から海岸に向う歩道を百メートルぐらい歩み、
波打ち際に、ひょうたん形の露天風呂がふたつある。
右手は女性専用、左手に男女混浴があり、私は男女混浴の湯船に身体をゆだねたりした。

2日目の午前10時過ぎ、ひとりだけ60代の男性がいるだけで、
長野県の茅野市の方で独り旅で北東北の温泉を廻りながら、旅を楽しまれている人であった。
とりとめない旅先の温泉のことなどを談笑を重ねたりした・・。

館内の大浴場からの日本海の眺めも良く、隣接しているパノラマ展望風呂は、
屋根がある小さな露天風呂のような感じで、洋上の情景がゆったりと眺められるので、
私は朝夕のひとときは、身も心もゆだねたりした。

そして、ロビーの片隅で、青森県の地方紙のひとつの『東奥日報』を読んだりし、
今回の旅の終わりまで何かと愛読したりした。


食事に関しては、日本海のこの地の周辺で獲れる地魚、貝づくしの幸を十二分に賞味でき、
見た目より遥かに美味しく、鮮度抜群が味の基本であることを改めて認識させらた。

私が何よりも魅せられたのは、部屋からの眺めである。
たまたま東館の二階の中央部にある部屋に宿泊したが、
窓辺にある椅子に座り、朝、昼、夕に幾度も眺めたりしたのである。

日本の海岸に多い防波堤のコンクリートやテトラポットなどはなく、
日本海の波が海岸に直接に打ち寄せ、海岸からまじかな洋上の周辺に、
小さな岩が集積して、あたかも小さな列島のように点在し、
こうした列島が幾10か観られ、波を受けたり、しぶきをあびたりしていた・・。
そして引き潮、或いは満潮の時に、うつろいながら変貌した情景を観せていた。

こうした風景を眺めたりしていると、室町時代の頃からの石庭など景観よりも、
遥かに深く魅了させられ、私は飽きずに眺めたりしていた。


5月27日の朝10時過ぎ、『黄金崎 不老ふ死温泉』の観光ホテルに別れを告げ、
私達は送迎バスで五能線のウェスパ椿山駅に向った時、
道路際には芽吹きが終わり新緑に染まり、中には早くも若葉となった落葉樹の中、
ときおり八重桜(ヤエザクラ)が観られ、私はこの地にも春到来を感じ、和(なご)んだりした。
・・】


このように5月の長雨に遭遇し、雨時々曇りの日が3日間続き、
今回の連泊の間は、夕陽を部屋から、露天風呂から、そして日本海に落陽する光景を観たり、
或いは初冬の時節であるので、日本海に舞い降る雪の情景を秘かに期待していたのである。


到着した翌朝は、ときおり風が強く吹く曇り空で、午前10時過ぎに私は露天風呂に向かった。
露天風呂の出入り口の本館まで行き、
海岸の施設の歩道を百メートルぐらい海岸線まじかにある露天風呂に到着するのであるが、
浴衣の下はパンズ一枚だけ、左手にバスタオルとタオルを入れたビニール袋を提げた姿で歩きはじめた・・。

ゆるい下りの歩道で、強く風が吹き、浴衣の裾(すそ)は捲(まく)れ上がり、
私は右手ですそを押さえて、
『やめ~て・・少し風・・穏やかにねぇ・・お願いいたしますょ・・』
と心の中で呟(つぶや)いたりした。

そして露天風呂の簡素な更衣棚に浴衣とパンズをビニール袋に入れたが、
このビニール袋が風を受けて、たなびいているのである・・。

私は露天風呂に身体をゆだねて、波打ち際の波、そして押し寄せてくる波間、
ときおり私は立ち上がり、彼方の日本海を眺めたりしていると、風が冷たく感じ、
露天風呂に身体を沈めるように深く湯に入ったりした。

このような天候であったので、もとより私だけの貸切風呂となったりし、
帰路、本館の露天風呂の出入り口のいるホテルのスタッフの方から、微笑まれた。

私は苦笑しながら、宿泊している新館の部屋に戻ったりした。


翌日は、冬晴れとなり、私は昨日の容姿で、露天風呂をめざした。
ときおり微風が吹く程度で、穏やかな快晴の中、散歩するみたいに海岸線までの歩道を歩いた。
そして、誰もいない露天風呂に心身ゆだねて入ったり、
押し寄せる波、そして遥か彼方のフェリー船が日本海を北上するのを見たりした。

そして露天風呂から上がり、冬晴れの陽射しに向かい、素肌を数分程さらしたりしたが、
寒さを感じることなく、むしろ快適な心情となったりした。

こうした中で、部屋からの情景を撮ったりした。
                       

                



          最終章  旅の終りは霧雨、その後は本降りとなり・・。

12月22日、私達夫婦のささやかな初冬の旅も最終日を迎え、
『黄金崎 不老ふ死温泉』の観光ホテルを10時半に辞して、
ホテルの歓送マイクロバスで最寄駅のウェスパ椿山駅に向う途中から、霧雨が降りだした。

五能線の『リゾートしらかみ』で新青森駅に13時25分に到着したが、
本降りの雨となり、『県立美術館』に訪れ予定であったが、少しためらいながら、
私達は新青森駅の地産地消飲食ゾーンの軽食店で、
サンドイッチを頂きながら、コーヒーを飲んだりした。

結果としては、駅より『県立美術館』まで、タクシーで往復したが、
もとより美術の基礎知識のない私達は、時間を無駄にした、というのが実感であった。
せめての救いがあるとすれば、棟方志功、寺山修司、両氏への私のつたない知識を深めた程度である。

私達は落胆して、新青森駅に17時半過ぎに戻り、
ふたたび地産地消飲食ゾーンの軽食店に寄ったりし、18時28分発の『はやて』東京駅行きを待ったりした。

そして私達は、今回の旅で好感したことを語りあった・・。

蔦温泉旅館の裏手に広がるブナ林、雪の情景が予想した以上に圧倒的な存在を実感させられたこと、
そして青森と蔦温泉の往復での路線バスからの雪景色の美景に心酔させられたこと、
奥入瀬渓流のタクシーで往還した道路管理3名以外・・誰にも逢わず薄墨の世界をあたかも独占できたこと・・。
そして蔦温泉旅館の前庭の片隅にある売店で、昼のひととき雪見酒を2日連続になったこと、

このようなことを話し合ったりしたのである。

少しばかり無念なことは、
家内は、蔦温泉旅館に夕食後に、5月に連泊した時、高齢の狸(タヌキ)が訪れ、
動物好きな家内は楽しみにしていたが、
旅館のスタッフに寄れば、落葉樹が染まる錦繍の前頃から来館しなくなったこと。

私は、五能線で風雪の景色、『黄金崎 不老ふ死温泉』で日本海に雪が舞い降る情景・・。

このようなことが私達には叶わなかったが、
これ以外は、私達夫婦が予想した以上の八甲田山連峰の山間部の道路の情景、
蔦温泉の周辺、そして奥入瀬渓流の景観であり、
雪深くなる1、2月よりも、この時節の20センチ~60センチぐらいで、
人気の少ないこの時節が、美的な要素を更に倍加させてくれた、と思ったりしている。

こうした意味合いに於いて、今回の初冬の旅は、
これ以上の美景の再現は、たぶん二度とめぐり逢えない光景が多く、私達は幸運に恵まれた。

                              《終り》
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《初冬の12月の旅》 北のまほろば青森の旅路は・・。【中】【2010.12.14.~12.22.】

2012-12-17 14:17:47 | 旅のあれこれ
          第5章  ときおり雪舞い降る中、奥入瀬渓流往還記

こうした中で、私たち夫婦は、蔦温泉に滞在している間、冬の奥入瀬渓流の散策を予定し、
当初は蔦温泉より11時32分発の一番バスの路線バスに乗り、
渓流の半ばにある石ケ戸の周辺を散策して、
石ケ戸を午後の2時4分発の路線バスで蔦温泉に戻る計画であった。

もとより冬の奥入瀬渓流の遊歩道に沿った路線バス、トイレも少なく、
今回の旅の往路からの八甲田山連峰のロープウェイの案内スタッフから、
遊歩道、トイレなどの閉鎖箇所もあるので、現地の方、宿泊先に確認されたら、
と教示を受けたりしていた。

私たち夫婦は確か10数年前の真冬の2月、古牧温泉に2泊3日で滞在したいた時、
この観光ホテルのサービスとして、無料の周遊バスで、
積雪の中の谷地温泉の立ち寄り湯、そして焼山の奥入瀬渓流館で自由食、その後は十和田湖までの
奥入瀬渓流の情景を観たりし、魅了されてた。
この時の奥入瀬渓流の遊歩道の近くには、積雪20センチ前後の中、
写真愛好家、絵を描かれる方、散策する愛好家などが見られていたが、静寂であった。

もとより奥入瀬渓流の景観は、多くの方を魅了させる情景であり、
私たち夫婦も現役サラリーマン時代の40代の時に、5月連休、そして夏季休暇を利用して、
北東北の周遊観光団体の旅行で訪れてきたが、私たちのような観光客でにぎわっていて、
とてもゆっくりと遊歩道を散策することはできなかったのであった。

こうしたささやかな体験もあったが、私は迷ったりしていたのである。


私は蔦温泉の館内の談話室で煙草を喫っていた時、
偶然に公衆電話の横にあるタクシー、貸切観光タクシーの料金表が掲載されていた。
たとえば、蔦温泉から石ケ戸まで3500円、蔦温泉から子の口までが5500円、
或いは貸切観光タクシーとしては、蔦温泉~奥入瀬渓流~子の口まで12000円(一時間50分)
と明示されていた。

この後、家内と話し合い、タクシーで石ケ戸、そして阿修羅の流れ付近まで利用しょう、
と思い立ったのである。


翌日の朝の10時、旅館前で私達は前日と同様に防寒着で身を固めて、
残り雪の多い冬晴れの中、タクシーを待ったりした。
まもなく、60代ぐらいのタクシー・ドライバーの方に、
『石ケ戸、そして阿修羅の流れまで・・その後は状況次第で・・』
と私はタクシー・ドライバーの方に言った。

走り出してまもなく、私が首からぶらさげたデジカメを見て、
『ご主人・・写真がお好きなんですか?』
とドライバーの方は私に言った。

このひと言が、私たち夫婦とドライバーの方との三人だけの物語のはしまりであった。

ドライバーの方は、旅行の写真専門誌に幾たびか掲載される写真を撮る名手である、
とこの後に私は知ったりした。
そして途中でタクシーを停めて、
この風景が宜しいかと思いますが、と私にアドバイスをして下さったのである。

その後も私たち夫婦に微笑みながら、道脇から渓流沿いの冬季に閉ざされた遊歩道を案内して下さったり、
私たち夫婦の記念写真まで撮って頂いたりした。

そして、何気ない会話を重ね、すっかり意気投合したかのように、
幾たびか停止し、私はデジカメで冬の奥入瀬の情景を撮ったりした。
  
  

            

結果としては、十和田湖の湖岸のひとつ子の口まで行き、湖岸の波打ち際の氷柱を観たり、
湖岸の樹木の根に氷柱の情景も教示して頂いたりした。
   

帰路も渓流の14キロぐらいの道のりを利用したが、
路面は除雪の後の真っ白な道、道路の路肩は除雪の雪で60センチぐらい、
そして周辺の樹木は雪をたたえて、ときおり雪が舞い降る情景であった。

何よりも驚いたのは、この時節に渓流の遊歩道を散策する観光客もいなく、
この長い道のりで、人影を見かけたのは自治体の職員らしい方を石ケ戸の休息所の館内に3名、
そして道路を補修管理されている方が3名だけで、
まるで奥入瀬渓流を私たち夫婦が借り切ったよう錯覚さえ感じたりした・・。
            
この12月中旬の時節は、もとより働いて下さる諸兄諸姉は師走の時などで、
より一層奮闘される時であり、
学生たちも期末試験、主婦の方は年末を控え何かと多忙な時、
中小業で35年近く悪戦苦闘が多い後に年金生活をしている私に許された特権かしら、と感じたりした。

そして私達は蔦温泉までの時を略歴を交わしながら楽しげに話し合ったりし、
映画の話になり、私よりひとつ齢上の方と判明し、互いに笑ったりしていた。
家内もときおり言葉を重ねて、談笑した。

旅館前に帰還した私たち夫婦に、
『後ほど・・この旅館にご夫妻の記念写真をお届けいたします』
とドライバーの方は明るい表情で言った。

二時間後、このドライバーの方は、ご自身が撮られた特選の奥入瀬の若葉の頃、
そして錦繍の頃、いずれも美麗な二葉の四つ切写真であり、
私たち夫婦の写真も備えられて、届けられた。

この世に一期一会(いちごいちえ)という言葉があるならば、
こうしたことの意味合いかしら、と私は家内と微笑んだりし、
ドライバーの方の表情、しぐさを思い重ねたりした。

          第6章  旅先の読書

私は観光ホテルなどで滞在の時は、ここ10年は本を持参したりしている。
温泉で心身疲れを休めながら、日中のひとときに寝たりするが、
ときには本を開いたりし、読書の時間で過ごすこともある。

今回、たまたま持参したのは藤原正彦・著の『管見妄語 ~大いなる暗愚~』(新潮社)、
そして嵐山光三郎・大村英昭・共著の『上手な逝き方』(集英社新書)の二冊であった。

読み終わった後、やはり蔦温泉であったので大町桂月の『冬篭帖』、『蔦温泉帖』の復刻版が
この宿の帳場で販売していると思いだして、買い求めたりした。

この時に、宿の方が、宜しかったらと、一冊の本をお借りした。
『酒仙・鉄脚の旅人 大町桂月  ~作品と資料でつづる桂月の青森県内における足跡~』であり、
編集・発行者は蔦温泉の小笠原耕四郎と明記され、1995年9月3日発行と記されていた。
私が10時間ぐらいで興味を持った範囲だけ読んだりしたが、
もとより大町桂月を研究される方には欠かせない書誌であることは、
私でも瞬時で解かる深い内容である。

この本は以前は販売されていたが、在庫は少なくなり、
お借りしたのであるが、ときおり私は持参したノートに転記をしたりした。

そして、気分転換に部屋から出て、談話室に行き、
薪ストープのはぜる音を聴いたりして、大町桂月への思いを馳せながら、
煙草を喫ったりしていた。

こうした手ごたえある本がなかったならば、
全国紙より地方紙の新聞を読んだりすることが多いのである。



          第7章  雪の情景の山岳道路で一路、青森市に・・。

12月18日
蔦温泉旅館に4連泊した私達夫婦は、旅館前のバス停より、
10時15分発の青森駅前行きの路線バスに乗車した・・。

車内の乗客は私達を含めてたった3名であり、私達はバスのドライバーの最も近い最前席に座り、
路面は除雪された後の真っ白な道、道路の路肩は除雪の雪で90センチ前後、
そして周辺の常緑樹の枝葉、落葉樹の枝には雪をたたえ、
ときおり雪が舞い降る情景に、幻想的な道のりが長く続き、見惚(みと)れていた。

ときおりドライバーの方が、雪の降りはじめたこの時節、そして厳冬の時期の状況を教えて下さり、
この八甲田山連峰の山間部の山岳道路の103号の情景に、
その時節ごとに思い馳せながら、私達夫婦は魅了された。

そして市内の郊外に近づくと青空が見えたり、その後は小雨となったり、
下車する頃の午後1時45分過ぎには、曇り空となっていた。

私は終点の『青森駅前』で下車する時、
『ひとつの映画を鑑賞したようで、ため息を重ねるほどの素晴らしい・・車窓からの情景でした・・』
と私はドライバーの方にお礼の言葉の代りに云った。

その後、私達は今宵の宿泊先の『青森グランドホテル』に向った。



          第8章  『森林博物館』、『アスパム』、そして炭火焼ホルモンで酒宴となり・・。

私達は『青森グランドホテル』にチエックインし、指定された部屋で小休憩をした後、
駅の向こう側にある市立の『森林博物館』に行こう、と話し合ったりした。

歩きだして、まもなく冷たい小雨が降り、10分後にはたどり着いたのであるが、
この『森林博物館』は、青森産のヒバをふんだんにつかわれた豪壮な木造二階建てあり、
各展示室もゆったりとし、展示品からも多々教示された。

特に『津軽森林鉄道』に関しては、
明治時代から津軽半島のヒバ材を伐採、輸送手段として森林鉄道が活躍され、
多くの地元の方たちが、これらに従事されて、
やがて青森県、そして国に貢献されている状況が克明に理解できる。

この博物館にあえて苦言を明記すれば、
一階にある一部屋の待合談話室に暖房があるだけで、
これ以外の各展示室は、外気と同じような寒さであった。


この後、家内も寒さを感じていたので、
少し暖かい処に、と云ったりし、私達はタクシーで青森県の新たに完成した観光物産展の『アスパム』に向った。
この『アスパム』は、三角風の独自な建物で、外観からも誰しもが解かりやすく、
展望フロアーからの眺めも良く、各フロアーはそれなりに創意工夫がある。

このように観て廻ったりすると、閉館時間となり、
私達は街中の中核にある新町に向かい歩きだした・・。

夕食の食事処を探していたのであるが、
蔦温泉旅館の4連泊で山里の幸、海の幸も美味しく頂いたのであるが、
この後の旅程として、日本海の海辺の『不老不死温泉』3連泊するので、
今年の5月に三連泊した時の体験からして、海の幸が圧倒的に多かったのである。

このように迷いながら、家内と街中の食事処の看板、ネオン・サインなどを見たりしていた時、
『炭火焼ホルモン たつや』と看板を見て、立ち止まったのである。
この料理だったならば、今後も重複はしないだろう、
と私は家内を誘ったら、同意したので入店した。

店内は広く、カンター席、そして5テーブルぐらいテーブル席が見えて、
この中のひとつのテーブルに、私達は席に着いた。

『こうした店・・30年ぶりぐらいかなぁ・・・』
と私は家内に云ったりしていた。
『わたし・・初めてだわ・・』
と家内はメニューの単品料理の数々を見たりしていた。
『このメニューの右側から・・ひととおり食べてみませんか・・』
と家内は私に云ったりした。

私達は、七輪風のコンロで網の上に、注文した数々の品をビールを呑みながら頂いたりした。

そして、左側のテーブルは3名の女性グループ、奥まったテーブルに2名の女性グループで、
お互いに楽しげに談笑しているので、
私は昨今の流行の『女子会』か、と思いながら、女性は元気で明るく前向きでいいよなぁ、
と心の中で思ったりしていた。

そして、私は少しは元気のでる特効薬として、メニューに掲載されている日本酒を注文した。
まもなく素焼きした茶碗に入った酒が、テーブルに置かれたので、
私は銘柄を訊(き)いたら、『じょぱら』と私には聴こえたのである。

家内も珍しい品の数々をビールを呑みながら、頂いたりしているので、
私も幾度も『じょぱら』をお代わりし、この品も美味しいねぇ、と盛んに食べたりしていた。

そして、少し酔いを感じながら、津軽弁は解からないが、
何となく私の性格が『じょぱら』に近いかしら、と微苦笑しながら感じたりした。

                               (つづく)

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《初冬の12月の旅》 北のまほろば青森の旅路は・・。【上】【2010.12.14.~12.22.】

2012-12-16 14:17:00 | 旅のあれこれ
          序  章

2010(平成22)年12月14日より、青森県の十和田湖の山奥にある蔦(つた)温泉に4泊、青森市内に1泊、
そして日本海の黄金崎の不老ふ死温泉に3泊し、8泊9日で訪れてきた・・。

たまたま春の終わる頃の若葉の時節、5月24日より6月2日に、この地域を周遊した。
東京駅から秋田新幹線『こまち』で秋田駅に着いた後、
リゾート『しらかみ』に乗り換えて北上し、『ウェスパ椿山』駅で下車した後、
黄金崎温泉の『黄金崎 不老ふ死温泉』の新館に3泊。

この後は、リゾート『しらかみ』で北上し青森駅の終点まで、
そして竜飛岬まで津軽腺とバスを利用して、竜飛温泉の『ホテル竜飛』で3泊し、
青森駅に戻った後は、駅より70分ぐらいバスに乗り、
八甲田山の連峰の中腹にある酸ケ湯(すかゆ)温泉の『酸ケ湯温泉旅館』に1泊。

そして十和田湖方面に路線バスを利用して、蔦(つた)温泉に2泊した後は、
路線バスで青森駅に戻る。

そして青森駅から特急スーパー『白鳥』で八戸駅で下車し、
八戸駅より東北新幹線『はやて』で東京駅に向かい、帰京。

このような行程の旅をしたが、雪の舞い降る頃に再び訪れようと、私たち夫婦は話し合ってきた・・。

今回の旅は、この中の一部を再訪したので、季節こそは違うが、文字通り再訪記でもある。

                                 
         第1章 北のまほろばの往路は

12月14日
東京駅を8時28分に予定通りに発車した『はやて 17号』に乗車した私達夫婦は、
私はいつものようにJR東日本が発行する車内月刊誌の『トランヴェール』を読み始めた。

作家・伊集院静(いじゅういん・しずか)氏の定期連載『車窓に謡れる記憶』を愛読しているひとりであり、
今月の12月号は『ストーブ列車』と題して綴られていた。

そして、12月4日より、東北新幹線全線開通・新青森駅開業に伴い、
青森県の特集が掲載されていた。

私はこの特集記事のひとつの『あったか青森、温もりの食』と命名された郷土料理に関して、
多々教示されながら精読した・・。

《・・
南部地方 雑穀・粉食の文化
     代表的な温もり料理として、『せんべい汁』

下北半島 海の幸、粉食とジャガイモの団子
     代表的な温もり料理として、『ひっつみ』

津軽地方 平野部の米食、西海岸の海の幸
     代表的な温もり料理として、『けの汁』

陸奥湾 青森の冬を代表するタラ料理
     代表的な温もり料理として、『じゃっぱ汁』

・・》

このように青森県の代表的な分布で、それぞれの地域で古来より伝わり、
愛食したきた人に思いを重ねながら、私は享受されたのである・・。


この後、定期連載の『湯守のいる湯』として、
たまたま私達夫婦が再訪る蔦(つた)温泉が掲載されて折、
私は読んだ後、家内にこの記事について伝え、
偶然ながら今宵から4連泊する『蔦温泉旅館』に微笑みながら、話し合ったりした。

この後、新青森駅に11時56分に『はやて 17号』は到着し、
私達は『蔦温泉旅館』に向う為に、冬晴れの中、路線バスの十和田湖行きのバスに乗車した。

市内の情景は、数日前に雪が降られたらしく道路の路肩に除雪された雪があり、
のどかな感じであり、やがて八甲田山の連峰の付近の道路に入ると、
除雪された後の白い道、路肩には70センチぐらいの除雪された雪、左右の樹木の枝には雪が残っていた。

八甲田山のロープウェイの入り口で、路線バスは冬季運行の時間調整で、
30分ほどの休憩時間となり、私達はロープウェイの入り口にある常設されている案内のスタッフの方たちに、
私達は冬の奥入瀬渓流を散策する予定であったので、
昨今の状況、注意点どを丁重に教えて頂いたりした。

そして、私達の乗車したバスは、午後3時半過ぎに、
少しばかり滞在する『蔦温泉旅館』が観え、まぎれなく雪囲いの正面玄関となっていた。
         


          第2章 蔦温泉旅館の初冬の情景は

私達夫婦は、今年の5月31日より二連泊した時、
【・・
この後、館内を歩くたびに、私は驚かれされた。
この本館は天井、柱は周辺の森から切り出された材木がふんだんに取り入れ、
エンジュの長押、トチの樹のコブを生かした装飾の数々・・
一部は築後100年近いもあり、書院造りの床の間も豪壮で、
そして別館へのは本館から60段の優美な存在感のある階段は圧巻であった。

私達の宿泊した部屋は、20数年前の建てられた西館で近代的な造りであったが、
窓辺からのブナの森が隣接していたので、
早朝、朝、昼下がり、夕暮れの陽射しのうつろいが、樹木の枝葉を照らす輝き、
見飽きることのない光景であった。
そして、夜には満天の星空が観られた、格別に景観の良く、
私達は幾度も、その時々に見惚(みと)れたりしたのである。

私は浴室に行った時、仰天させられた。
2泊している間、男女別の『泉響の湯』、そして男女交代制の『久安の湯』に、
何度も通った・・。
しかし最初に入った時、観光ホテルなどにある洗い場の湯の蛇口、シャワーもなく、
私はどうして、と驚ろいた。
そしてボデー・ソープのみがあり、困ったなあ、というのが本音であった。

やむえず私は、掛け湯の90センチ正方形の湯船から湯桶で幾度もかけ、
ボデー・ソープをタオルにたらして、身体にこすった後、
掛け湯から湯桶で幾度もかけたり、
髪毛にボデー・ソープをたらして、髪の毛をこすり、
そして身も心も清めようと掛け湯から湯桶で幾度もかけたりしたのであった。
部屋に戻った後、ヘアー・シャンプが備品としてあったので、
私は苦笑した。


肝要の湯舟であるが、ホームページにある言葉をお借りすれば、
《・・
蔦温泉のお風呂はいずれも源泉の上に浴槽があり、
ぶなを使用した湯船の底板から湧き出す、
手が加えられていない「生の湯」をお楽しみいただけます。

「湯がこなれている」「こなれていない」という表現をしますが、
湯が空気に触れた度合いを言葉で表現したものです。
こなれていない温泉は刺激があり最初熱く感じます。

蔦温泉の「生の湯」というのも「こなれていない」湯のことであり、
当然最初は熱く感じます。
しかし二度三度と入るにつれ、やさしい湯であることが実感できるはずです。
・・》

このように解説されているが
湯船の底板はブナの感触を楽しみ、鈍(にぶ)児の私は最初からやさしい湯と感じ、
ヒバ材をふんだんに使用され、天井も遥か三階のような高さを見上げたり、
10分ぐらい浸かっていると、身も心も温まる湯であった。

夕食は苦手な部屋食であったが、
山菜のタラの芽、山ウド、ゼンマイ、ワラビ、フキノトウなど、
素材を生かし、創意工夫のある料理である。
そして朝食も含め、何気ない素材でも、料理された方の良心が感じられる数々で、
都心の少しばかり高級な食事処より遥かに素朴で上品な味であった。


この旅館は、建物の背景にブナ林があり、
遊歩道も整備され、身近にブナ林を散策でき、芽吹き、新緑、若葉の春の情景、
夏はたわわな葉で涼しく、
錦繍の時節には、黄色、朱色などに染まり、そして落葉、
そして落葉樹は舞い降る雪となり、静寂な冬眠のような情景、
いずれの季節も、多くの方たちに魅了させる稀な立地かしら、
と私なりに思ったりしている。
そして数多くある観光ホテルより、館内の建物、人も、
素朴さと品格のある圧倒的な存在さである。
・・】

このように私は好感し、
ときおり旅先で辛らつな言葉を発言する家内さえ魅了された蔦温泉旅館であったので、
今回の再訪となり、前回に宿泊した部屋を指定して、4連泊としたのである。
この部屋から観える景観は、このように変貌したのである。
             

正面玄関に隣接しているロビーというより談話室の感で、
トチの樹のコブを生かした板張りで、薪(まき)ストーブ、石油ストーブが暖となっていた。
薪(まき)ストーブは、薪が燃え、はじける音が静かな室内に響き、
私は滞在中に幾たびか談話室に訪れ、この薪が燃えながら、時折はじける音が魅了されていた・・。

壁面にひとつの絵が掛けられて折、
山里のゆるやか斜面には残り雪があり、数多くの落葉樹の根元周囲だけは雪が解けて、
芽吹きからたわわな幼い葉が見られ、
遠方の頂上の付近には常緑樹の中、落葉樹が赤めの芽吹きが観られて春紅葉の情景となり、
私は幾度も眺めたりしていると、
秘かな『春待ちわびる晩冬の山里の雪解け』と命名していた。

窓辺は木枠のガラス戸、厚手のビニール越しに15センチぐらいの細い丸太が、
幾重にも縦横と縄で縛った雪囲いが、地上から二階の棟まで傾斜して建てられていた。

私はこの雪囲いの丸太に、雪が積もったり、その下に氷柱(つらら)が競うように並び、
柔らかな陽射しを受けると、やがて激しい音と共に地表に落下した。

そして、厚手のビニールは、暖房もさることながらも、木枠のガラス戸を保護することも、
学びながら、私は見惚(みと)れたりしていた。



          第3章  初冬のブナ林の情景は

私達夫婦は、今年の5月31日より『蔦温泉旅館』二連泊した時、
この旅館の裏側にある広大なブナ林に魅了された。

この時の思いは、下記のように投稿していた・・。
【・・
『蔦温泉旅館』ホームページの『ぶなの森』の欄で掲載されている通り、
《・・
蔦温泉の周辺にはぶなの森を縫うように約2.4Km、
時間にして約一時間程の遊歩道が整備されています。

この遊歩道をひとまわりすると、蔦七沼と称される湖沼群の内、六つの沼を巡るこ
とができます。
大小様々な沼の水面に映るぶなの森が人々を魅了します。
・・》
このように解説され、私達は旅立つ前に調べたりしていたので、
チエック・イン前に歩き出した・・。

整備された遊歩道を歩き、ヤチダモ、オニグルミ、サワグルミを見たり、
ブナ、ミズナラの大木は、聳え立つように数多くあり、
私は圧倒された。

私は見惚(みと)れたり、デジカメで10数枚を撮ったりしていると、
たまたま通りがけの70代なかばの男性で、この付近にお住まいの方から、教えて頂いた・・。

ほんの一ヶ月前の頃は、落葉していた広葉樹が冬芽から春芽に育ち、
若葉が芽吹く直前に、
紅葉や萌黄色になる数週間の樹木の芽は鮮やかに萌える彩りとなる。
こうした光景を古来の人たちから、春もみじ、と称してきた。

この地のブナ林は、5月初めに芽吹き、そして萌黄色の葉、そして新緑となり、
下旬の頃には若葉とまたたくまに色合い染める。

このブナ林は、原生林だったが、
明治の初期の頃は薪や木炭を作る為に伐採されたりしたが、
秋に数多くの落ちた種子が自然に発芽して育ったブナで、樹齢100年前後が多い。
しかし中には、伐採されなかった数百年の大木も数多くある。

そして紅葉の10月中旬から下旬になれば、
ブナ、カツラ、トチノキの大木は、黄色に染めはじめて、
やがて葉が散る頃に、
ヤマモミジ、カエデ、ナナカマドが朱紅色、紅色に染められて、
数週間後には雪が舞い降る、
と錦繍期の情景も教示してくれた。

このような確かな言葉に、私は礼を重ねた後、別れた。


私達はブナ、トチノキ、カツラなど見たり、見上げたりしていると、
カエルの鳴き声と共に、蝉(セミ)の鳴き声が響いてきたので、
この時期にどうしてなの、と驚いたのである。
この後、温泉旅館で夕食を頂く前に、
エゾハルゼミですわ、と仲居さんから教えられた。
私は、蝦夷・・春・・蝉・・、と心の中で呟(つぶや)いたりした。

この豊かなブナ林で、渓流もあり、
私はムラサキ・ヤシオ・ツツジにも魅了された。
紫色に濃い桃色、或いは桃色に紫色を混ぜ合わせた色合いで、
渓流の中にある小岩に根を下ろして、恥ずかしげに咲いていた。
こうした情景を眺め、しばらく私はたたずんだりした。

私達はゆったりとブナ林をさまように2時間ばかり歩き、
お互いに至福の思いで、温泉旅館に向った。
・・】

今回、再訪するブナ林は、雪の降りはじめた12月の機会に、
森閑する中を散策したい、という願いも私達夫婦にあった・・。

到着した翌日の午前10時前、私達は防寒服、防寒登山靴、そして防寒帽子で身を固めて、
旅館の横手にある遊歩道を歩きはじめた・・。

積雪は20センチ前後で、吹き溜まりは30センチぐらいで、
遊歩道であるがこの冬の時節には、もとより除雪はされていなく、
ブナ、ミズナラの大木が数多く聳(そび)える中を歩いた・
                
そしてヤダモチ、オニグルミ、サワグルミなどの枝、小枝にわずかに雪が積もって折、
ときおり微風が吹くと、小枝は揺れて、花吹雪のように雪が空中を舞うように、
ゆっくりと地上に散乱した。

この後、ふたたび森閑とした森に還り、静寂となった。

このような情景に見惚(みと)れながら、ときおり立ち止まりデジカメで撮ったりし、
雪を掻き分けるように蔦沼までの遊歩道らしき路を歩いた。

蔦沼は、氷結はしていなかったが、森厳の中、静寂であった。
                     
帰路も雪と戯れるように、ゆっくりと歩いたりしていたので、
2時間ばかり過ごした後、手先に寒さを感じ、遊歩道の入り口にあるビジターセンターに戻ったりした。
           


            第4章 雪見酒の最適な場所は

雪のブナ林で2時間ばかり散策したり、戯(たわむ)れた私達は、
蔦温泉旅館のある入り口の道沿いに一軒の売店があり、
『熱いコーヒーでも飲みたいわ・・』
と家内が私に云ったので、私達はこの売店に入った・・。

5月の月末に初めて訪れた時、山菜をはじめ、昔にあったお菓子などある店で、
ご高齢のご夫婦だけで賄(まかな)って折、家内は帰路の時も買い求めた店で、特に塩トマトの甘納豆風に好感していた。

私達は店内の片方が食堂風のテーブルがあり、蕎麦とか饂飩(うどん)も食べることができ、
石油ストーブが店内を暖かくしていた。

家内は石油ストーブは苦手であったが、この石油ストーブは特有の匂いがなく、火力も強く、
私達は秘かに誉めたりした。

家内がコーヒーを注文している間、
私は店内の片隅に日本酒のコーナーがあり、ひとつの小瓶に思わず見惚れた・・。
『乾坤乃一滴(けんこんのいってき)』と命名された300mlの小瓶であり、
私は思わず手に取り、
《芳醇な香りとすっきりした味わいの辛口タイプ》と付記されていた。


蔦温泉旅館の広い前庭に雪が舞い降るのを眺めながら、
家内はコーヒーと昔風のお菓子、
私は命名された『乾坤乃一滴』に魅了されて、昼食の代りに呑みはじめたのである・・。
そして、店内にある山菜の根曲がり竹のたまり醤油風などを食べながら、
雪見酒となったのである。

もとより雪見酒は、昼下り、夕暮れ時に呑むのが最適であるが、
昼食の12時半過ぎも悪くない、と思いながらお代わりをしたりした。

家内もコーヒーをお代わりしたり、山菜の数品を買い求めたりした。


翌日、午前中に奥入瀬渓流めぐりをした後、
この売店の食堂のようなテーブルで、雪舞い降る前庭の情景を観ながら、私は2本ばかり呑み、
家内もコーヒーをお代わりしたりした。

そして私達夫婦は、ご高齢の奥さんに好感し、この蔦を去る日、
バスに乗る前に私達はコーヒーを飲んだりした。
この後、バスに乗り込んだ私達は、ご高齢の奥さんが大きく手を振ったので、
私達も手を振りながら、別れを惜(ほし)んだりした・・。
               
                            (つづく)             

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東京郊外の田舎者の私は、本日より初めて高湯温泉地に訪れることとなり・・。

2012-12-16 06:02:52 | 旅のあれこれ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳となった身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

ときおり家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

過ぎ去りし数年は、東北の各地を夫婦だけの個人型の旅行してきたが、
昨年の3月11日に東日本大震災で各地が甚大な被災となり、
私たち夫婦は、訪れてきた各地の余りにも痛々しい被害に唖然とし、
私たちの住む地域も余震が幾たびかあり、私の住む避難地の確認、防災器具の購入などをしたりした。

そして旅行の予定も中止し、私たち夫婦は我が家の専守防衛となり、家の内部の整理などに重点し、
日常生活も変貌したのである。

そして夏が終わり、落葉樹のたわわな葉が朱色、黄色などに染められる各地の錦繍の情景の紹介記事を見たりすると、
どの地域に魅せられるところは・・と漠然と探したりしたが、
夫婦だけの個人型の旅行より、幾分旅先の安全を配慮して、久々に団体滞在型のツアーに変更した。

この後、八ヶ岳の高原にあるリゾートホテルに10月16日より三連泊する団体滞在型で、
星空が観やすいリゾートホテル、と何かの雑誌で私は読んだりし、私たち夫婦は参加した。

この後も、11月13日より3泊4日で秋田県の田沢湖の高原温泉にある観光ホテルに
三連泊する団体滞在型に、乳頭温泉郷めぐりもあるので、私たち夫婦は参加した。

そして12月20日より4泊5日で、北海道の帯広市の郊外にある十勝川温泉に2泊し、
           
その後に未知の糠平〈ぬかひら〉温泉に2泊する団体の滞在型に、参加して訪れた。

今年になって、裏磐梯の檜原湖に隣接したリゾートホテルに三連泊する団体の滞在型で、
           
                部屋の窓辺より氷結した檜原湖
3泊4日で訪れた。

その後は、1月28日より2月3日まで、札幌市の郊外のリゾートホテルに滞在し、
        
                 支笏湖に訪れた時の情景
冬の札幌を中核とした地域を訪れた。

この後、私の住む地域は、初春より梅、そしてハナモモ、やがて桜花が咲く中、
この間は、落葉樹が芽吹き、そして萌希色、やがて新緑に染められる時節であり、
私たち夫婦は自宅の小庭、近く野川の遊歩道、或いは神代植物園の情景に、
魅せられて過ごしてきた・・。

こうした中で、家内は近くて源泉掛け流しの温泉地でゆっくり過ごしたいわ、
と私に言ったりした。

そして越後湯沢の旅館に宿泊する団体温泉滞在型に、
5月6日より3連泊するプランに私たちは参加した。

このように山里の観光ホテル、旅館、リゾートホテルなどで滞在して、
旅行を繰り返してきたが、
海を見ながら波打ち際に近い露天風呂で、ゆつくりと過ごしたいわ、
と家内は私に言ったりした。

そして私たちは余り遠くない伊豆半島で、海に近く温泉も良し、
食事処でも浴衣で良し、気楽に過ごせる観光ホテルを調べたりした。

この結果、私たちが選定した処は、伊豆半島の東海岸の熱海から少し南下した網代温泉で、
露天風呂から海を観ることができる観光ホテルを見つけたりした。
この後、この観光ホテルに電話で予約したので、5月21日より四連泊することにした。

この後は、10月22日より、北海道の洞爺湖に9泊10日で観光ホテルに滞在しながら、
周辺をひたすら散策したりした。


そして11月初旬になると、12月の初冬の旅行はどうしょうかしら、と私たちは話し合ったりしてきた。
私たちはクリスマス、家内の12月下旬の誕生日などの祝いに関しては、
私の定年退職した2004〈平成16〉年の秋以降は、できれば観光ホテルで温泉に入り、
ゆっくりとしたいわ、と家内の要望もあり、殆ど毎年のこの12月に旅行をしてきた。

今回、舞い降る雪の情景を観たい、そして温泉にも浸(つか)りたい、
私たちの要望した結果、ある旅行会社が企画された団体温泉滞在型、
《~奥州三高湯の秘湯 良質な乳白色の硫黄泉 湯三昧「高湯温泉」・・》
このように明記された3泊4日の観光ホテル滞在に私たちは魅了され、
本日から初めて福島県の「高湯温泉」に訪れることとなった。

尚、旅行の16日から19日まで、投稿文に関して、
私は《初冬の12月の旅》として題して、一昨年、昨年の旅路を五話ばかり書き上げていますので、
この間、予約セットし公開しますので、お読み頂き、ご笑話を願えれば幸いであります。

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誰でも楽に、北アルプスの冬景色を実感できる所は、西穂高口駅の展望台の付近!?

2012-12-15 12:31:54 | 旅のあれこれ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
今朝、テレビを視聴していると、厳冬の北アルプスの山なみが映しだされ、
この時節は少なくとも大学の山岳部などに体験した方で、単独行でなく冬山の高山の経験豊富な方たちと共に、
パーティで登山しなければ、とてもじゃないなぁ、
と若き日の大学を中退するまでにワンダーフォーゲル部で冬山に体験していない私さえ、微苦笑しながら、
確信を深めたりした。

この後、この中の一部の山なみを誰でも楽に、北アルプスの冬景色を実感できる所を思いだし、
私は微笑んだりした・・。

過ぎし日の2007〈平成19〉年の2月12日、
私たち夫婦は独り住まいの家内の母を誘い、奥飛騨温泉の観光旅館に5泊6日で、
温泉滞在旅行をした。

そして温泉にゆっくり入ったりしながら、ときには飛騨の高山の観光名所に往還したり、
家内たちは付近の名所を周遊したりしていた。

こうした中で、私は後期高齢者の家内の母でも、気軽に高地から北アルプス連峰を展望できる所に、
行きましょうと、と家内の同意を得て、誘った。

宿泊している観光旅館の前の新平湯温泉前より新穂高バスターミナルまでバスで20分前後で行き、
そして新穂高ロープウェイに乗車して、第1ロープウェイの乗車口の『新穂高温泉駅(標高1117m)』から
『鍋平高原駅(1305m)』まで乗った後、
第2ロープウェイの『しらかば平駅(1308m)』から終点の『西穂高口駅(2156m)』まで
ロープウェイの車窓から北アルプスの情景が見られる。


私たち夫婦は、この20数年前に観光団体周遊旅行で訪れた時には、
初夏の6月下旬の午後3時過ぎの影響下であったのか、
山霧につつまれて視界は10メートル前後の悲惨な状況であったりした。


私たち三人は新穂高バスターミナルに着き、新穂高ロープウェイの出入り口に向った。
             
そして第1ロープウェイ、第2ロープウェイに乗り、終点の『西穂高口駅(2156m)』に下車した後、
幸運にも冬晴れで風もない中、マイナス5度前後と感じながら歩きだす、
とマウントビュー千石という4階建ての施設があった。
この屋上が展望台のようになって折、
北アルプスの連山が澄み切った快晴の中で観られた・・。
               

槍ヶ岳(3180m)が遠方に聳(そび)え、
3000m前後の連山が厳冬の雪を擁(いだ)き、厳粛さを感じる。
そして前方には西穂高岳(2909m)が圧倒的な威力のように聳(そび)え立っている・・。
               
この後、私たち三人はコーヒータイムとした後、家内たちは下界の熊牧場に行くので別れた。

この西穂高口の周辺は、千石園地となり、
この時節には雪の回廊が係員のお手数で作られている。
                     
暖冬のせいか、積雪は1m前後で20分程度の雪道であるが、
数多くの針葉樹が雪を枝葉に湛(たた)えて、
少女的な視線からすれば、クリスマス・ツリーのように観えたりするので、
齢ばかり重ねた私でも、童心のようにこうした景観に、心の中で歓声を上げて、
雪の回廊を歩き廻ったりしながら、デジカメで盛んに撮ったりした。
                        
                        

このような光景に私はデジカメで10数枚撮り、記憶の片隅としたりした。
この後、私は第2ロープウェイの『しらかば平駅(1308m)』で下車した後、周辺を散策した。
                   
そして陽だまりのベンチに座り、先ほどの西穂高口駅(2156m)の付近の情景は、
天上の神々が創られた地であった、と思いを新たにした。

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冬のボーナス、お歳暮、私が現役のサラリーマン時代だった時を思い馳せれば・・。

2012-12-14 14:35:56 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であり、
先ほど、ぼんやりとテラスに下り立ち、
庭の落葉樹の数多くの葉が地表を黄色、朱紅色に彩っている眺めたりしながら、
昨今は曜日の感覚も定まらいが、確か14日の金曜日だったと思ったりした。

そして毎年10日には官公庁の冬季のボーナス支給日だった、と思い浮かべたりした・・。
過日のニュースで、《国家公務員の冬のボーナス(期末・勤勉手当)が10日支給され、
管理職を除く一般行政職で平均56万5300円(平均年齢36.2歳)で、昨年に比べて8.4%減だった。
今年4月から2年間、国家公務員の給与を年収ベースで7.8%減らす特例法によるもの。
総務省によると、冬のボーナスとしては、1988年以来の低い水準。
年間合計額(107万8300円)では、過去最高だった1998(平成10)年度から3割減った。》
と学んだりした。

ここ10数年は政治は混迷、経済は低迷、そして社会も劣化となっている中、
たまたま音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤めた私は、
CDを中核とした業界の売上のピークは、1998(平成10)年だったし、
何かしらデパート業界も、1998(平成10)年が売上のピークだった、と思いを重ねたりした。

昨今は一流企業でもここ10数年に幾たびかリストラ烈風となり、
国家公務員、そして地方公務員でも安住な職場でもなくなってきている。
こうしたニュースを知るたびに、私たちが勤めてきた時代も、
過酷な障害レースで奮戦する中、ゆるやかに収入の向上となり、確かな明日に希望がもてる時代でもあった。

現役のサラリーマン諸兄諸姉は、益々短期に成果を要求される時代、
踏みとどまって高収入を得て、過酷な業務も大変、まして退社して再就職も熾烈、と憂いたりしている。


ここ10日ぐらい新聞の折込みチラシなどで、お歳暮の商品、クリスマスの贈り物、御節料理など、
掲載されているので、早くも歳末に向っていると教示されたりしている。

この時節、現役の諸兄諸姉たちの多くは、冬季のボーナスの頂いたり、
そして忘年会、お歳暮の挨拶など、その上、何かと業務も年度末を迎えているので、
何かとお忙しく、心身お疲れとなりながらも、奮闘されていると私は思ったりしてきた。


私は民間の中小業ある音楽業界のあるレコード会社に
35年近く勤めて2004〈平成16〉年の秋に定年退職した身であるが、
現役時代は数多くのサラリーマンの人たちと同様に、
特にこの時節は、睡眠時間を削り、奮闘していたひとりである。

そして、ボーナスが支給された週末の休日には、
お歳暮の挨拶廻り、母の住んでる処に寄ったりしていたので、
この師走のなかば頃の思いも重ねながら、ぼんやりと思い馳せたりした・・。

私の現役時代は、お歳暮などの社交辞令は何かと苦手であったので、なるべく避けていたが、
不得意な私でも、人生の岐路にたたされた時、或いは救いの手を差しのべて下さった方には感謝して、
もとより年賀状は送信し、お中元、お歳暮の時は、ご自宅に訪問させて頂いた。

私の就職、結婚の時は、特にご尽力を頂いて、感謝している方である。

私が大学を中退し、映画・文学青年の真似事をして、やがて敗退し、
やむなくサラリーマンに転身する為にコンピュータの専門学校で一年修身した。
そして私が25歳の1970〈昭和45〉年の春、
この当時は大手の音響・映像メーカーのある会社に中途入社できたことは、
この会社の首脳陣のひとりに、ご尽力して頂だいたことも要因のひとつである。

そして私たち夫婦が結婚する時にも、何かとお世話になり、
ご自宅に訪問した折、温かなまなざしで私に応対してくれた。
そして奥様もさりげなく優しく言葉、しぐさなど包みこんで下さり、
私たち夫婦は、このご夫婦から高潔さを教示された。

このような形を25年過ぎれば、私も齢を重ねたが、
このご夫妻からは、素養が格段違う、と私たち達夫婦は共は実感させられたりした。

私の定年退職をした直後、私たち夫婦の生活では、とても口に出来ない高価な美酒を頂戴したり、
その後に一年を過ぎた頃に、ご高齢であったご主人は亡くなわれた。

そして告別式に私たち夫婦は参列させて頂き、改めて高潔なお人であった、
と思い馳(はせた)りした。


ボーナスに関しては20代の独身時代の頃は、
スーツ、ワイシャツ、ネクタイ、通勤靴、通勤バックなどを買い改めたり、
母に幾ばくかを手渡し、そして呑み屋さんに通っても、程々の貯金が出来た。

30代の初め、結婚し、賃貸マンションに入居するまで、
無知な私でも結構お金を要すると解り、実家の長兄から、ある程度の額を借用したので、
ボーナスを頂くたびに返済した。
この2年間の期間は、返済していても、私たち夫婦の新婚時代は多少の貯蓄は出来た。

この後、私は実家の近くに一戸建てをするのであるが、
土地、住宅建築まで多大な経費となり、 その上に若さの勢いで家屋の中に茶室を設けたりし、
住宅金融公庫を根底とし、幾つかの金融機関からローンを設定した。

こうした関係もあり、このローンが50代の初めの頃まで、毎月一定額を返済する中で、
ボーナスを頂く度に若い時は30%前後、その後の40代は25%前後を返済していた。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったけれど、
住宅に関する購入は、普通のサラリーマンの身としては、人生で一番高い買物かしら、
と心身実感させられた苦節の時代であった。

50代の初め、ローンの一括返済をした後、
老後の人生設計の基礎となす資金の為、貯蓄を大半し、定年退職を迎えた。

このようなボーナスを頂くたびの軌跡であったが、
どなたも同じと思われるが、サラリーマンの現役時代には大波、小波に遭遇し、
家内と何とか乗り切り、今日を迎えているのである。

私は築後35年の古惚けた家に住み、狭いながらも庭の樹木を眺めながら、
あんな時代もあった、と思いを馳(は)せたりしている。
そして買物、散策の時に、ひたすら歩き廻り、季節のうつろいを享受したりしている。
                                    

この時節、ときおり辛島美登里の『サイレント・イヴ』がラジオから流れてくると、
苦く懐かしい想いでが甦(よみが)ってくる・・。

私の現役時代、あるレコード会社の20年ばかり情報管理畑に勤務していたが、
40代の後半、リストラの影響で不馴れな経理畑に人事異動させられ、
その上、レコード会社の統廃合が行われ時期であり、
私は当然ながら睡眠時間を削り、奮闘していた時代であった。

そして、統廃合で社員の交流をお互いに深め、目先の不馴れな業務に励んでいたので、
心身疲れきっていた・・。

こうした時、12月の初め、統廃合で知り合った後輩の人から、
私の机上に一枚のCDアルバムを置いていった。

『昨年に発売したのですが、よかったら聴いて下さい』
とメモが綴られていた。

『Keep Christmas With You』というアルバムのタイトルで、
CDのジャケットが洒落ていた。
初回限定 特製スノープレート付きと明示され、ジャケットを少し振ると、
森の中に拓かれ大きな樅(モミ)の樹の周辺に雪が降るのであった。

そして辛島美登里の『サイレント・イヴ』、稲垣潤一の『メリー・クリスマスが言えない』、
永井真理子の『ZUTTO~Xmaz Version~』等が収録されていた。

その後、まもなくお歳暮の挨拶を家内と廻っている時、
疲れたので駅前の喫茶店で休息をしていた時、

♪真白な粉雪 人は立ち止まり
 心が求める場所を 思い出すの
 ・・・・
【『サイレント・イヴ』 作詞・作曲 辛島美登里、編曲・若草 恵、唄・辛島美登里】

店内から流れてきた。

私は、もう少ししたらクリスマスかょ、と心の中で呟(つぶや)いて、
歳末の仕事納めの日まで、数多くの業務を思案したりすると、
尚更ぐったりと心身の疲れが増してきた・・。

私にとっては、今でもこの曲を聴くたびに、現役時代で一番労苦の多い時だった、と想いだしたりしている。

このように私はぼんやりとこの時節の思いでを綴ってきたが、
現役の諸兄諸姉は、何かと短期に成果を問われる大変な時代と思ったりしている。
せめて業務に精勤する余りお身体だけは、程々に大切にして欲しい、と感じている。

こうした中で、休日のひとときは、愛する人と過ごしたり、
或いはご家族のある方は、最愛の連れ合い、そしてお子様と安らぎの時を過ごして下さい、
と無力な私であるが、何よりも念願したりしている。

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生まれて初めて『期日前投票』、齢を重ねた私でも、身も心も清めて一票・・。

2012-12-13 16:00:02 | 時事【政治・経済】等
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であり、
今朝、平素からすれば異例ながら朝風呂に入り、頭の毛も洗い、髭も剃ったりした。
そして新しい下着を身に着け、10時過ぎに家を出た。

私たち夫婦の共通の趣味は、国内旅行であり、たまたま12月16日過ぎに3泊4日で、
雪が舞い降り情景を観る小旅行を予約していたが、
その後に東京都の都知事選、そして衆議院選も急遽12月16日に選挙日として公示され、
やむなく生まれて初めて『期日前投票』で対処しょう、と期日前投票所に私は向ったのである。

私は二十歳以来から、有権者の身でありながら投票されない人は、
日常生活で不満があっても発言権がない、と固く信じているひとりである。

日本の国に於いて、政治・外交・軍事・経済など国際社会の主要国の協調の基で、
平和と繁栄を享受してきたが、ここ10数年は政治は混迷、経済は低迷、そして社会も劣化となっている・・。

今回の衆院選の結果、少なからず有権者の選択した立候補、そして選択した党に、
今後の日本の行方に重要な要となるので、軽視はできない。

前提条件として、もとより日本は民主主義の国であるから、
多少の不満があっても党の選択、そして立候補された中で選択をせざるを得ない。

しかし有権者の判断の結果、今後の日本のゆくえに影響が多大なので、有権者の責任も重いが、
何より有権者から託(たく)された議員一人ひとりの言動は重責である。

このような思いの私は有権者の責務のひとりとして、
小選挙区は信愛できそうな立候補者、そして比例代表も信愛に近い党を記入する為、
私は投票所に向った。

このように齢ばかり重ね、政治にも疎(うと)い私があえて綴ったのは、
ひとえに有権者の方に、出来るだけ多くの方に投票して頂きたい思いからである。


都知事選に関しては、私は東京都の都民のひとりであり、
恥ずかしながら東京都の行政も無知に近いひとりなので、
立候補者の公約などを深く精読し、この人だったならば、
今後の東京都の4年間の行政の首長として、託(たく)すことができるかしら、
と思いながら立候補者の氏名を記載した。

しかし有権者の判断の結果、今後の都政、そして日本の国政にも首都・東京は影響が多大なので、
有権者の責任も重いが、
何より有権者から託(たく)された都知事となる方の言動は重責である。


このような思いで投票所を終えて、帰路は小公園に歩きながら景観は良いが、
私の心は憂(うれ)いがあった・・。
               
もとより昨今は国政が不安定となり、悪化すれば更に日本の混迷期となるので、
無力な私でも憂(うれ)いている・・。

こうした時、幾たびか私の書棚から一冊の本を取り出して、開いたりしてきた。

水木 楊(みずき・よう)・著の『2025年 日本の死』(文藝春秋)であり、
1994(平成6)年2月に発刊された単行本である。

この本の帯には、
《 あと30年で日本という国家は消滅する 迫真の近未来シミュレーション 》
と大きく掲げられている。

著作者の水木 楊(みずき・よう)氏は、1937年(昭和2年)生まれで、
日本経済新聞社で各部署を歴任し、この本を発表された当時は、取締役・論説主幹である。

私は氏の著作の本は、1990(平成2)年頃から3冊ぐらい愛読していた身なので、
この本も発売日に購入し、精読したひとりである。


『2025年 日本の死』の概要は、1995(平成7)年頃からの日本の状況を予測し、
社会動向を織り交(ま)ぜて政治の基軸がないまま、
党利党略ばかり不安定期な時期となり、長い混迷期となった後、
やがて国際社会からも取り残され、悲惨な衰退となる、30年間を明示している。

私は今回のような政局の昏迷を深めた時、ときおり私が開き、幾度も読んできた一冊の本であり、
著作者が少なくとも1994(平成6)年以前に予測されて綴られているが、
昨今の状況でも決して色あせず、数多くのことが近似しているので、
何かと私は教示を受けている。

国政を司(つかさど)る国家議員の諸兄諸姉はもとより、国民の多くが読んで頂きたい、と思っている。

何よりも国政の不安定の末、混迷を深めて、日本が衰退するのは、
一番困り果てるのは、国民ひとりひとりであることは、いうまでもないことである。

このようなことを思い重ねながら、溜息を重ねたりし、
東京郊外の初冬の情景の中を歩き、帰宅に向ったりである。
              

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秀麗な冬の富士山、旅先で偶然にめぐり逢えた美景を思い馳せて・・。

2012-12-12 17:38:46 | 旅のあれこれ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
朝の9時過ぎから、風もない冬晴れの中、庭の手入れをした。
樹木の剪定をしたり、切り落とした枝葉を整理したり、たわわな落ち葉を掃き清めたりした。
こうした間、私は玄関の前の石畳に簡易椅子を持ちこんで、
ほぼ30分ごとに5分休憩し、煎茶を飲みながら、煙草を喫ったりしていた。

家内は年末に向けて台所の整理を徹底的にしたりして忙しいが、
ときおり私の状況を見たりして、私に温かい煎茶を淹れたりし、
私は8度前後の穏やかな陽射しを受けたりした。

こうした時、私は昨夜、本で冬季の富士山の美景を見たりした為か、
秀麗な冬の富士山を旅先で偶然に観た情景を思い馳せたりした・・。

誰しも旅先で偶然に富士山を見たりすると、富士山だわ、と心ときめいたりされる、と思われる。
そして特に冬季の富士山は、多くの方に圧倒的に魅了される、と私は思ったりしている。


私も数は少ないが、旅先で偶然にめぐり逢えた美景を秘めている。
40年近く前、私はサラリーマンであり、たまたま会社の部単位の社員旅行で、
2月の中旬に伊豆地方を訪れた。
マイクロバスを少し豪華にした応接セットのソファー、椅子などが配置されているミニバスで、
観光地を周遊し、大仁にある観光ホテルに宿泊した翌朝、
北上し沼津をめざしていた時、前方に大きく冬富士が観えた時、お互いに歓声を上げたりした。

定年後も私たち夫婦は、独り住まいの家内の母の要望で、三人で長崎の街を訪れる旅の始め、
羽田空港から飛び立った航空機が、まもなくして富士山を眼下に観え、
初めて観る冬の富士山・・綺麗だわねぇ、と家内の母がためいきを重ねて言ったりし、
私たち夫婦も大いに同意して、冬富士を褒め合ったりした。

そして過ぎし2008(平成20)年2月中旬に於いて、
やはり家内の母を誘い、私たち夫婦は箱根の姥子温泉の観光ホテルに7泊8日で滞在し、
周辺を遊覧したことであった。

家内たちの行楽地めぐりと齢を重ねても日本男児のひとりの私は思案は違うので、
私は勝手に周遊した。

この中のひとつに作家・夏目漱石が湯治したと知られ、
現在は日帰りの施設として名高い『秀明館』に立ち寄り湯を訪れようとした。

私は独りでゆっくりと『秀明館』で個室休憩しながら、湯に数回は入った後、
姥子から湖尻園地までの遊歩道を下る予定でホテルを出た。

桃源台まで歩いた後、ロープウェイで姥子駅に向かって乗車したが、
下方の周辺は雪が残っている。

姥子駅で下車後、駅員さんに『秀明館』の場所を尋ねたところ、
冬季は休館、と知り、やむえず大涌谷駅まで行き、
大涌谷から姥子を通り、そして湖尻園地までの遊歩道に変更した。

大涌谷駅は観光客で賑わっていた・・。
この周囲からは冬富士が一望できるので、数多くの方達が記念撮影をしていた。
          
私は駐車場を除雪されている50代の男性に、姥子までの自然歩道の入り口を訊ねた。

『旦那・・雪・・結構・・残っているよ・・
まっすぐに下りれば・・姥子に着くけれど・・だけど・・あんた・・もの好きだねぇ・・』
と私に言った。

私は冬季の防寒フィールド・ジャケット、ゴアテックス入りの堅牢なウォーキング・シューズの容姿を眺めた後、
『気を付けて・・下れば・・』
と言った。

歩き始めると、確かに雪は30センチ前後あり、
歩道の中央には登山靴か冬季専用の長靴の跡がわずかに残っている。
          
ブナやミズナラの冬木立の樹木林の中を下ったが、
積雪で狭められた歩道は冬の登山路のようである。

私は所々で立ち止まり、首からぶら下げたデジカメで、冬富士の光景を10数枚撮ったりした。
             
誰もいない路を下った・・。
          
                     
              
30数分下った後、突然に一般自動車道に出た。
自動車道と下方の湖尻園地までの遊歩道は、わずか50m前後平行するのであるが、
自動車道の除雪で遊歩道が埋もれていた。

やむえず私は、一般道を下りはじめた時、左側に突然に『秀明館』が観えた。
              

門から玄関庭の途中にロープで路は遮られ、
中央に冬季の2月まで休業とさせて頂きます、と明示していた。

この後は私は、一般道を少し下った後はペンション、会社の保養施設が多い小道を下り、
芦ノ湖を遠方に見下ろしながら、ゆっくりと下った。

湖尻の食事処で昼食用として、山芋蕎麦を頂きながら、
まぼろしの『秀明館』か、と少しため息をついたりした。


後日、私は独りで湖尻から元箱根まで遊覧船で往復と、元箱根の周辺を散策しょうと出かけた。
遊覧船の座席から快晴で雲ひとつなく冬富士も明確に観られ、
大阪から来られたご婦人のグループが携帯電話で盛んに撮影されていた。

元箱根の『成川美術館』からの冬富士の景観は一絵のようである。
                     
そして『成川美術館』を辞した後、恩賜公園に向って歩いた。
             
                            、

この後、恩賜公園の高台にある記念館で、抹茶を頂きながら、冬富士を眺めたりした。
                        
    冬富士を 眺め愛(め)でれば 静謐(せいひつ)に
このような俳句にも素養がない私でも、駄作を詠んだりしてしまった。

こうしたささやかな冬富士を私の心の片隅に、今でも秘めている。

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ときには無学な私でも、夢幻のような歴然とした『白雲洞』の美の前には・・。

2012-12-11 15:58:55 | 旅のあれこれ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活68歳の身であるが、
今朝、家内と朝食を頂いている時に、冬の旅行の思いで話をしたりした。
私たち夫婦は、共通趣味のひとつは国内旅行なので、何かと旅先のこぼれ話、
これから訪ねてみたい地域のことなどが、話題になることが多い。

今朝は過ぎし2008(平成20)年2月中旬に於いて、
独り住まいの家内の母を誘い、箱根の姥子温泉の観光ホテルに7泊8日で滞在し、周辺を遊覧したことであった。

旅先の魅力の中で、予測もつかない不意な出来事があったり、
思いがけない情景や光景に観られたりする。
或いは地元の方と立ち話をしたり、私と同じような観光客の人たちと話し合ったりすることである。

そしてほんのささやかなことであっても、のちの想い、となり心の片隅に残っている。

こうした箱根の姥子温泉滞在のこぼれ話を家内と話したりした後、
ぼんやりと私は、独りで強羅公園の中にある『白雲洞茶苑』を訪ねたことが想いだされた・・。


家内たちは芦ノ湖の遊覧船に乗った後、行楽地を行く予定であったので、
私は確か20年ぶりぐらいであったと思われる『白雲洞茶苑』を訪れよう、
とホテルを独りで9時半過ぎに出た。

快晴の中、桃源台からロープウェイで大涌谷、早雲山で乗り継いで、
この後は鉄道ケーブルで強羅公園下駅で下車した。

久しぶりに訪ねたので、公園の正門入り口に戸惑い、苦笑したりした。

この時節、観光客も少なく、高台にある喫茶店『Cafe Pic』で、
コーヒーを飲みながら、遠望にある大文字焼で知られる頂上に近い『大』の縁取りを眺めたりしていた。

この喫茶店も客は私独りで、暖かな陽射しの射しこむ中、
モーツァルトの名曲が店内から聴こえ、贅沢なひとときを過ごした。

この後、『白雲洞茶苑』に向かったのであるが、
20年前頃、家内と共に訪れて感銘した茶室であったので、私の心は緊張していた・・。

http://www.hakone-tozan.co.jp/gorapark/tea/index.html
☆ 白雲洞茶苑 ☆

公園の外れにある少し切り立った場所に巨石、樹木で茶庭とし、
そして形式美にとらわれない茶室などがある。
私は30分ぐらい茶室の庭を廻りめぐり、茶室を眺めたりした・・。
                 
           

私は1964〈昭和39〉年の秋に東京オリンピックが開催された頃、大学を中退し、
映画、文学青年の真似事をしたので和事に関心を持ちはじめた・・。

家内と結婚した当初、家内は中学生から茶事に関して学んでいたので、
私は何らかの影響を受けていた。

結婚して3年の初め、実家の付近に一戸建てを建てる際、
家屋の中に茶室を設けたが、もとより家内の嗜(たしな)み室であり、私には本格的な茶事は無知である。

ただ掛軸、花入、そして茶道具などの形式美があるすぎるので、
花は野にあるように、と明言された利休の精神は・・と私なりに思いを重ねた。

私は数多いサラリーマンの身であったが、このような心を抱いていた時に、
20年前頃に、偶然に『白雲洞』を家内と観て、感銘をしたのであった。


私が最も関心があるのは、どのような経過で、
明治時代の三井財閥の総督のような益田 孝が造営されたかであった。

明治39年に小田原市の板橋で、茶人と深められた別名・鈍爺が『白雲洞』、『不染庵』、『対字庵』を造られ、
総称として『掃雲台』として造営された。

その後、箱根登山鉄道に寄る強羅地区の開発に伴い、
多大な援助をしたので、この箱根登山鉄道の社長より、強羅公園の一角を贈呈された。

そして切り立った地に大胆な茶庭を造営した後、
『掃雲台』の茶室などを移築し、今日の基盤である『白雲洞茶苑』となった、
と私なりに思ったしたのである。

このような思いを新たにし、
抹茶を500円で頂けるので、小鐘が置いてあったので、小さく鳴らす前に、
無断であったが2葉を撮ったりした・・。
                         

30代前半と感じられる女性が現れ、
『抹茶を頂くのは・・作法に無知ですが・・』
と私は言いながら、茶席に座った。

そしてこの女性がお点前と館内の案内も兼ねていると判り、
私の前に抹茶と和菓子を置かれた。

『床柱は・・千年前の奈良にあった・・』
とこの女性は言った。

『床柱、掛軸、花入・・などの説明は結構です・・確固たる美のお判りになった
三大(鈍翁・益田孝、三渓・原富太郎、耳庵松永安左衛門の3氏)のお方が伝承され・・
お陰さまでこうして・・
まぎれない美を見せて頂くだけで・・充分です・・』
と私は緊張した表情で言った。

この後、私は素朴な茶室に関して、丁重に感じたことを述べたり、
この三大の伝承した人の美を残された功績をたたえた・・。

そして、こうした美の結晶である茶室を造営するには、
財力は当然とした上、茶の深い思い、何より縁(えにし)を含めた実行力のあるお方のみが、最低限必要である、
と私は言ったりした。

私は背後から客人の気配を感じ、席を辞する旨を伝えた。

私は和菓子を頂かなかったので、
このお方は和紙に包み、
『貴方様のように・・繊細に美を語(かた)ることの出来る人に・・お逢いできまして・・』
とこのお方は言った。

私は照れながら、
『私は一介のサラリーマンを定年退職し、茶事に関しても無学な者で・・お恥ずかしい限りです・・』
と私は和菓子を受け取りながら言った。

私は偶然に若い女性と茶事の美について語り合えたので、
心は充たされ、一期一会、という言葉が実感できた・・。

                  
そして強羅駅に向かいながら、
あの人、綺麗な顔立ちで、しぐさも素敵だった、と余計なことを思ったりした。


このような事を思いだし、もとより私は茶事も建築、そして作庭にも無学であるが、
あのように瞬時に圧倒的な美を感じると、心が高揚してしまい、
恥ずかしくもあのようなことを言えた、と自身の悪い癖が出た、と無力な私は微苦笑したりした。

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今年も残すところ20日ばかりとなり、過ぎ去り日々が余りにも早い、と思いながら・・。

2012-12-10 14:42:02 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
今朝ぼんやりとカレンダーを見たりすると『10日』と解り、
今年も残すところ20日ばかりとなり、齢を重ねるたびに過ぎ去り日々が余りにも早いと感じたりした・・。

そして陽射しの受けた庭の落葉樹は、晩秋の暖かさが平年よりも続いたので、
モミジなどの朱紅色、白梅〈ハクバイ〉、花梨〈カリン〉、
そして名も知らない私の定年退職の記念樹などが朱紅色、黄色に染められた錦繍(きんしゅう)の情景が、
名残りのように半分ぐらい枝に残っている。

                
               一週間前のどんよりとして曇り空の中、撮った2葉である

このモミジと私の定年退職の記念樹を朝食後にながめていたら、
音なく散り、周囲の地表に朱紅色、淡き黄色を彩(いろど)っている・・。

この後の10時過ぎに、私は煎茶、家内はコーヒーを飲みながら、
今年もあと20日ばかりとなったので、私たちは年末までのスケージュールを確認し合ったりした。


定年後の12月の毎年の私の習(なら)わしは、
年賀状を差し出す方の選定、文案の創作、投函することだし、
そして年末に向けて庭の手入れをした後は掃き清め、
或いは御節料理に準じたの材料を家内からの緊急要請で、私の買物に行く回数が増えるぐらいとなっている。

あとは独り住まいの家内の母に年末の28日にに来宅して頂き、
私たち夫婦と共に三人で年始の1月3日まで共に過ごすぐらいが、恒例となったりしている。

しかし、今年は16日の日曜日に、東京都の都知事選、そして衆議院選も急遽定義され、
私は有権者の責務として、清き一票を投票する。
しかしながら、私たち夫婦の共通の趣味は、国内旅行であり、特に冬の季節の旅に魅了され、
この12月16日過ぎに3泊4日で雪が舞い降り情景を観る小旅行を予約済みであったので、
やむなく生まれて初めて『期日前投票』で対処しょうと決意している。

お歳暮に関しては、私のサラリーマンの現役時代に於いて、
何かとお世話になった方に長年、定例のように訪問したりしてきたが、
既に私が退職後まもなくして死去されたので、我が家は私の実家に挨拶に訪れるだけとなっている。

その上、私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、たったふたりだけの家庭となり、
今や年金生活なので、私は安楽に過ごせている。


昼前に、年賀状のことを少し考えたりした。

私は齢を重ねるたびに、年賀状を頂くのも、ひとつの楽しみとしている。

元旦の朝の10時頃に配達されるのが、毎年の慣(なら)わしとなっている。

そして、知人の近況などが付記されていると、
お元気でお過ごし・・と知り、安堵したりしているのである。

一番困るのは、定例型の挨拶文だけで記載されている場合である。

例えば、

 賀正
本年もよろしくお願い致します


  謹賀新年
輝かしい新年を迎えまして
皆様のご健康とご多幸を
心よりお祈り申し上げます

 
私はこうした年賀状を拝読すると、落胆したりしている。

たとえ年賀状の一通でも、少なくとも近況とか、何か創意工夫が必要である、と思ったりしているのである。

私は小学生の時、『習字』の授業は怠けていたので、今でも毛筆で達筆は遥かに遠い夢の世界であり、
『図画』の授業も不得意であったので、イラストで絵を描くのも駄目であり、
たとえば林檎(リンゴ)の描いても、リンゴ、と明記しないと、
どのように解釈されるか解らないので不安さを増すばかりなので、もとより避けている。

或いは、デジカメでその人なりの心を込めた情景で表現すれば良いかしら、
と思ったりしたが技量がなく、断念している。

やむなく私なり散文で綴り、独創性のある文体で、的確に近況の知らせを短い文章で表現しているが、
私は毎年、12月の中旬になると数日思案しているのである。

この近況の知らせを親族、親戚、知人、友人等に数種類書き分け、
現役時代の頃は、上司、同僚なども当然として加わっていたので、私なりに工夫した文面を作成している。

古人から、文は人なり、という至言があるので、
たった年賀状一枚と云えども、粗末にできない習性となっている。


先ほど、年賀状の一覧表を改めてチェックしたり、
喪中の挨拶を頂いた方にこれまでの交遊を思い浮かべたりした後、
初めて年賀状の発信枚数が決まったりした。

余談であるが、年賀状の葉書は、インクジェットを使用し、
平成25年は、うぐいす色と学んだりしている。
そしてご主人を亡くされたご婦人、お世話になっている女性には、温かみのある桃色の葉書を毎年投函している。

このようなことを、とりとめなく思ったりしている。

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家内に先立たれ『おひとりさま』になった時、果たして愚図(ぐず)の私は・・。

2012-12-09 15:21:04 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の高齢者4年生の身であり、
私たち夫婦は子供に恵まれずたった2人だけの家庭であるが、
家内は過ぎし12月1日より独り住まいとなっている家内の母宅に8泊9日で行っている。

私たち夫婦のお互いの両親は、無念ながら家内の母だけとなり、
家内の母は我が家から電車・バスなどを乗り継いて2時間ばかりの千葉県の八千代市で、
一戸建ての独り住まいの生活をされている。

私より14歳ばかり齢上の高齢者である家内の母は、
私が民間会社のサラリーマンの定年退職日の2004〈平成16〉年の秋の直前に主人に死去され、
独り住まいの生活をされて、早くも8年が過ぎている・・。

家内の母は友人たちのグループで、国内旅行、買い物などを楽しんで過ごしたり、
ときおり自身の故郷の新潟県の上越市(旧・高田市)に里帰りし、同期の人たちと交流を深めたりしている。
そして83歳となっている今としては、
身体は衰えても心は溌剌として元気である、と私は感じたりしている。

このような中で、日常生活の身の廻りはある程度は出来ているが、
庭掃除、季節に応じたのカーテン、布団、衣服、暖冷房器具などの出し入れがままならす、
家内が大掃除を兼ねて、年に6泊7日前後で5回ぐらい母宅に泊りがけで行っている。

家内の母は昨年の12月から足腰が衰え、病院の指導で杖(つえ)を使い歩いたりしてきた。
そして介護保険の行政サービスのアドバイスで、
家の中でベット、お風呂場、トイレ、小庭の出入り口などに、手摺(す)りを設置したり、
これから不要と思われる日常の備品、洋服など大幅に処分したりしてきた。

今回も年末年始に備えて、家内は家内の母の宅で孤軍奮闘しているが、
この間は私は『おひとりさま』の生活となり、のんびりと気ままな独り住まいをしている。


平素の私たち夫婦の年金生活は、ご近所の方の奥様たちから、仲良しねぇ、と好評を頂いている私たちでも、
いずれは片割れとなり『おひとりさま』となるので、
今回たまたま『おひとりさま』の生活となった私は、特別演習かしら、と思ったりしている。

平素の私は、煙草を喫う愛煙者のひとりで、スポーツは無縁で、
根がケチな性格なのか、駅前までの路線バスなどは乗らず、ひたすら歩き廻ったり、
遊歩道、公園などを散策するぐらいである。、

そして、お酒大好きだった呑兵衛の私は、一昨年の晩秋に何とか卒業して、
冠婚葬祭、国内旅行以外は週に一度ぐらいは自宅で呑むぐらいとなっているが、
このような齢ばかり重ねぐうだらな生活をしている私は、
私としては家内より早くあの世に行く、と私は50代の初めの頃から確信を深めてきた。

しかしながら、こればかりは天上の神々の采配にゆだねられているし、
まして、この世の中は、先のことは何が起きるか解からないので、
一年に何回かは、家内に先立だれた場合のことを考えたりしている。

私は家内と日頃から、葬儀、お墓のことも何度も話し合ったりしている。
葬儀は親族関係だけの家族葬とした後、お墓は樹木園に埋葬し、
それぞれ好きな落葉樹の下で土に還る、
そして四十九日が過ぎたら、その時の心情でお墓参りをすればよい、
とお互いに確認し合っている。

私は家内が亡くなった時は、世の中はこのようなこともあるの、
と茫然(ぼうぜん)としながら四十九日を終えて、樹木園に行き、埋葬をすると思われる。

そして私は、家事の全般の料理、掃除、洗濯などは、家内にお願いしていたので、
恥ずかしながら初心者の若葉マークのような身であり、戸惑いながら行うが、
何より長年寝食を共にし、人生の大半の苦楽を分かち合い、
気楽に安心して話す相手がいなくなったことが、何よりも困ると思ったりしている。


今回、たまたま『おひとりさま』となっているが、
朝一番に行うことは、台所にある市から配布されたカレンダーを見て、
『燃えるゴミ』、『燃やせないゴミ』、『ペットボトル』、『古紙』、『ビン』の日を確認して、
これに対応して、指定された道路に面した門扉に置いたりした。

そして、最優先として一合ばかりのお米を洗い電気炊飯器に5分後にセットした。
この後は読売新聞の朝刊を読みながら、煎茶を飲んだりした。
朝食は幼年期に農家の児として育ったので、齢はかり重ねた今でも、
ご飯と汁、おかずと香の物で成り立っていた庶民の『一汁三菜』としている。

私は単細胞のひとりなので、白米のご飯、インスタントのワカメの味噌汁、
そしてコブの佃煮、ラッキョ、福神漬け、シャケの瓶づめ、或いは鯖(サバ)の味噌煮の缶詰が、
不変のように食べたりしてきた。

昼食は煎茶、インスタント・コーヒーを飲みながら、レーズンロールのパンを3つばかり食べたり、
或いは菓子パンを食べたりしてきた。

夕食はスーパーで買い物をし、野菜コーナー、お惣菜コーナーの売り場で、適度に選定し、
煎茶を飲みながら食べたりしてきたが、
なぜかしら独りだと寂しいので、缶ビール500mlを2本だけ呑んだり、
ウィスキーのオンザロックを呑んだり、テレビのニュースを視聴したりした。
そして二晩だけ、音楽を聴きながらワインを呑んだりした。

洗濯に関しては、乾燥の機能がある洗濯機をオール自動セットに頼り、
日中のひととき、きまぐれに手抜きの部屋の掃除をしたり、台所で皿洗いをしたり、
夜の入浴の時間も、8時過ぎが多かった。

このような生活を過ごしてきたが、料理に関しては素材から焼いたり、煮たりすることは無く、
掃除も簡略に済ませてしまうので、家内のいる平素日常生活から落第生となっている。

そして作家の曽野綾子さんの『夫族の中で、生活者として無能な人・・』と銘言に、
私は叱咤激励されながら、小・中学生の時は劣等生であった私は、
やはり年金生活の劣等生かしら、と苦笑を重ねてきた。


現在の古ぼけた一軒家の生活は、あと10年ぐらい私たちは五体満足で生かしてもらいたい、と思ったりした。
この時は私は78歳となり、家内は72歳となる。
或いは果たしていつの日か解らないが、私は痴呆症などあわず、心が明確な時にポックリと死去できれば良い、
と秘かに念願しているが、こればかりは天上の神々の采配に寄るものである。

そして家内に先立たれた時、こうした古ぼけた家でも小庭の手入れも含めて維持管理するのは、
苦楽が伴なうので住めないだろう、と私は改めて感じたりした。
やむなく小庭のある古惚けた一軒屋を処分し、
都立の大きな公園が隣接した場所で、小さな2DKのマンションに転居すると思われる。
そしてスーパーと本屋に徒歩10分前後で行けた上で、
大学総合病院に公共の交通機関の利便性のある場所を選定するだろう。

この前提として、もとより住まいが狭くなるので、
やむなく本の大半は処分し、1000冊前後に厳選した上、
映画作品のビデオテープ、DVD、そして音楽のCD、DVDは程々に多いがすべて移動する。

こうした独り身の『おひとりさま』になった時の私の日常生活は、
付近の公園で四季折々の情景を眺めながら散策したり、
スーパーでお惣菜コーナーの売り場で買い求めたり、本屋に寄ったりして、数冊を購入する。

昨今、新聞の折り込み広告で、マンションの売却のひとつに、
私がこよなく散策している公園、遊歩道に隣接地帯のマンションのひとつが掲載されていた。
広い敷地の中で、数多く樹木もあり、広場もゆったりとして10数棟が8年前頃に建てられた。
この中は殆ど広い3LDが多い中、小さい中古分譲があった。
                 

一階の15畳と8畳の二部屋に、テラスと小庭6畳ぐらい有り、もとより台所、バス、トイレ付であった。
私は『おひとりさま』になった時は、こうしたスペースが最適かしら、と思案させられたりした・・。

15畳は居間として、少し大きめのテープルを置き、壁一面に本と映画・音楽の棚で、
テープルにはバソコンを置き、窓辺のテラス前に小庭には、今の小庭にある定年退職した時の記念樹をたった一本だけ移植し、
                      
そしてテラス越にマンション敷地内の大きな樹木が観える・・。
                          
そして食事もこのテーブルを使い、四季折々の落葉樹の情景を眺める。

8畳はベットの下には収納棚に下着と靴下、壁側は衣服棚・・
このように思い馳せたりした。

そして付近の区立の小公園を散策代わりに、毎日のように歩く。
             
                                                
こうした中で、週たった一度だけ定期便のような居酒屋に行き、
中年の仲居さんと談笑し、からかわれながら、純米酒を二合ばかり呑むだろう。
こうした中でも、私は家内の位牌の代わりに、
定期入れに愛用した革のケースに、家内のスナップを入れて、いつも持ち歩くと思われる。

こうした日常生活を過ごすと思われるが、
私は国内旅行も好きなので、月に3泊4日前後で、各地を訪れるだろう。

劇作家のチェーホフの遺(のこ)された、
《・・男と交際しない女は次第に色褪せる、女と交際しない男は阿呆になる・・》
と人生の哲学のような名言は、
どうしたらよいの、と私は考えたりするだろう。

やむなく、私は宿泊先の仲居さんで、お酌をして下さる方たちと、
やさしくふるまいながら語りあうと想像される・・。

そして、その夜は枕元に革ケースを置いて、
人生はいつまで続くの・・、と天上の人となった家内に呟(つぶや)きながら、眠るだろう。

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年金生活の私、独り遊びのひとつ『デジカメの写真整理』が増え、微苦笑して・・。

2012-12-08 18:38:36 | 定年後の思い
私は東京の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
中小業の民間会社に35年近く勤めて、2004〈平成16〉年の秋に定年退職した。
そして 私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしている・・。

サラリーマンの現役時代の私は、もとより我が家の収入の責務があるので私なりに奮闘し、
家内は結婚して3年を除き、専業主婦の身で、洗濯、掃除、料理、買い物などしたり、
親族の交際も含めて、我が家の専守防衛長官の責任を果たしてきた。

定年後の私は、年金生活を始め、家内の日常のペースを出来る限り、
乱したくないので、決意して実行してきた。

具体的には、家内は殆ど従来通りしてもらい、その間のささやかな息抜き・・趣味ごと、
これを邪魔にするのは、まぎれなく天敵と私は確信を深めていた。

そして一日、少なくとも一回は外出し、家内の自由な時間を作ることと思い、
せめて日常の買物ぐらいはと思い、買い物の担当を引き受け、独りで買物をしたりし、
その前後、独りで散策などをしている。

或いは茶坊主に徹し、殆ど朝は家内より早めに起き出して、
家内用のコーヒーを指定されたマグカップに淹れて、家内の枕元に置いたりしている。
そして日中のひととき、家内がコーヒーか煎茶を飲みたいようなことを素早く察して
さりげなく淹れている。

このように家事に関しては、恥ずかしながら殆どしてこなく、
ときおり庭の手入れは、現役時代から私の専任者となっているぐらいである。


私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

日常は私は、毎日のように独りで最寄のスーパーに買物に行ったり、
或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパーに行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
何かしら私は根がケチなせいか、路線バスに乗るのことなく、ひたすら歩いたりしている。
その後、自宅から数キロ以内の遊歩道、小公園などを歩き廻ったりし、季節のうつろいを享受している。

そして時折、小庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、近代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。

こうした中で、ここ11月初旬より、私の独り遊びのひとつの『デジカメの写真整理』を始めた・・。

私はブログの世界を定年後のまもない時に知り、パソコンの故障、国内旅行で出かけた以外は、
自宅から日々投稿文を重ねて、丸8年が過ぎている。

こうして中で、諸兄諸姉の皆様の多くの投稿文を読ませて頂くと、
ここ5年ぐらい殆どの方が心ある写真を添付し、
いつまでも文章だけでは時流に残されてしまう私なりに憂慮してきた。
特に旅行関係の投稿文に関しては、散文を綴りながら危惧してきたのが本音でもある。

こうした思いの中、過ぎし『文化の日』の翌日の4日に於いて、
私は遅ればせながら写真添付に挑戦し、これ以降のブログの投稿文に殆ど写真を添付してきた。

これまでの私のデジカメで撮ってきた写真は、パソコンのハードディスクに収納し、
例えば、《十勝・糠平 2012.12.20.~》とファイル名を付けて保管し、
印刷したのはたった1枚であり、ときおりパソコンを開き、これらの写真を見る程度であった。

しかしながらブログの投稿文に写真を添付することになり、
これまでの定年後のデジカメの写真を整理するのに、パソコンに添付されていた写真ソフトを使い、
撮影年月日の順序に並べたりしたりした。
               
     この写真は、2004年の秋に定年退職を迎え、デジカメを記念品として夏に買い求め、
     初めて撮った写真の一葉で、猿滑り(サルスベリ)として慕(した)われている百日紅(ヒャクジッコウ)の樹木を撮ったりした。

そして昨日は、たまたま神代植物園に行ったりして、
             
このような写真を撮ったりした。

こうした丸8年を過ぎたデジカメの写真の数々を整理しているが、旅先の風景を懐かしく見たり、
或いは駱駝(ラクダ)に乗っている家内を撮った写真を見ながら、
あの旅先では、と思い馳せたりしていると、整理が進まず、独り微苦笑している。

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暦(こよみ)の上では『大雪(たいせつ)』の時節、東京郊外の都立『神代植物園』を訪ねれば・・。

2012-12-07 18:41:40 | 定年後の思い
私は東京の調布市に住む年金生活の高齢者4年生の68歳の身であるが、
今朝、朝の陽射しに眩(まぶ)しげに私は見つめたりした。
そして何気なしにカレンダーを見ると、『大雪(たいせつ)』と明記されているが、
もとより暦(こよみ)の上では旧暦のことであり、
昨今は、山岳ばかりでなく平野にも雪が降り積もる季節てあり、
街はクリスマスの飾りでにぎやかになる頃かしら、と私は解釈している。

この後、地元の天気情報を見たら、朝の6時過ぎは2度、昼下がりは10度前後、夜の6時は7度前後が予測され、
冬晴れの日中を迎え、この時節としては平年並みかしら、と私は感じたりした。

私は京王線の最寄駅のひとつ『つつじが丘』駅の近くに小用があったので、
昼少し前に自宅を出た。
そして小用を終えた後、駅前のバスをぼんやりと眺めていたら、
『深大寺』行きのバスが停車していたので、
深大寺に隣接した都立の『神代植物園』を訪ねてみよう、と思いたった。

私は『神代植物園』を長らく四季折々に訪ねているが、
我が家の近くに流れる野川の遊歩道を上流に向い徒歩で45分前後の道のりであり、
野川の川沿いの遊歩道を歩くのが圧倒的に多いが、
時として違ったコースを歩き、途中からパスを利用することもあった。

いずれにしても、この公園は私が通った地元の神代中学校の付近にあり、
私が中学校を卒業した1960(昭和35)年の頃に開園したが、
自転車で通学していた私は、ときおり開園前の雑木林の中を下校の時などに、
学友と自転車で走りまわったりしていた。
その後、人生の節目などを含めて、四季折々通ったりしてきた。

私が心に迷ったりした時などは樹木を眺めたり、それぞれの花に心を寄せて、
心の濾過をして浄化されたりしてきた。

私がこれまで生きてきたつたない人生には、
時として心の証(あかし)が梅(ウメ)、椿(ツバキ)、櫻(サクラ)、花水木(ハナミズキ)、
躑躅(ツツジ)、紫陽花(アジサイ)、花菖蒲(ハナショウブ)、蓮(ハス)、
木槿(ムクゲ)など、そして何よりも雑木林に心を寄せてきたので、
それぞれのコーナー園が私のひとときの迷いも知っていると思われる。
     

東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年に、
私は大学2年であったが、この公園の雑木林を歩いたりしながら、
映画・文学青年の真似事をしょう、と中退を決意したりした。

私は結婚して2年が過ぎた頃、私の生家の実家に近くに家を建てた後、
家内を家の周辺を案内したり、ときおり神代植物園にも訪れたりしていた。

そして私が40代の頃は、サラリーマンの多忙の休日の折、
四季折々に家内を誘い、私は純米酒の辛口を弐合ばかり持参して、
花咲く樹木の前で、ベンチに座りながら家内と語り合いながら、
呑んだりしたことが多かったりした。

50歳代になると私は会社の業務が益々多忙となり、
家内の方はテニスに熱中していたので、
国内旅行だけは何とか休暇のスケジュール合わせる程度となり、
私が日曜日に休めた時は、ひとりで通ったりしていた。

私は定年退職後の年金生活に於いても、独りで植物公園まで四季折々、訪ねてたりしてきた。


私はバスに乗車し、車窓から中学時代の自転車で通学した情景を思い馳せたりし、
神代植物園の正門前で下車し、入園した。

そして『つつじ園』の中を通り過ぎ、落葉樹の大半は朱紅色、紅色、黄色などの染められ、
この時節でも錦繍(きんしゅう)の光景が残っていた、と私は微笑みながら歩き、デジカメで10数枚撮ったりした。
          
                    

そして『雑木林』の中の小道を歩いたりした。
                    
               

この後、『かえで園』で長らく足を止めて、眺めたりした。
               
          
               

                          

この後、『さくら園』の冬木立の情景を褒めようと歩いたりしたが、
今年は秋に暖かった為か、染められた葉も見られ、幾たびか微笑み返しをしたりした。
                          

この後、私は深大寺に参拝し、お賽銭は恥ずかしながら百円玉ひとつ、
そして十円玉ふたつ、一円玉みっつ有ったので、そぉーと入れ、心が清らかになりますように、
と祈願した後、野川の遊歩道をトボトボと歩いて帰宅した。

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『もし過去に戻れるなら、どの頃に戻りたいですか?』と問われても、私は微苦笑し・・。

2012-12-06 17:52:20 | 定年後の思い
私は東京の調布市に住む年金生活の高齢者4年生の68歳の身であるが、
民間会社の中小業の会社に35年近く勤めて2004〈平成16〉年の秋に定年退職後、
まもなくブログの世界を知った後、パソコンの故障、国内旅行で出かけた以外は、
自宅から日々投稿文を重ねて、丸8年を迎えようとしている。

私が現在加入しているブログは【gooブログ】であり、
せっかく投稿文を綴ったりした上、まったく無視されるのは最も辛く、ひとつの対策案として、
プログランキングに加入している。

『ブログ村』のシニア日記系の60歳代、そして『人気ブログランキング』の散文に所属しているが、
過ぎし日に『人気ブログランキング』に於いて、アンケートのひとつがあった・・。
http://blog.with2.net/vote/?m=v&id=30375
☆【人気ブログランキング】<==『もし過去に戻れるなら、どの頃に戻りたいですか?』☆

《・・もしタイムマシンで過去に戻ってやり直せるとしたら、どの頃に戻りたいですか? 》
と問いに、私はこの中のひとつにクリックしたら、
《 1: 生まれたばかりの頃 1014件 (12.5%)
  2: 小学生の頃      1940件 (24.0%)
  3: 中学生の頃     1309件 (16.2%)
  4: 高校生の頃     1194件 (14.8%)
  5: 20歳の頃      1199件 (14.8%)
  6: その他        293件 (3.6%)
  7: 戻りたくない 1139件 (14.1%)  》
このような集計結果が表示されて、『人気ブログランキング』の加入者の平均年齢が全般として、
若い方が多いのかしら、と思わず微苦笑してしまった。

過ぎし日の11月30日の月末に私は高校時代の友人と吉祥寺にある居酒屋で懇親を重ねた。
この友人とは同級生で、高校3年の時は、
お互いの生家に幾たびか泊まったりした親しい間柄のひとりであった。

私が定年後は少なくとも一年に一回は、この友とふたりだけで居酒屋で酒を呑み、
適度な単品の品数ずを食べたりしながら、
4時間前後、あふれるように話題が尽きることなく談笑したりしている。
この中のひとつに、たまたま
『今まで、どの時代が楽しかった?』
と友人は私に言ったりした。
『高校時代の頃までが、同級生との間で駆け引きもなく無邪気でいたから、純粋さから一番楽しかった・・
しかし今の年金生活が何よりも楽しいょ』
と私は友に応(こた)えた。
『本当かょ!』
と友は驚いた表情を浮かべながら、私に言った。


私は東京郊外の調布市で農家の三男坊として生を受けたのは、昭和19(1944)年の秋であった。

長兄、次兄に続いて私は生まれたのであるが、
祖父、父は三番目は女の子を期待していたらしく、幼児ながら私は感じ取り、
いじけた可愛らしくない言動が多かった。

その上、兄ふたりは学校の成績も優等生で、
私は地元の小学、中学校の学業は、私だけが通信簿『3』と『2』の多い劣等生であった。
『お兄さんのふたりは・・優秀だったのに・・』
と先生から通信簿を頂くたびに、ため息まじりで私に言ったりした。

この間、父が小学校2年の時に病死され、祖父も翌年に亡くなり、
大黒柱ふたりを亡くした生家は没落し始め、その後やむなく農業をとりやめ、
やがて母はアパート経営などで生計をし、私たちは育った。

そして東京オリンピックが開催された1964〈昭和39〉年の秋の直前に、
小学4年からの映画少年の影響で、映画の脚本家になりたくて私は大学を中退し、
アルバイト、契約社員をしながら映画青年、やがて文学青年の真似事を4年ばかり過ごした。

この間、演技と演出のある養成所に学び、養成所の講師のひとりの知人の新劇のある長老から、
小説を書いた方がよいとアドバイスを頂き、
確固たる根拠もなく、独創性はあると思いながら小説の習作したりして、
純文学の新人賞に応募したが、最終候補6編の選考の直前で3回ばかり落選した。

こうした時、お彼岸の懇親の時、親戚の小父さんから、
『今は若いからよいとしても・・30過ぎから・・家族を養えるの・・』
と素朴に叱咤され、私は30歳頃に結婚をして果たして妻子を養っていける自信もなく、
あえなく敗退した身である。

この後、やむなく大手の企業に中途入社する為に、コンピュータの専門学校に一年通った後、
何とかこの当時は大手の音響・映像のメーカーに中途入社できたのは、1970〈昭和45〉年の春であった。
その後、この会社の音楽事業本部の大手レーベルが、外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこのレコード専門会社に転籍させられた。

そして、このレコード専門会社の情報畑、管理畑などを含め35年近く奮戦してきたが、
この間、音楽業界は、1998年に売上の主軸となるCDがピークとなり、
この少し前の年から各会社は総合見直しとなり、会社間の統廃合もあり、人員削減も行われはじめ、
リストラ烈風となった。
そして私の勤めた会社も同様に、早期退職優遇制度の下で、上司、同僚、後輩の一部が業界から去ったりし、
人事異動も盛んに行われたりし、 私も50代のなかば、取引先の物流会社に出向を命じられ、
この中のひとつの物流センターに勤務した。

私は本社に30年近く勤め放り出され、私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたが、
半年後から何とか馴染み、精務した。

この間、出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたり、
私が30年近く勤めてきた出向元の会社でも、リストラ烈風となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004〈平成16〉年の秋に定年退職を迎えたのである。

そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、
退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。


2004〈平成16〉年の秋に、定年退職となり、その後は年金生活を始めて、
家内の日常のペースを出来る限り、乱したくないので、決意して実行してきた。

サラリーマンの現役時代の私は、もとより我が家の収入の責務があるので私なりに奮闘し、
家内は結婚して3年を除き、専業主婦の身で、洗濯、掃除、料理、買い物などしたり、
親族の交際も含めて、我が家の専守防衛長官の責任を果たしてきた。

具体的には、年金生活でも家内は殆ど従来通りしてもらい、
その間のささやかな息抜き・・趣味ごとを邪魔にするのは、
まぎれなく天敵と私は確信を深めていた。

そして一日、少なくとも一回は外出し、家内の自由な時間を作ることと思い、
せめて日常の買物ぐらいはと思い、買い物の担当を引き受け、独りで買物をしたりし、
その前後、独りで散策などをしている。

このように家事に関しては、恥ずかしながら殆どしてこなく、
ときおり庭の手入れは、現役時代から私の専任者となっているぐらいである。


日常は私は、毎日のように独りで最寄のスーパーに買物に行ったり、
或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパーに行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
何かしら私は根がケチなせいか、路線バスに乗るのことなく、ひたすら歩いたりしている。
その後、自宅から数キロ以内の遊歩道、小公園などを歩き廻ったりし、季節のうつろいを享受している。


そして時折、小庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、近代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

もとより年金生活を過ごすと、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを心の発露の表現手段として、
このブログのサイトに綴り投稿するのが、生きがいのひとつとなっている。

我が家は年金生活なので、原則として厚生年金とわずかな企業年金の年金支給額で平素の生活を過ごし、
国内旅行、冠婚葬祭、そして耐久品などの購入は、
程ほどの貯金を取り崩して過ごしているので、ごくありふれた年金の家庭であると思ったりしている。


このような年金生活を過ごしているが、何よりも贅沢な時と感じたのは、
定年した後、年金生活を始めて、独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
このように自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの何かと多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。
                


そして自宅の小庭の雑木の四季のうつろいを眺めたりし、
朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時を過ごし、苦楽の激しかった過ぎ去った日々に愛惜を重ねながら、微苦笑したりしている。
               

或いは国内旅行を幾たびか重ねてきたが、殆ど平日の多くを利用してきたので、
働いて下さる現役の諸兄諸姉に申し訳ないと思いながら、
ゆったりと訪れた地を散策したりし、甘受したりしている。
               

このような思いで私は年金生活を享受しているので、
『もし過去に戻れるなら、どの頃に戻りたいですか?』の問いには、一秒足らずで、
《 7.戻りたくない 》箇所にクリックしたのである。

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『へそくり』、『タンス預金』などは、我家は無縁であるが、秘かにあるとすれば・・。

2012-12-05 19:08:20 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であり、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
古惚けた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

世の中の一部の方に、配偶者に内緒で預金などお金を貯める『へそくり』をしていることを知り、
どうしてなの、と私は不思議に感じたりしている。

過日、たまたま『へそくり』のことがテレビのニュースで報じられていた。

その後、私は煎茶を飲み、コーヒーを飲んでいる家内に話しかけたりした。
『XXちゃんさぁ・・テレビのニュースのひとつに・・へそくりをしている方がいて、
60歳以上の妻だと平均240万円みたい・・驚いたょ』
と私は家内に言ったりした。

『・・』
家内は少し苦笑していた。

『だけど・・どうして《へそくり》をするなんで・・夫婦なのに』
と私は家内に言ったりした。

『あらぁ・・私のお友達だって・・「自分のために」だって、へそくりしている方はいますわ』
と家内は私に言った。

『そぉ・・』
と私は家内に言ったりしたが、この地球の広い空の下で、たまたまめぐり逢い、
そして寝食を共にされる夫婦なのに、「自分のために」か、
おかしいよ、と私は心の中で呟(つぶや)いたりした・・。


私は家内と婚約した1975〈昭和50〉年12月の少し前の交際期間で、
デートとした最中に、
『お互いに・・隠しだて・・やめましょうねぇ』
と私は何かの話しの続きに言ったりした。

こうした思いがあったので、婚約する直前から、年収より少ない私の貯金の実態を話したりした。

翌年の3月に私たちは結婚して、賃貸マンションで生活を始めた・・。
私は中小業の民間会社に勤めていたサラリーマンの身であり、
家内は専業主婦となり、茶事だけ中学生以来から週1回は習っていたので継続した。

この当時は、私の給料は銀行振り込み制度であり、家内が銀行関係も管理してもらったので、
私は出勤の直前に、家内は私の財布に補充していた。

こうして2年過ぎ、私は生家の近くに一軒家を新築したが、
どうせ住宅ローンで借金するなら、この際は家屋の一部に茶室を設けよう、と変更したりした。
この私の若気の至りで、予想した以上の費用が掛かり、庭の作庭する予算も少なくなり、
結果として雑木の多い庭の樹木となったりした。

何よりも困苦したのは、住宅ローンなどを返済し始めたが、赤字続きとなり、
家内は突然に契約社員でデパートなどて3年ばかり働き、我が家の強力な援軍となったりした。

こうした時、我が家は結婚以来から家計簿を月次決算のようにしてきたので、
今月も赤字・・ボーナスで穴埋めで、何とか黒字かょ、
或いは一年通しても赤字の年もあったりしたので、私はぼやく時もあったりした。


そして赤字が2年続いた中の苦節3年後、私の年収で何とか生活ができるようになり、
家内は昭和妻と称される専業主婦に復帰した。
もとより、一家の主(あるじ)の私は収入の責務があり、
家内は後方支援の重責がこの当時の風潮でもあったので、
私は家内のことを、これ以来《専守防衛長官》、と秘かに思い続けている。

この間の私の財布は、福沢諭吉のお札が2枚であり、
何か会社の懇親会がある時は、事前に家内は増やして入れてくれた。

そして私が40代を過ぎた頃は、私の財布は福沢諭吉のお札が3枚に昇格となった上、
10万円まで下せる銀行カードも財布に入れたりした。
家内は私が外出先で緊急に必要となった場合、大の大人としてみっともないわ、
と言われて、私は所有を始めたのである。

こうした時でも、私は血気盛んな男性のひとりであったので、
今晩、会社の懇親会がある、と出勤前に家内に言い、福沢諭吉のお札が5枚になったのを確認し、
ときには二次会の代わりに、独り私はこっそりと風俗店に行ったりしたこともあった。
もとより帰宅後、私は家内には、二次会それなりに楽しかったよ、と言ったりしていた。
これだけは我が生涯、家内に隠し事をした秘密であった。

私は民間会社の中小業のある会社を35年ばかり勤め、
2004〈平成16〉年の秋に定年退職時を迎えた後、年金生活をして過ごしている。

程ほどのお金を幾つかの銀行と郵便局に分散した貯金の基で、
2ヵ月毎に厚生年金を頂き、生活費の基盤としている。
そして、私たち夫婦の共通趣味の国内旅行、或いは冠婚葬祭、そして思いがけない出費の時は、
貯金から取り崩して過ごしているのが実態である。

私は平素の買物に関しては、定年後に自主的に担当しているので、
福沢諭吉のお札が3枚、そして5千円札と千円札を幾枚か財布に入れて、
家内も福沢諭吉のお札が5枚ぐらい保有し、
現金が手薄になった時は、やむなく銀行から取り崩している。
そして我が家の緊急時の予備金として、福沢諭吉のお札を常時10枚を保有している。

こうした中で、定年直後に公正証書の作成できる処に出向き、
私より家内の方が圧倒的に長生きをする確率は高く、
残された家内の生活が困苦しないように、私の遺言書を作成したりした。

やがて家内は60歳を迎え、家内も年金を頂き、
我が家は夫婦ともに、名実ともに年金夫婦となった。

家内は短大を卒業した後、私と婚約するまでの4年の期間、
そして我が家の一軒家を建てた後、3年ばかり勤めたりしたので、
ささやかながら厚生年金、厚生基金を頂く身分となった。

この分を家内名義の総合口座として、原則として下さない方針で来ているので、
少しつづ増えてきている、と私たち夫婦はお互いに微笑んだりしている・・。
こうした額が、あえて言えば家内のささやかな《へそくり》貯金になれば良い、と私は思ったりしている。

このような状況なので、我家は寝食を共にした結婚して以来、
お互いに隠し立ての貯金の方針がなく、毎月、家計簿を2人で締めたりしているので、
もとより《へそくり》は無縁となり、明朗会計となっている。

このような状況なので、我家では『へそくり』も『タンス預金』も無縁である、
と綴ってきたが、思いあたるところが一箇所あった・・。


確か16年前の頃、家内が郵便局で頂いた郵便ポストの形をした赤いプラステックの貯金箱がある。
         
         ☆平素は居間の片隅みあるが、今回はテーブルに特別移動させ、記念撮影とした。

私は年金生活の中、日常の買物を自主的に専任者となってきたが、
殆ど毎日のようにスーパー、専門店などで買物をした後、
私の財布から、1円玉、5円玉、そして10円玉が多かった場合、この貯金箱に入れたりしている。

そして、毎年12月の初旬に、この郵便ポストをひっくり返して、
私は銀行に持ち込んだりしている。

5000円を少し超える年が多く、私は思いがけない現金を頂いたような気持ちになり、
嬉しげにプリンターの用紙、インクの購入費にしたりしている。

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