昨年3月、長崎市立小島中学校で中学2年生の生徒が担任から生活指導を受けた直後、校舎4階から飛び降り自殺した事件がありました。
ところが、その生徒の死を長崎市教育委員会は、県教育委員会に「転落死亡事故」と報告していたことが15日に分かりました。
男子生徒は、昨年3月10日の放課後、持っていたタバコが見つかり、担任から校舎3階の多目的室で生活指導を受けた。学年主任が代わって話を聞こうとすると「トイレに行きたい」と教室を出たまま戻らず、校舎そばで倒れているのが見つかった。指導を受けた部屋の机には「オレにかかわるいろんな人 いままでありがとう ほんとにありがとう ○○(友人の名前)とりょうしん、他のともだちもゴメン」と書いたノートがあった。(9月16日付長崎新聞)
「自殺」を「事故」と報告したことについて、市教委健康教育課は「遺族は当初『自殺なんかをする子ではない』と言っていたので配慮【はいりょ】した」と説明にもならないような説明をしているといいます。
遺族の求めで実施した市教育委員会の調査では、担任教諭の生徒に対する体罰も発覚しているようです。
遺族は、担任が喫煙した友人の名前を聞き出そうとするなど、精神的虐待【ぎゃくたい】行為があり追い詰められたなどとして再度の調査を要望しているといいます。
自殺を余儀【よぎ】なくさせるほどの「生活指導」って、何なのでしょう。私は、この事件のことがずっと引っかかっています。
だが、事件の一報【いっぽう】が長崎新聞で報じられた後、どのマスコミも、どんなジャーナリストもそれを問題にしようとしません。何故なのでしょう。
何故、中高生の自殺がとまらないのか、自らの命を犠牲にしてこの子が教えてくれています。
上からの命令で、校長が、教諭が子供たちにどんな「命の教育」をしても、それは虚【むな】しいことなのです。
この担任が、この子に日頃どのように接していたのか。その日、この子に何を言って、何をしたのかがつまびらかにされなければなりません。
しばしば、専門家が子供の「サイン」に気付くことが重要だと言いますが、子供たちは自らの命をかけて、私たちの社会がおかしいとサインを送っています。身命を賭【と】して私たちに抗議しています。
ところが、その生徒の死を長崎市教育委員会は、県教育委員会に「転落死亡事故」と報告していたことが15日に分かりました。
男子生徒は、昨年3月10日の放課後、持っていたタバコが見つかり、担任から校舎3階の多目的室で生活指導を受けた。学年主任が代わって話を聞こうとすると「トイレに行きたい」と教室を出たまま戻らず、校舎そばで倒れているのが見つかった。指導を受けた部屋の机には「オレにかかわるいろんな人 いままでありがとう ほんとにありがとう ○○(友人の名前)とりょうしん、他のともだちもゴメン」と書いたノートがあった。(9月16日付長崎新聞)
「自殺」を「事故」と報告したことについて、市教委健康教育課は「遺族は当初『自殺なんかをする子ではない』と言っていたので配慮【はいりょ】した」と説明にもならないような説明をしているといいます。
遺族の求めで実施した市教育委員会の調査では、担任教諭の生徒に対する体罰も発覚しているようです。
遺族は、担任が喫煙した友人の名前を聞き出そうとするなど、精神的虐待【ぎゃくたい】行為があり追い詰められたなどとして再度の調査を要望しているといいます。
自殺を余儀【よぎ】なくさせるほどの「生活指導」って、何なのでしょう。私は、この事件のことがずっと引っかかっています。
だが、事件の一報【いっぽう】が長崎新聞で報じられた後、どのマスコミも、どんなジャーナリストもそれを問題にしようとしません。何故なのでしょう。
何故、中高生の自殺がとまらないのか、自らの命を犠牲にしてこの子が教えてくれています。
上からの命令で、校長が、教諭が子供たちにどんな「命の教育」をしても、それは虚【むな】しいことなのです。
この担任が、この子に日頃どのように接していたのか。その日、この子に何を言って、何をしたのかがつまびらかにされなければなりません。
しばしば、専門家が子供の「サイン」に気付くことが重要だと言いますが、子供たちは自らの命をかけて、私たちの社会がおかしいとサインを送っています。身命を賭【と】して私たちに抗議しています。
小島中学校の先生は、お気の毒です。教員として当然のことをしたまでなのに、こんな結果にされてしまって。あの事件のそもそもの発端は、何でしたか。それについてはどうお考えなのでしょう。一体、どこの教員が生徒を極限まで追いつめようと意図して動くでしょうか。問題を、その先生の「指導」にあるとお考えならば、私は「それは違うと思います」と言います。
死者を批判することをタブー視する傾向が強いこの国では、こういった言葉は、それこそ非難ごうごうとなりそうです。しかし、私はあえて言いたい。タバコの所持が見つかったなら、教員に厳しく指導されるのは当たり前でしょう。それならそれで、自分のやったことの責任をしっかりと取るべきです。あんな風に死ぬのは、「逃げ」でしかない。卑怯です。遺された教員は、一生消えない傷を負うことになる。そして一方的に非難される存在になる。そんな理不尽が、あっていいものでしょうか。
私は自分の政治的信条を生徒に言うことはありません。それは言いませんが、あの時、当時教えていたクラスではこう言いました。「逃げていいんだよ。死ぬことはないんだ。あの先生は、退職してしまえばよかったんだ。辛い、耐えきれないというなら、逃げればいい。違う道はいくらでもある。そちらで生きていけばいい。そして、人生を楽しめばいい。人生には辛いことも多いけれど、楽しいことも本当に多いんだぞ。何があろうとも、死ぬな」と。
いずれにせよ、現場の教員は一生懸命なのです。学校を、教員をターゲットにして責めていれば、それはとても簡単な「犯人探し」の結論となります。責められる方の立場としては、たまったものではありません。
その中の野球部の1,2年生の20人ほどが部活中に、そのことで顧問に平手で顔を殴られました。反動をつけて思いっきり。
規則を破った子供に対し、教員は何をしてもいいのでしょうか?
学校の中で、教員は子供に対し絶対的な権力者です。小袋さんは、教員の気持ちばかりを述べておられますが、絶対的な権力者に向かう子供の気持ちをお考えになろうとは思われませんか?
耐性の弱い子供が、すぐ殴る屈強な大人の前に立たせられたときの気持ちを想像されようとは思いませんか?
自殺した子供には、あんな風に死ぬのは「逃げ」でしかない卑怯だとせめておられながら、ご自分のクラスでは「逃げていいんだよ」と言われたとのこと。タバコを所持していたのがそんなに許せませんか?
佐々中の顧問の行為に対して、私に弁護させようとお考えでしょうか。私にはその気はありません。
それよりも、なぜこの話を持ち出されたのかが疑問です。私には、「サイン」本文から読みとれる「自殺=教員が追いつめたことが原因」という図式、簡単に言えば「教員=悪」という図式を補強するための例として書いておられるのではないかと思われます。
命の尊さ、かけがえのなさ、絶対に自殺してはならないということについて、先生方に、教員として、親として、本音で、自分の言葉で生徒にお話しして頂くようにお願いしました。その祭、以下のことには必ず触れてもらうようにお話ししました。
・命はかけがえのないものであること、1度失うと取り返しがつかないものであること。
・命は自分一人だけのものではないこと。
・親にとって1番大事なものは子どもの命であること。
・どんな辛いことがあったとしても、それで死ぬ必要はないこと。
・とても辛い状況があるなら、そこから逃げてもいいこと。違う道はいくらでもあること。
・どんなに辛いことがあるとしても、長い人生から見ればほんの短い時間でしかないこと。
・人生には、辛いことばかりではなく、たくさんの喜びや楽しいことがあること。
・何かあったら、1人で悩まないこと、誰かに相談すること。
校長に指示されてやっているわけではありません。何と言われようが、私たち現場の教員は私たちにできることを真剣に、一生懸命にやるだけです。
生徒の気持ちを考えない教員なら、悩んだり不安に思ったりすることもないでしょうね。
ところが、長崎市教育委員会は、その生徒の死を「転落死亡事故」と県教委に報告していたこと。
さらに、遺族の求めで実施した市教委の調査では、担任教諭の生徒に対する体罰が発覚しているようだということ。
また、遺族は、担任が喫煙した友人の名前を聞き出そうとするなど、精神的虐待行為があり追い詰められたなどとして再度の調査を要望していること。
それらの事実を踏まえて、子供たちが自らの命をかけて、私たちの社会がおかしいとサインを送っていますよと問題を提起したものです。
小袋さんのご質問にお答えするとともに反論させていただきます。
先ず、「規則を破った子供に対し、教員は何をしてもいいのでしょうか?」と私が記したのは、長崎市教委の調査で担任教諭による体罰が発覚している点。
また、精神的虐待行為があったと遺族が訴えている点。
それに、佐々中の野球部顧問が持ってきてはいけないとされていたお菓子を生徒が持ってきたことで暴力を振るったことを踏まえたものです。よくお読みいただければ、そのような文脈になっていることがお分かりいただけるはずです。
次に「なぜこの話を持ち出されたのかが疑問です」と佐々中の暴力事件を引いたことを「教員=悪」という図式を補強するための例として書いたのではないかと見ておられるようです。
もう1度「サイン」なり「それでは、子供の気持ちは」をよくお読みいただきたいと存じます。私は、教員が悪いとか小島中の担任教諭が悪いとかどこにも記しておりません。
「サイン」及び「それでは、子供の気持ちは」は、長崎県で子供による殺人(自殺を含めて)が起こるたびに、どこそこの教育長・学校長によって、このような痛ましい事件が再び起きないように「命の教育」を徹底したいというようなコメントが発表されます。学校からの保護者向けの文書で、いじめをなくそうとか、思いやりのある心を育てようとか言っているのをよく目にします。その筋の専門家の講演会なども盛んに行われています。
しかし、その学校現場で教員による子供たちへの暴力が日常的に振るわれているのです。その矛盾、おかしさを訴えるために記したものです。
「底知れぬ不安」で「小島中学校の先生は、お気の毒です。教員として当然のことをしたまでなのに、こんな結果にされてしまって」と述べておられますが、1人の生徒が命を落とした事実を厳粛に受け止めるべきではないでしょうか。
その担任に「もしも過失があるとしたなら、「ストレス耐性の極端に弱い生徒が存在する。そして目の前の生徒は、そういった生徒の1人かも知れない」という認識を、その時に持たなかったとうことでしょうか」とも記しておられます。だが、仮にその子供が「ストレス耐性の極端に弱い生徒」だったとするならば、教員として、当然そのことを踏まえた接し方を常日頃から心がけて然るべきです。その認識がなかったとすれば、何をかいわんやです。
「教員として当然のことをした」とありますが、いったいどのような当然のことがなされたのか、担任がその子に何を言い、何をしたのかがつまびらかにされなければなりません。
生徒が規則を破ったとき、わるいことをしたとき、先生が厳しく生徒に向き合うのは当然です。しかし、厳しく向き合うというのは、決して体罰や精神的虐待を与えることではないはずです。
小袋さんが「小島中学校の先生は、お気の毒です。教員として当然のことをしたまでなのに」とどうしてもおっしゃるのであれば、13、14歳の少年に、まだ、この美しい星に生まれて13、14年しか経っていない少年に、自ら命を絶たせた現実をどう説明するのでしょう。
子供のやったことを咎める前に、子供の話をゆっくりと聞いてやるような社会であってほしいと私は願っています。
「タバコを所持していたのがそんなに許せませんか?」という言葉は、本気で生徒と向き合おうとしている学校の教員からは出てこないだろう言葉です。
教員もラクがしたいのです。タバコを、見て見ぬふりをすれば、その点で生徒と向き合うことを避けられます。または、「タバコかあ。許せないというわけでもないんだけどな。」というような「指導」をしてそれで済ませれば、少なくとも生徒との「摩擦」は避けられるでしょう。その結果、その生徒はどうなるでしょうか。そしてその学校はどうなるでしょうか。
生徒と本気で向き合うことを避ける教員を、私は、誠実な教員だとは考えません。そして教員に、本気で生徒と向き合う気力を失わせる原因がどこかにあるとしたら、それは何でしょうか。
タバコを所持するということは、例えばマンガ本を持ってきて取り上げられる、ということとは違うのです。それが見つかれば、タダでは済まない、教員とののっぴきならない状況が生じるということは、中学生にもなれば当然理解しているはずでしょう。それだけの覚悟をして、所持しているはずです。もし見つかれば、そこで教師と対決だという覚悟です。
そして教員が、他に喫煙している生徒の有無を聞き出そうとするのも、これもまた当然です。私でもそうします。それが「精神的虐待」ですか。
体罰に関しては、調査報告書を読んでいるわけではありませんので、ここでは述べません。
「その認識が~何をかいわんや」に関しては、普段の状況からはわからないこともある、と言っておきます。そういう批判(そういう仮説からの私の擁護も)は、結果論でしかありません。だから「お気の毒」なのです。
「自殺を余儀【よぎ】なくさせるほどの「生活指導」って、何なのでしょう」という文および文脈から、私は「教員=悪」という図式を読み取りました。峰野さんは、そういうことは書いておられないと記しておられますが、文章は書き手の意図とは独立した存在ですので、読み手には別な受け取り方をされる可能性があるのです。これは、世界に存在するすべての文章について当てはまることであることを申し添えます。
少年が自殺したという事実自体は、大変痛ましいことだと思います。そこから汲み取るべき教訓もありますし、その教訓を生かしたいと強く思います。但し、私はその少年を、「何故、中高生の自殺がとまらないのか、自らの命を犠牲にしてこの子が教えてくれてい」るとは考えておりません。「ペイフォワード」の少年とは全然違うと思っています。
なお、私が述べているのはあくまでこの少年のことであって、他の自殺した中高生については一切触れていないことにもご留意ください。