のりぞうのほほんのんびりバンザイ

あわてない、あわてない。ひとやすみ、ひとやすみ。

トニー滝谷

2005年04月29日 12時01分34秒 | 映画鑑賞
■ストーリ
美大を卒業後、イラストレーターとして独立した
トニー滝谷(尾形)は、出版社に勤める英子(宮沢)と
結婚する。しかし英子はほどなくして交通事故で
死んでしまう。あとに残されたのは、英子が買った
大量の洋服。そしてある日、トニーの前に英子と
体型がそっくりな久子(宮沢)が現れる。
トニーは久子に、彼の助手として働く間、
制服代わりに英子の服を着てくれと頼む。 

■感想 : ☆☆☆☆☆
痛い哀しい。
そんな感情に刺激され続けた1時間半。

自分が孤独だということにも気付かないまま
少年時代をすごし、大人になったトニー。
初めて人を愛し、二人で過ごす時間をもつことで、
ようやく自分が孤独だったことに気付く。
孤独の意味を知り、再び孤独に戻ることを恐れるトニー。
愛する人と過ごす穏やかな幸せと
幸せは決して永遠ではない、ということに
気付いているからこその不安。

そして、ある日、本当に訪れた
愛する人との別れ。

お葬式を終え、骨壷を持って帰り、入浴後
一息ついたところで急激に彼を襲う孤独。
背中しか移さないのに彼の孤独が
私の胸を締め付けた。

また、そんな彼に愛され、恋人を捨てて
トニーと生きることを選ぶヒロイン英子。
彼女もまた心の中に孤独を抱え込んでいる。

「自分の中の空っぽを埋めるために
 洋服を買うんです。」

彼女が持っている虚無感の原因は
映画内では語られない。触れられない。
洋服を買うために街を歩き回る彼女の歩調は
余裕がなく、洋服を選ぶ彼女の表情は険しい。
そこには「虚無」だけではない
何かに追われているような切羽詰まった感情が
あるように思えてならない。

トニーの前で穏やかな表情を見せる英子。
お茶目な表情で車を洗う英子。
車の中で今返してきた洋服を後悔する英子。
洋服なんて本当はそんなにいらないのに、と
自問する英子。

彼女の孤独は、トニーと違い
愛する人と過ごすだけでは
埋められないほど大きかったのだろう。

全編を通して流れるピアノの音。
そして穏やかな西島さんの語り。
彼の語りはこの映画の世界観によく合っていて
第二の主役、と言ってよいだろう。

ラストは唐突に訪れる。
だが、映画の余韻はいつまでも続く。
唐突なラストを振り返ると
「明日」や「未来」への希望が
確かに伝わってくる。

阿修羅城の瞳

2005年04月29日 11時38分09秒 | 映画鑑賞
■ストーリ
時は文化文政。人の姿を借りた魔物が潜む江戸の町。
かつて「鬼殺し」と怖れられた腕利きの病葉出門(市川)は、
現在では一切を捨て舞台役者として活躍していた。
ある日出門は、ふとした偶然から盗賊団≪闇のつばき≫の
つばき(宮沢)に出会い、二人はたちまち恋に落ちる。
その頃、鬼を率いる尼僧姿の鬼女、美惨(樋口)は、
伝説の鬼の王・阿修羅の復活を確信する…。

■感想 : ☆☆☆
宮沢りえさん演じる椿が美しすぎる。思わずため息。
そして、市川さん演じる出雲さんが色っぽすぎる。
舞台がかった台詞回しも役者らしい三枚目のお茶らけた
言い回しもすべて自分のものにしている。
全体的にふたりとも見せ所、決め所を
きちんと理解して演じている。

劇団新感線の舞台を映画化にしたというこの作品。
どうやってこの映画を舞台でやっていたんだろう?
ぜひオリジナルを舞台で見てみたい。
ただ、そのときもぜひ主役二人は
市川さんと宮沢さんで。
そのくらいお似合いの二人でした。

出雲が椿に惹かれていく感情、
ちゃらちゃらした口調でその感情を表現しつつも
どんどん愛情が大きくなっていく様子が
ふとした表情に出ていて、本当に切ない気持ちになった。

恋をすると鬼になっていく女性。
鬼になっても「恨み」という感情を捨てきれずに
愛した男性を待つ鬼。
鬼であろうと人間であろうと愛憎は同じ。
憎しみも愛情も紙一重、なのだ。

前半は徐々に引かれていく二人の恋愛感情が
美しく切なく表現されていて引き込まれたが
椿が阿修羅になってからは失速。
クライマックスシーンも美しかったが
盛り上がりには欠け、結末にもなんとなく納得がいかない。
舞台もこういう終わり方だったのだろうか。。。


真夜中の弥次さん喜多さん

2005年04月29日 11時04分47秒 | 映画鑑賞
■ストーリ
ワイルドで男らしい商家の若旦那、弥次さん(長瀬智也)と
ヤク中の役者、喜多さん(中村七之助)は深く愛し合っている。
喜多さんのヤク中を治そうと、ある日、ふたりは
「何でも願いが叶う」というお伊勢様を目指して旅に出る。

■感想 : ☆☆☆
これでもか、というくらいのクドカンワールド。
馬鹿馬鹿しさや意味のないこだわり、
無駄に豪華な競演陣(でもマニアック)を
追求する姿勢についつい惹かれてしまう。
そういったクドカンの作品「らしさ」が
この映画では結集されている。

至るところにコネタ満載。
馬鹿馬鹿しさを追求し、時代劇の中でいかに時代劇を壊すか、
「リヤル」から離れていくか、にパワーを注ぎ込み
観客のことなんてうっちゃっている姿勢。
ついてこれる奴だけ、ついてこい!という潔い姿勢は
いっそ清清しいし、クドカンファンは彼のそういった
「自分が作って楽しいものを作る」ところが好きなんだろう。
彼が楽しんで楽しんで織り込んでいるコネタを
見つけていく楽しさは共犯意識に似ていて、
そういった「仲間意識」もクドカン作品の醍醐味のひとつだ。

だが、クドカンの作品は決して「馬鹿馬鹿しさ」だけで
終わらない。一筋縄ではいかない。
中盤、「リヤル」を求めて旅立ったはずのふたりは
「リヤル」を突きつけられ、実は始めからこの旅の目的が
「リヤル」から逃げることだったと自覚する。

この時点で、モノクロ映像とカラーの意味がようやく理解できる。
極彩色で彩られた世界は嘘っぽさ、ぺらぺらさを表し
私たちも今まで楽しんでいた作品が「ありえないこと」であり
現実世界は楽しくも美しくもないことを突きつけられる。

原作がしりあがり寿であり、私は彼の作品のディープさが
どうにも苦手なので、結末にも話の展開にも
うーん・・・・。というところが多々あった。
クドカンさんのオリジナル脚本のほうが私は好きだ。

だが、しりあがりさんとクドカンさんの世界が融合して
できあがったこの作品は、話のぐだぐだ感といい
支離滅裂さと言い、彼ららしくてほほえましい。
伝えたいメッセージをオブラートに包み込んで
決して声高に立派なことを言わない恥ずかしがり屋さんな
ところなんてそっくりだな、と思うのである。

「何でも願いがかなう」お伊勢様に二人はたどり着かない。
そんなところ、どこにもないのだから。
馬鹿馬鹿しいコメディなのに
見終わった後、そういう気分にさせられる。

けれど、ふたりは旅を続ける。

「幻」を「幻」と思い込ませるためには
ありったけのパワーが必要。
それだけのパワーを使って二人は再び旅を楽しみ始める。

私たちも現実世界が思うようにいかないところだと知っている。
それでも、「美しいところ」だと信じて
「願いはかなう」ときがあると信じて
精一杯に生きていくことが幸せに生きるコツなのだろう。

■追記
 一番の驚きはこの映画を「文化庁」が支援してたこと。
 いいのか?!こんな映画を支援して?
 どなたにでもお勧めできる作品ではありません。