峰野裕二郎ブログ

私の在り方を問う

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祭りを通して考える

2008年08月10日 | 町内会長
ナガサキ 63回目「原爆の日」 浦上天主堂、続く平和の祈り(西日本新聞) - goo ニュース

昨日9日、原爆投下時刻の午前11時2分、くるみさんと私は自宅で、ちょうど買い物から帰ってきた女房どのは駐車場で、戦争の原爆の犠牲となられた方々のために黙祷【もくとう】を捧げた。役場の広報無線のサイレンが悲しく鳴り渡る。

長崎県民にとって8月9日は特別な日だ。県内の学校は登校日で、子供の頃からその日、その時刻には必ず黙祷を捧げ続けてきた。大人になってもその習慣は続いている。
今年は9日が土曜日ということで、子供たちは8日に登校し、それぞれの学校で平和集会に臨んだ。女房どのの勤める小学校では平和集会の最後に全員で黙祷を捧げたという。

折しも、4年に1度のオリンピックが開かれている。
オリンピックは平和の祭典とも言われるが、皮肉なことにその真っただ中、ロシアとグルジアが全面戦争状態に入った。そして、原爆によって殺された、戦争なんか決して意図しなかった多くの善良な市民と同じように、戦争なんてこれっぽっちも考えていなかった、オリンピックを楽しみにしていただけの罪のない人々が尊い命を落としている。

北京オリンピックの開会式には、アメリカ・ロシアを始め世界各国のリーダーが顔をそろえ、さも仲良さそうに映像に収まった。
しかし、彼らは自国の利権のみを求め、自身の保身のみを考える極めて悲しく弱い人間にしか過ぎない。カメラのフレームから外れたところでそのための権謀術数【けんぼうじゅっすう】に現【うつつ】を抜かしているのが透【す】けて見える。
開会式の選手入場のセレモニーで選手が国家元首に手を振っていた。国家元首はそれに対しにこやかに手を振って応えていた。
それは、一見美しい光景のようにも思えるが、その実、彼らの精神の底流にどす黒く流れるものは、おそらくは私のような凡庸【ぼんよう】な人間の想像するような甘っちょろいものではないのだろう。オリンピックは偉大なる偽善だ。

昨日の町内会夏祭りは、昨年よりも多いみなさんにきていただき賑【にぎ】わった。
今朝は9時から、その後片付けだったが、わずか5人しか集まれなかった。「私たちの夏祭り」というメッセージを私が伝え切れていないのだ。自身のことであれば、準備から後片付けまできちんとやるのが当たり前だ。
しかし、それよりも副会長を始め、自分の夏祭りを存分に楽しんでいただいた方が4人もいらっしゃったということを喜ぼう。

今夜は芳ノ浦町内会の夏祭り・盆踊りにお招きをいただき出かけてきた。冒頭【ぼうとう】町内会長、それに続き来賓の挨拶があり、お招きいただいた町内会長の紹介があった。
それを見て、アッと思った。私たちのところは、そういうものが何にもなかった。ズルズルと始まり、ズルズルと終わった。全く、そんなことに頭が回らなかった。リーダーの思想が祭りの在りように見事に反映されることを実感した。

金曜日の地元紙に、佐々町の議員4名が「佐世保市との合併を考える議員連盟」という名で佐世保市との1市1町による法定合併協議会設置のための手続きに必要な請求代表者証明書の交付を申請したという記事が掲載された。
私は違和感を抱いたが、今夜夏祭りで隣り合わせた町議会議長に率直にその疑問をぶつけ意見を交換した。

私は、私たちの暮らす地域がどうあるべきか、どうあってほしいか。どうすれば、より楽しく、より心豊かに生きていけるか、そんな議論を深められる場を求め、そこに主体的に関わっていきたい。
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