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あなたに「ぬくもり」を届けたくてブログをつくっています

ゆっくりと

2016-06-20 19:02:56 | 日記
 先週から忙しくて、いらいらしている自分がある。暑さもあるのだろうが疲れが倍になる感じだ。今日は歯を抜いた。最期まで歯は抜かないで自分の歯で食べたかったので、なかなか決心がつかなかった。先生は治療が進まないとややイライラしていた。

 夕方買い物に出ると、時々会う盲導犬を連れた美しい女性に会う。美しさゆえに目立つのか、いやそのなんとも優雅な雰囲気に魅せられる気がする。背筋を伸ばして、ゆったりと歩いている。盲導犬は高齢なのかやはり寄り添うようにのんびり歩いている。

 歯を1本抜いて、時が緩やかに流れ出した。急ぐことができない。力を入れれば、血がにじむし、軽い痛みが走る。なんであんなに急いでいたのかなぁ と思う。バスの時間、電車の時間に追われるのがつらかった。そんなに急ぐことでもないのに、一人あせっていた気がする。「自分の身体を一番にしてくださいね」治療してくれる息子のような柔道整体師さんの言葉が胸に痛い。

 
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自分の感受性くらい

2016-06-17 01:36:33 | 日記
 雨の日は感性が動く気がする。晴れた日は「動」、雨の日は「静」で、動きが少なくなる分

内面が動くのだろうか。雨音を聞きながら、冊子の編集をしていた。自分の感性が鈍ってきている気がした。フェイスブックでは毎日いや毎時間ごとに新しい出来事、きれな写真、人生訓などが流れてくる。私のページはとても豊かだ。新聞では報道されない熊本の様子もわかる。しかし、私は情報を自分で集めることをしなくなった。美しい風景も花も自分で探さなくてもいいようになった気がする。

 そんな折、知人が十一面観音についての文章を送ってくれた。後ろの一面は暴悪大笑面と言うといってその写真も送ってくれた。「なぜ、この面は笑っているのか?」という質問を添えあった。私はしばらくその写真とにらめっこをした。一回りすると菩薩の顔になるのでは?と思えた。私は実物を見たことがなったが、それ想像は当たっていた。

 その時、茨木のり子の自分の感受性くらい  の詩を思い出した。『自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ』 何日かSNSを休んでみようと 思った。

 
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リハビリ病棟で

2016-06-14 19:52:57 | 日記
 紫陽花の写真を撮りに行ったが、あまりきれいでない。雨に打たれていないからだろうか。泰山木の木が大きな白い花をつけている。

 母がリハビリ病棟に移った。リハビリ室ではなく病棟なのだ。介護士さんなど人が倍くらいいる感じだ。母は1日4時間のリハビリになるという。ここで見たものは「生きる」ことのすさまじさとそれを助ける人たちの熱い思いだ。頭が痛い、めまいがする、おなかが痛いと 母と同じ部屋の人がリハビリを拒否しようとしている。午前中で音を上げたらしい。15分間三人がかりでお世話をしてついにリハビリに連れ出した。みながTVを見たり食事をするところで、一人の老人と3人の介護士さんがおそらく退院後のことを相談しているようだ。ご長男は・・・、あの家は・・・などところどころ聞こえてくる。突然、老人が大きな声で泣き出した。三人が必死で謝っている。これも「生きる」ということだろう。

 母の退院後の相談をして、リハビリ病棟に行く。食事前に、3人くらいの人とテーブルについていた。元気に私に手を振り「娘です!」と。車いすで近くに来た人を「この方とお友達になったの」。散々、どうしたもんだろうと 退院後のことを悩んだのに。洗濯物を持ってそっと帰った。いつも母はそんな人だった。その寂しさは、もう埋められないのだな と思う。

 
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君に読む物語

2016-06-11 22:26:16 | 日記
 爽やかな初夏のような日だった。10年以上作っている冊子「いのち」の編集に追われる。親友の由美子さんが書いた「君に読む物語」を読んで、映画を思い出した。この映画を見たころは、認知症とは別の世界にいた。どんなに愛しあったとしても、そのことを忘れてしまうのか とショックだった。

 2つのドラマで別れのシーンがあった。金曜日のNHKドラマコントレールの別れは、結ばれてはならない二人がその思い出のすべてを身体に刻み込んで別れ、それを宝ものにし生きると 言う。そういう別れ方もあったのだ と思った。朝ドラとと姉ちゃんも若い二人がきちんと別れていた。あのように最後をきちんとして別れるほうがいいのだなぁ と感じた。冬ソナだってそうだった。最後に見たものが後ろ姿なんて悲しい と振り向かないで二人は反対方向に歩いていった。

 別れは、きちんとしないと後をひいてしまうのだろうか。そんな思いになった。いや、そうではない。今思うと、「さようなら」は言えなかったのだ。言うことができなかったのだ。ずっと、ずっと。

 
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裁判官がほしいのではない?

2016-06-08 20:45:59 | 日記
 梅雨の合間の晴れなのだろうか。洗濯をすればよかったと後悔する。ちょっと話したいことがあったので、友人と3時ごろお茶をすることにした。予定がどんどん変更になって、結局6時ごろお茶になった。1日、彼女に振り回された感じだった。でも、会って話を聞いてみると、それなりの事情があった。

 そんなことはあるのだなぁ と思った。「今日は早く帰るよ」と言って出掛けた夫が偶然が重なり、飲み会に巻き込まれることもある。でも、その理由を聞きもせずプンプン怒っている妻がいる。よくある話だ。昨日のNHKで妻の暴力(言葉も含む)におびえる夫の話があった。そのなかで、女は感情を受け止めてほしいのに、男はその理由を(怒っている理由)を聞こうとする 違いがあるという。昔、知人がお姑さんのことでご主人ともめたことがあった。「私は是非を問うて欲しいわけじゃないの。そうか、そうか と聞いてくれればいいのよ。

裁判官なんて必要ないのよ」と言っていたことを思い出した。なにかわかる気がする。

 今の私はどうなのだろうか?う~ん、相手の話を待つのかな?黙っていると相手は話してくれるものだ。別にどうということでもないしという感じかな。感情はすでに受け止めてもらっているという安心感なのかもしれない。

 
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