峰野裕二郎ブログ

私の在り方を問う

since 2005

私の命が私にさせようとすること

2007年08月12日 | 町内会長
昨夜の夏祭りの後片付けのために、10人弱のお父さんたちが顔をそろえてくれました。
30分ほどで大まかな片付けは済みました。お父さんたちは、ここで解散です。
その後、一人残り、ダンボール箱をつぶし・まとめ、空き缶・空き瓶を整理し、ゴミをまとめ、集会所内の拭き掃除をし、掃除機をかけ、濡【ぬ】れている布巾【ふきん】や雑巾【ぞうきん】を表に干し、使われた食器や調理器具等が元の場所に戻されているかどうかを確認しました。
この暑さです。汗が滴【したた】り落ちます。

これをきちんとやっておかないと、後に集会所を使うグループから必ず苦情が出ます。いたずらに誤解を招いたり、グループ同士の反目・対立を招かないように配慮しなければなりません。
しかし、だからといって、善意で後片付けに出て来ておられる方に、細部にわたり、それをお願いするのは酷【こく】というものです。自宅の庭は徹底的に掃除しても、例えば、町民大清掃での公園の清掃が適当になってしまうのは人情です。誰もそれを責めることなどできません。
ところが、厄介【やっかい】なのが公共の施設を利用する人々の考え・思いは多様であるという点です。

しばしば、公共施設で「使う前より美しく」というような標語が壁に貼ってあるのを目にします。それができていないからこその呼び掛けでしょう。佐々町の図書館でも図書のページが破り取られたり、元の場所に置いてなかったり、そのまま持ち去られたり、戻ってこなかったりと、あまりにも自己中心的過ぎる人たちが増加しているのが数値ではっきりと表れています。しかし、それが、もう一方の立場に立つと、図書の整理がなっていない、管理がずさんである、利用者のモラルがなっていないと、裏返しの自己中心思想となります。
他者に厳しく、自己に寛容【かんよう】であるという風潮【ふうちょう】が、小泉政権の頃から顕著【けんちょ】になっているように思われます。

それはともかく、自分の役割がハッキリしているというのはありがたいことです。
この年齢になってようやく、私の命が、私に何をさせようとしているのかが分かってきたようなが気がします。それを幸せに思います。
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2 コメント

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誰かが私のために (峰野裕二郎)
2007-08-14 12:04:39
自分さえよければそれでよしとする考えでは、結局、人は幸せになれないように思います。
何故なら、人は1人では生きていけないからです。つまりは、私は誰かのために生き、誰かが私のために生きてくれていることにより、私は私の命を全【まっと】うできるのです。
そのことを思い知るために、私たちは愛するものの喜ぶ顔を見る経験を数多く積み重ねる必要があります。

私たちにとって必要な力とは決して学力なんかでではなく、愛する力なのです。「生きる力」とは「他者を愛する力」に他なりません。
親が教育者がそのことを見失いかけている今、教える側と教えられる側の関係、つまり、教育が成立しなくなりつつあります。教育が成立しなくなれば、教育という概念は滅びることになります。

他者を愛するために、私たちはもっと他者とかかわることから始めなければなりません
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物は無くてこそ (ウィン)
2007-08-13 21:17:51
峰野さんのコメントをみて 小学校6年の担任の先生を思い出しました。話の前後もう忘れてしまいましたが 前任地で生徒の汚してしまったトイレ 他の先生方も 誰も掃除しようとしなかったのを みかねて自分でされたそうです。それも素手で。其の時 嫌な事でも誰かがしなければならない事は率先して行うことを教えて頂いたのです。自分さえ良ければそれで良しの考えは見苦しいとしか 言えません。親そして教育者共にもう一度自分の事よく考えて欲しいものです。今は 衣食 足り過ぎて 礼節知らずです。       
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