ジミーの自然ブログ (Jimmy's Nature blog )

花の美しさ 自然の素晴らしさを 伝えたい。 

  桜だけでなく 多くの花が美しく 咲いて来ています。

2018年03月28日 | 自然 花 写真

  ( 紅花常磐満作(べにばなときわまんさく) 垣根などに色鮮やかに 咲いています。)

 

『 いのちの終末をどう生きるか 』 昨年亡くなられた日野原重明先生の御本のタイトルである。
先生はクリスチャンでした。この本の序文に 賛美歌を引用して『 この世の旅路を歩むぞうれしき』
方も 『 けわしき山路も お暗き谷間 』 で滅入ってしまうような生活をしておられる方も 皆
『 世の旅果てなば 』『 死の川波 』を越えて行かねばならないことを 最初に言っておられる。

聖書 ヘブル書9章に『 人間は一度だけ死ぬこと 死んだ後裁きを受けることが 定まっている。』と
あります。衝撃的な言葉です。人生はそれぞれでも 死は全ての人々に共通です。日野原先生は 
この本で たった1回しかない生まれることと死ぬことを正面から取り上げようとされています。
出生は私たちが気付いた時に 既に生まれてしまっているので 『 死 』だけが 私たちの選択、 
様々な死に方が可能となるのに 『人は 余り死のことを考えようとしない。』 と言っておられます。

シェイクスピアは 作品『ハムレット』の中で 『 生きるべきか 死ぬべきか それが問題だ。』の後
『 死ぬことは眠ること 心の痛みと肉の苦しみを終わらせ得るものならば 誰しも熱望する終局。』と
言い切りながら 死の先にあるもの 未知なるものへの勇気が出ない だから迷うのだ・・とも言う。

人生は必ず引き際があり 幕を引く時が来ます。80才を過ぎると 30%が 「 まだ朝ご飯を
食べてないよー」と言うそうです。私たちは元気なお年寄りを多く見ますが 病院で 或いは自宅で
介護を受けながら生活する方も多いのです。 最近鏡川の堤防に咲く桜や桃を眺める為に 車椅子で
来られる高齢者が多いです。 一人に一人が介護で車椅子を押しています。何時 どのようにかは
分かりませんが 舞台から去って行く時が来ます。シェイクスピアはよく人を役者に例えていますが
舞台に出た役者は必ず引くべき時があります。花道ならいいですが 殺陣の切られ役もある訳です。
幕切れを如何に 美しく飾るのかも 人生の選択には 大切なことなのです。

一方 病気をすると死を考えたり 他の病める人を思ったりします。日頃元気いっぱいだと 他者の
痛みが分からないものです。私のようにいつも元気に振る舞っていると『 ノー天気 』 に思われる
かも知れません。感受性というか 感性は自分の心が病む時 高まるのかも知れません。他人を理解し
共感し 他人の痛みを知り 同情する。死に至る病を得て 始めて重篤な患者さんのことを考えられる
のかも知れません。特に重い病気の方は痛みも 苦しみも大きく 結構クリスチャンでも大きな苦しみ
の中で亡くなった方のことを聞きます。信仰があれば 死ぬ時も平安とは限らないのかなーと思います。

何人かの死に際を見て 人間は生気を徐々に失うのだなー と思いました。日々祈り 聖書を読み続ける
ことが 出来なかったとも聞きます。「無情」を感じます。 肉体的な痛みがある時は人は考えることも
出来ないと日野原先生も言われています。立派に死ぬとは 必ずしも痛みをこらえて 静かに死んで逝く
ことでもないようです。椎名麟三という作家がクリスチャンになった時 これで思い切りわめいて死ねる
と言ったと聞きましたが それは正しい思いだったかも知れません・・。 

死を理解する ことは仲々大変なことです。 私はこの日野原先生の本を読みながら 又過去に読んだ
本なども見返しながら この人生の課題に踏み込んでいきたいと思っています。 今日はこの辺で・・。 

 

 

蛇の目エリカ といいます。小さな花が無数に。

スズラン水仙

カラスのエンドウ。 或いは 雀のえんどう。 豆科。 今野原では満開。

三界草。或いは仏の座 

ムラサキケマン。 

花韮(はなにら)。ようやくあちこちで見るようになりました。

山吹(やまぶき) イギリスでは イエロー・ローズとも呼ばれる。

ミモザアカシア。 房アカシア或いは銀葉アカシアとも。

柊南天(ひいらぎなんてん)の花。葉にトゲがあるのは ひいらぎに似ている。

ひさし振りに見たヤギ君。

道路脇の花壇にも チューリップ。

花だけでなく 新芽が吹き出る 柳。

珍しく見つけた カワセミ。

 

 

コメント (1)
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