峰野裕二郎ブログ

私の在り方を問う

since 2005

私の在りよう ②

2008年10月28日 | 家族
何故、私が前町内会長に「よく私みたいな者に声をかけられましたね。植杉さんでなければ、私みたいな者に声をかける人はいなかったはずです」と申し上げるのか。
それは、常に私が少数派だということを自覚しているからだ。物言えば唇寒し秋の風というような思いに陥【おちい】りかけていたのもそこからきている。

そもそも、自分の子供を「さん」付けで呼ぶなんておかしい、と先日あらためて母がつぶやいた。親でさえ私を「おかしい」つまり「みんなと異なる」、そう見ているのだ。

ちょうど1ヶ月ほど前、清峰高校野球部の監督が生徒を殴ったことが地元紙で大きく報じられた。その事件が報じられた後、町内会長連合会のみなさん7,8人と飲む機会があり、その話題になった。
私以外のみなさんは、少しくらい殴ったっていいじゃないか。少しくらい殴らなければ分からんのだと、いかに殴られてよかったかというご自身の経験をもとにとうとうとまくしたてられた。
体罰の話になると、決まってこれだ。それは大国が軍事介入したり、テロを起こしたりするのと同じ理屈だ。
このような席で、体罰はいけないと発言される人に未だお目にかかったことがない。
幼児・児童虐待ドメスティックバイオレンス・殺人事件・武力紛争・戦争がなくならないわけだ。

私が少数派なのは町内会の中にあっても変わらない。では何故、その少数派の私が町内会長をやっているのか。幸か不幸か、他にその役割を担おうという人がいなかっただけのことだ。謙遜【けんそん】でもなんでもない。
それでは何故、少数派を自覚している私が町内会長の役割りを引き受けたのか。それは、私の心の真ん中にある他者と創造的ないい関係を築いていきたいという思いのせいではなかったろうか。

少数派なのだから気の合う人とだけ付き合っていればいいものを、他者と創造的ないい関係を築き、何かを創りあげていきたいという思いが時折、頭をもたげる。人とは厄介【やっかい】なものだ。
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