高校生の時、K君と初めて出会ってから次に会ったのがいつだったのかをはっきり覚えていない。おそらく、大人になり、お互い所帯を持ってからだったように思う。たまに、他の友人と共にゴルフをしたり、酒を飲みに出かけることがあった。
また、彼には女の子と男の子とそれぞれ1人ずつ子供がいたが、その子供たちが小学生の頃に私の塾に通わせてくれた。
彼の通夜と告別式の日、私は福岡の娘たちの所にいた。こちらに戻って来た後、彼の家へ線香をあげに出かけた。玄関のチャイムを鳴らすと、K君の娘が出てきた。友人の娘であり、かつての私の教え子でもある。二十数年振りに会ったK君の娘は40歳になっていた。結婚して子供もいる。息子も家庭を持ち立派に父親の跡を継いでいる。
K君は、2年前だったか奥さんを亡くした。しっかり者の奥さんだった。
若い頃、奥さんを泣かせるようなこともあったようだが、奥さんを頼りにしていた。それだけに、奥さんの通夜・告別式の時、彼は憔悴しきっていた。その後、彼の息子と顔を合わせた際、彼の様子を訊ねたことがあったが、その落ち込みようは相当だと話していた。時には飲みにでも誘い出そうと思っていたのだが、ついつい忙しさにかまけてしまい果たせぬままになってしまった。
1か月ほど前に入院したとのことだった。重篤な状態ではなかったようだが、肺炎を併発しあっという間に逝ってしまったらしい。65年の人生だった。
互いが高校生の頃に出会ってからほぼ50年、その間で共に過ごした時間はわずかなものだった。決して親友と呼べるような間柄ではなかったが、互いの人生の所々で交差することがあった。
K君は十分生きたように思う。奥さんを亡くした後の時間が必要なかったほどに。
正剛さんの1年祭が滞りなく執り行われた後、場所を移しての会食となった。献杯の音頭をとるよう依頼を受けた。いつの間にか、そのような役目を務める年齢になっているのだ。
昨日までぴんぴんしていた人が亡くなったという話などよく聞くことだ。
私を生み、育ててくれた父も母も彼らの務めを無事済ませ、あちらに行ってしまっている。正剛さんも、平戸で大きな役目を果たし、あちらに行った。しかし、彼らは彼らを思う人たちの心の中で生きている。
人間は、この世で一定の役目を果たし終えると、あの世へと旅発つのだろう。5月の穏やかな午後のひと時を、まだこちら側にいる者同士、キリンビールしか飲まなかった正剛さんの、こちら側にいた頃を偲び、飲み、食べ、語らいましょうというようなことを述べ、献杯の音頭をとった。