峰野裕二郎ブログ

私の在り方を問う

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あの世と この世

2016年05月21日 | 暮らし

従兄・正剛さんの1年祭で平戸へ行った。
従兄といっても、父の一番上の姉の子なので私より20歳ほど年長だった。平戸でずっと「峰野」の氏を守っていてくれた。正剛さん亡き後は、彼の息子がきちんと継いでいてくれる。

亀岡神社の宮司の支度が整うまで、居間でお茶を飲みながら弟、それに正剛さんの奥さんの親戚の方々と談笑していたが、話題は、何処そこの誰それがどうこうして亡くなったというものばかりだった。

つい先日、高校時代からの友人だったK君が亡くなった。
彼と初めて出会ったのは高校生の時、当時、江迎町に「家主」というあだ名のT君が住んでいた。T君は、事情があり祖母と2人で暮らしていた。2階が彼の居室になっており、みんな「こんちわ~!」とおばあちゃんに挨拶しては2階へ通じる階段を昇って行った。
そこは「不良」高校生のたまり場となっていた。そんなことからT君は「家主」というあだ名がついていた。

2階の部屋の中央に大きな灰皿が据えて在り、いつもすごい数の吸い殻が溜まっていた。「千灯ろう」という県北随一の夏祭時には、10名前後の「不良」高校生が集っていた。「不良」といっても、タバコを吸ったり、喧嘩をしたり、授業をさぼったりという程度のものだったが。

高校入学後、すぐにM君という江迎中学校出身の子と仲良くなった。M君はT君の中学時代からの親友で、そのうち私もM君に誘われてT君の家に出入りするようになった。
M君は、野球部出身ですらっとしたいい男で、その上喧嘩がめっぽう強く、女の子にももてた。
私もM君もバス通学していた。私は、中学の頃からよく遅刻していたが、それは高校生になってからも変わらず、時々、定刻のバスに乗り遅れていた。

中学3年の時の担任が松尾という人だった。遅刻するたび、思いっ切りビンタされた。決して逆らえない大きな大人に黙って頬を殴られるのは悔しく、少年の私にとって大きな屈辱だった。何より、ビンタを怖がる自分の弱い心が堪らなく嫌だった。
強くなりたかった。松尾さんに殴られるたび強くなりたいと思った。どうすれば精神が鍛えられるか強くなれるかを考えた時、松尾さんと殴り合って勝てるようにならなければと思った。殴り合っても勝てるようになれば、頬を打たれても精神は傷つかないで済むようになると思った。後に、大学でボクシングを始めたのは松尾さんのおかげだ。ボクシングは私に大きな自信を与えてくれた。それは私にとって何よりの財産となって今の私を作ってくれている。

遅いバスに乗ると、一番後ろの席によくM君が座っていた。時々、途中下車して2人で映画を観に行ったりした。高校の教員は遅刻しても殴りはしなかった。卒業時に仕返しされるのを恐れるからだ。そんな卑怯な教員たちが堪らなく嫌いだった。
授業が面白くなかったし、そんな教員たちの話を聞こうという気すら起こらなかった。幸か不幸か学校の勉強なんかしたことがなかった。

高校1年か2年のある日、いつものようにM君に誘われてT君宅を訪ねた。そこにK君がいた。

【思いもかけず長くなってしまったので、続きは明日にでも記そうと思います。】

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