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日本武尊は女性にもてたそうで、死んでからも哀しむ女性が多かったそうですが、6人の妻に6人の子供がいました。
日本武尊の最初の妻は、祖父にあたる第11代垂仁天皇の末娘で自分の叔母にあたるフタジノイリビメノミコト、書紀では両道入姫命(フタジノイリヒメノミコト)で、その間に産まれたのが帯中津日子命(タラシナガツヒコノミコト)、すなわち今回の第14代仲哀天皇(チュウアイ)です。
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叔父の第13代成務天皇が自分の子を次の天皇にせずに、甥である(尊敬していた兄の日本武尊の子)仲哀を天皇にさせたようで、ここにいたって初めて、自分の父が天皇でない人が天皇に成りました。
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仲哀天皇は二人の妻に、それぞれ二人ずつの子をもうけています。
最初の妻オホナカツヒメノミコトとの間に、香坂王(カゴサカノミコ)と忍熊王(オシクマノミコ)が産まれ、二人目の妻オキナガタラシヒメノミコト、すなわち有名な神功皇后(ジングウコウゴウ)との間には、ホムヤワケノミコトと品陀和気命(ホムダワケノミコト)が産まれています。
(次回神功皇后まで憶えておいてください)
この最後のホムダワケノミコトが、次の第15代応神天皇(オウジン)になりました。
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今回の第14代仲哀天皇は、福井県の敦賀・山口県の下関・福岡県の香椎に宮を作ったりして、九州の熊襲を討とうとしていましたが、神の教示は妻の神功皇后に神懸かりして、海の向こうの朝鮮を攻めなさいと言ったそうです。
それに逆らった仲哀天皇は、琴を弾きながら突然死んでしまったそうですが、私はなんとなく、妻の神功皇后一派に暗殺されたような気がしています。
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筑紫の国で52歳で亡くなった、名前の如くちょっと哀しい天皇ですが、陵は奈良県を初めて離れて(父の日本武尊の3番目の陵は近くの大阪府羽曳野市ですが)、次の王朝の巨大陵が並ぶ大阪府藤井寺市の恵我長野西陵(エガノナガノノニシノミササギ)です。
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仲哀天皇陵は、岡ミサンザイ古墳と呼ばれている古市古墳群の一つで、墳丘長245ⅿの16番目の大きさの前方後円墳で、古墳時代中期(5世紀末)の築造です。
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平地にあって立派な仲哀天皇陵をぐるっと一周しました。
車は陵の横にある、この無駄だとも思えるほど大きな公共施設アイセル・シュラホールの駐車場に停められました。
名前と形から察せられるように、この建物は近くで古代の木造橇がそのまま出土したと、だいぶ前に話題になった修羅(シュラ)に似せた形になっています。
返事
花水木さん:誰に才能があるのか、後継者選びは難しいですね。
でも、後継ぎにまかせず、いつまでも長でいるのは、
いつの時代も結果は良くないですね。