峰野裕二郎ブログ

私の在り方を問う

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「私の在り方を問う」 【北松浦郡民生児童委員研修会における問題提起】

2005年11月24日 | 民生児童委員
一昨日、北松浦郡内8町の民生児童委員・主任児童委員、役場担当職員、各民児協事務局職員約150名が参加して「北松浦郡民生委員児童委員研修会」が行われました。
午前中、江迎町・小佐々町・佐々町の3民児協より問題提起があり、それぞれについて研究討議が行われました。
佐々町民児協を代表して私が発表した原稿を以下、紹介させていただきます。

みなさまこんにちは。私は、佐々民児協の峰野と申します。民生児童委員の役割を担うようになり、今月末で丸4年経ちます。
民生児童委員としてのこの4年を振り返るとき、民生児童委員の仕事を通して、折に触れ、私個人の人間としての在り方を深く考えることができるようになったことを思います。
言い換えるならば、私の人間としての精神の未成熟さを思い知らされる日々であったということに他なりません。

私が民生児童委員になって先ず考えたことは、町内会の子供たち、ご高齢者の方々と仲良くなろうということでした。
私の住む町内会は炭鉱華やかなりし頃にできた地域で、ちょっと古い新興住宅地のような土地柄です。私も、移り住んで来てまだ17年ほどです。特定の子供たちの顔しか知りませんでした。また、ご高齢者に限っては、ほんのご近所の方々だけとのお付き合いしかありませんでした。
それでは、どうやってみなさんと仲良くなれたか、子供たちとの交流をご紹介します。

私たちの町内会の小学生は集団登校をしています。子供たちと顔なじみになるために最初、2箇所ある集合場所のうち、自宅に近い所に出かけて行くことにしました。
何にもなしでは私も子供たちも気まずい思いをするだろうと、テニスボールを1個ポケットに忍ばせて出かけました。みんながそろうまでの間、キャッチボールをしようという思い付きです。

このアイディアは、うまくいきました。私と子供たちが向き合い、交互にボールを投げ合うのです。
子供たちはすぐに打ち解けてくれ、みんながそろうまでの束の間の時間を楽しんでくれるようになりました。そのうちに、一方の班だけでは不公平だなと思うようになり、やがて、時間差を付けて2つの班ともキャッチボールをやるようになりました。

そうしているうちに、隣の町内会の子供たちが国道を横断して登校していることを知るようになりました。
そこで、役場に出向き、横断歩道用の旗を1本お借りし、その横断歩道に立つことにしました。
やがて、そこに立ち、私たちの町内会の子供たちと、お隣の町内会の子供たちに朝の挨拶をするようになりました。

その横断歩道から20mくらい下った所に、信号機のない横断歩道がありました。そこを高校生が渡っているではありませんか。朝のラッシュ時です。車がなかなか止まってくれません。いつしか、その横断歩道に立つようになりました。

その横断歩道から、さらに20mくらい下った所に、下の町内会から国道につながる道路があるのですが、2つの町内から来た子供たちは、その道路を渡らなければなりません。ところが、驚くことにその道路には信号機はおろか、横断歩道もなかったのです。車で通っているときにはまったく気付かないことでした。

結局、最終的にそこに立つようになり、今に至っています。
子供たちに声をかける場所が自宅から次第に遠ざかって行きましたが、そこは、ご縁のある3つの町内会の子供たちみんなが登校するのに通る所でした。

さて、民生児童委員の基本的な姿勢として、常に住民の立場に立ち、地域のボランティアとして自発的・主体的な活動を行うことというのが謳われています。
私も、そう在りたいと思い、ただ今述べたような活動に取り組んでいるところです。しかし、そのような活動を真に意義あるものにしようと思えば思うほど、私の人間性の貧しさ、人間としての未成熟さを思い知らされ、悩み苦しんでいます。

朝、登校する子供たちが私の前を通りかかります。「おはようございます」と元気よく子供たちの方から挨拶してくれるのはまれです。たいてい、私の方から「おはようございます」と挨拶をします。
すると、ほとんどの子供は「おはようございます」と答えてくれます。しかし、中には目も合わせず、挨拶の言葉も返してくれない子供がいます。

子供たちが挨拶しないと嘆かれる向きもありますが、挨拶は後天的に身に付けていくものです。もし、挨拶する子供たちが少なくなっているとすれば、それは、挨拶をする私たち大人が少なくなってきているからに違いありません。

過日、あるご老人が横断歩道に差し掛かられました。ご老人は私に「最近の子供は、いっちょん挨拶せんもんねぇ」とひとしきり嘆かれた後、横断歩道を登校する子供たちと逆方向に歩いて行かれました。ちょうどその時、登校班の一団が横断歩道に差し掛かるところでした。
ご老人が嘆かれたとおり、その登校班の子供たちは、そのご老人に挨拶をしませんでした。ところが、挨拶をしなかったのは子供たちだけではありませんでした。ご老人も挨拶をされなかったのです。
これは、何もこのご老人に限ったことではありません。

朝に限らず、私はなるべく町内会を歩き回るように心がけています。その折に、顔見知りの方は別にして、すれ違う大人の方で、相手方から挨拶をされることは、まずありません。ところが、こちらから「おはようございます」とか「こんにちは」とお声をかけると、必ずといっていいほど挨拶が返ってくるのです。
中には、ブスッとして歩いておられた方が、急に満面の笑顔になられ「こんにちは!」などと応えてくださることさえあります。

ご自分の方から挨拶をされないご老人の姿は、私の姿そのものなのです。私も、民生児童委員をお引き受けする前は、自分の方からは挨拶をしない大人の1人でした。
「相手が挨拶をするならば、応えてやろう」。私の心の中のどこかに、そのような思い上がった気持ちがあるのです。

民生児童委員の役割を担ってからは、意識的にこちらから挨拶をするように心がけています。しかし、向こうから挨拶してくれる子供は良い子だと気分を良くし、そうでない子供に対しては、わだかまりが残るのです。
こちらが挨拶をしても、顔も見ないで挨拶をしないまま通り過ぎていく子供に対しては、初めの頃は腹が立つこともありました。そんなときは2,3日、自己嫌悪に沈んだものです。

ある時、何故、腹が立つのか考えてみました。
彼は、どうして挨拶を返してくれないのだろうか。朝、お母さんにしかられたのかな?朝ごはんを食べていないかもしれない。彼が家を出る頃には、お父さんもお母さんも出勤していて、彼を見送ってくれる人はだれもいないんじゃないだろうか?お父さんとお母さんがいつもケンカばかりしていて家が面白くないんじゃないかな?お父さんがいなくて、お母さんと2人暮らしをしているのかもしれない。

もしも、家庭がそのような状況であれば、朝、関係のないおじさんに挨拶をされても応える気力なんて湧かなくて当たり前です。
そのように考えてみた後、少なくとも腹が立つことはなくなりました。

何故、腹が立つのかよくよく考えてみると何のことはない、自分の気持ちばかりを大切にして、相手のことを理解しようと努めていないことに気がついたのです。

今述べさせていただいたのは、ほんの一例です。
民生児童委員になったからといって、私の人間性が急に高まったわけでもありません。むしろ、私の心の中にある、思い上がった気持ちとか、他者に対する差別とか、偏見とか、蔑視といったものがくっきりと浮かび上がってきたのです。
それらを覆い隠し、単に形式的に民生児童委員としての活動を行ったとしても、意味のないことであるどころか、社会的に弱い立場にある方々の尊厳を傷つけてしまうことにさえなりかねません。

それよりも、私の中に差別や偏見があることをしっかりと見つめ、その劣等感を戒めに地域の方々に接していこうと考えています。

とかく、さまざまな問題を抱えている人たちは、問題を自らのせいにしてしまい、悩んでいる自分が弱いのだ、人様や社会に迷惑をかけてはいけないと、外部へ支援を求めない傾向がうかがえます。
こうした人たちにとって、公的、あるいは物質的な支援もさることながら、人と人との「人間の絆」を強めることにより、解決される問題も少なくないように思われます。

その人と人との「人間の絆」を数多く、太く、つなぎ合わせる役目を真っ先に果たさなければならないのが地域のボランティアとしての役割を担う、民生児童委員である私の務めだと心得ています。

しかし、その大切な役割を果たさなければならない私の人間性に問題があるとすれば、より数多くの、より太い絆をつなぐことなどおぼつかないことです。

いかに、私自身の人間性を高められるか、それが私の課題です。

ところで、佐々民児協では民生児童委員としての人格・識見の向上を目指し、年間数度の各種研修の機会が設けられています。中でも、九州各地の主に福祉施設を見学・訪問する1泊2日の研修旅行は各委員同士の意見交換や親睦を深める上でも、大切な研修の1つとなっています。
今年度は、7月の12・13日熊本県の国立ハンセン病療養所・菊地恵楓園を中心に研修旅行に出かけました。

実は、今回の研修先については、事前に定例会で相当の議論が行われました。ハンセン病の療養所が民生児童委員の研修先として相応しいのかどうかというものでした。
最終的に岡本会長に一任することになりましたが、私が在籍している4年間で研修先について委員間であれほど真剣に議論したのは初めてのことでした。そして、そのことで各委員の中に研修先に対しての関心がこれまでにないくらい高まったように思います。その後、ハンセン病に関して勉強しておられる下村委員が持っておられる元患者の方が書かれた本を委員間で回し読むほどでした。

ハンセン病をきちんと理解すること、そして、何より長い間いわれなき偏見や差別を受け続けてこられた元患者の方から直接お話を伺うことを目的に、私たちは研修旅行に出発しました。

7月12日、私たちは菊地恵楓園を訪ねました。元患者で菊地恵楓園の自治会長をなさっておられる太田國男さんから直接お話をお伺いすることができました。
太田さんは、言われなき差別・偏見から解放されるまでの過程を淡々とお話くださいました。それは、私の想像をはるかに超えるものでした。
太田さんが、お話の途中、あなた方の中で「私は今まで差別をしたことがない。偏見を持ったことがないという方がいらしたら手を挙げてみてください」と言われました。
私は一番前の中ほどに座っていましたので、他の委員が手を挙げられたかどうかは分かりませんでしたが、私は恥ずかしながら手を挙げることができませんでした。

太田さんは、お話を終えられたあと、「何か質問のある方は」と仰いました。先に述べさせていただいたように、私は、常日頃から、自身の中にある差別する気持ちや偏見を強く意識し、そのことで私なりに悩み苦しんでいました。
ですから、太田さんのお話を伺ったあと、ふと、太田さんには人を差別する心や偏見といったものはないのだろうかと思いました。他意は全くありませんでした。ですから、迷わずそのことを太田さんに訊ねてみました。
私の質問が非礼だったのかもしれません。太田さんは、少し感情的になられたご様子でしたが、正直に、ご自分にも差別や偏見があることをお認めになられました。

太田さんは、お話の中で「呪縛からの解放」というお言葉を何度かお使いになられましたが、私も、太田さんの何百・何千万分の1くらいの私自身を悩ませ、苦しめるものから解放されていく喜びを感じていました。

太田さんのお話を伺って、集会所の外に出たとき、私は晴れ晴れとした気持ちでいました。療養所内の見学に向かう私たちを見送りに出てこられた太田さんの元へ行き、あれほどいわれのない差別や偏見に苦しんでこられた太田さんにでも、差別や偏見があるのだということを知り、私はつまらない悩みや苦しみから解放された思いで一杯です。有り難うございました。と感謝の気持ちをお伝え申し上げました。
すると、太田さんは「有り難う。有り難う」と繰り返されながら、ハンセン病のためご不自由になられた両手で私の右手を包んでくださいました。

太田さんは、差別や偏見を無くすためには、対象を正しく理解することだと言われました。

私は、太田さんの言葉を胸に刻み、その上で自分より相手の気持ちを大切にするように心がけ、地域の人たちの人と人との「人間の絆」を数多く、そして太くつなげられるような民生児童委員に成長できるよう努めたいと思っています。
コメント (2)
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