島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

31-1用明天皇

2018-05-09 | 天皇陵巡り
   
 古事記の記載最後の天皇まであと3人となってきて、この第31代用明天皇も、古事記では宮と妻子と陵を記述してるだけでした。
 でも、今までの30代の天皇の陵には、実在したかどうかも含めて、本人が入ってるかどうかさえも全て疑問が持たれているようで、ここ用明にいたって初めて、ほぼ間違いなく本人が入ってる真陵とのことらしいです。
   
 第29代欽明天皇と蘇我稲目の娘 堅塩媛(キタシヒメ)との間に産まれた13人の男女のうち、最初の子 橘豊日天皇(タチバナノトヨヒノスメラミコト)は、異母兄の第30代敏達天皇が亡くなった後、磐余池辺双槻宮(イワレノイケベノナミツキノミヤ)(奈良県桜井市)で即位し第31代用明天皇(ヨウメイ)と成りました。
 ここから3代43年に及ぶ蘇我氏外戚の天皇が続き、蘇我家全盛の時代が始まります。
    
 第31代用明天皇は蘇我稲目の娘 蘇我石木名(イシキナ)(すなわち実母の妹)との間に田目皇子(タメノミコ)を、葛城直磐村(カツラギノアタイイワムラ)の娘 広子(ヒロコ)との間にも1男1女をもうけますが、皇后は母 堅塩媛の妹 小姉君(オアネノキミ)の娘で異母妹にあたる穴穂部間人皇女(アナホベノハシヒトノヒメミコ)です。
   
 用明天皇と異母妹の皇后 穴穂部間人皇女との間には、かの有名な聖徳太子である厩戸皇子(ウマヤドノミコ)や来目皇子(クメノミコ)・殖栗皇子(エクリノミコ)・茨田皇子(マンタノミコ)の4人の皇子が産まれています。
 この頃から皇后は天皇の娘である皇女が多く、すなわちかなり血の濃い結婚ですので、うまくいけば聖徳太子のような子供も産まれますが、病弱な子も多かったと思います。
    
 用明天皇の治世の間は、蘇我馬子と物部守屋との対立が激しかった時代ですが、用明天皇は初めて仏教を受け入れる意思を示しました。
 しかしながら、即位2年目に48歳で病死(暗殺説もあるようですが)しました。587年のことです。
     
 陵は最初は磐余池上陵(イワレノイケノエノミササギ)でしたが、後にここ河内磯長原陵(カワチシナガハラノミササギ)(大阪府太子町)に移されました。
ここは東西65ⅿ南北60ⅿの立派な方墳、春日向山古墳です。

    返事
花水木さん:写真隅の一輪挿しがなかなかのものらしいです。
    巣立つ前のひな鳥のまだ肢が曲がってる状態から、「すだち(巣立ち)」と言う銘。
     この子の額には3本皺があるので、まだ猿に近いですよ。

コメント (1)
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