島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

31-3用明天皇皇后穴穂部間人皇女

2018-05-19 | 天皇陵巡り
  
 前回書いたように、聖徳太子が祀られている磯長墓は、聖徳太子本人と太子の母である穴穂部間人皇女(アナホベノハシヒトノヒメミコ)と太子の妃膳部菩岐々美郎女(カシワデノホキキミノイラツメ)が埋葬され三骨一廟と呼ばれていますが、宮内庁の制札には太子の名前しかありません。
  
 第29代欽明天皇と蘇我稲目の娘 小姉君(オアネノキミ)との間に産まれた6人の子供の一人穴穂部間人皇女は、同母弟に叔父の馬子に殺された第32代崇峻天皇がいます。
また、第30代敏達天皇が亡くなった時殯宮(ヒンキュウ)に押し入って、その皇后である異母妹の炊屋姫(カシキヤヒメ)を犯すことによって次の天皇を狙ったが失敗し、叔父の蘇我馬子に後日殺された穴穂部(間人)皇子(アナホベノミコ)も同母弟ですし、この時一緒に殺された宅部皇子(ヤカベノミコ)も弟とも言われています。
   
 穴穂部間人皇女は異母兄の第31代用明天皇の皇后になって、聖徳太子他4人の息子を産んでますが、夫の用明天皇が亡くなった後は、夫用明の先妻であり自分の伯母でもある蘇我石木名(イシキナ)の息子、すなわち亡き夫の先妻の子(第1皇子です)田目皇子(タメノミコ)と結婚し佐富女王(サトミノヒメミコ)を産んでいます。
もっとややこしいことに、我子の聖徳太子と膳部菩岐々美郎女との子である長谷王(ハツセノオオキミ)(孫になります)が、自分の再婚して出来た娘佐富女王と結婚してるので、もうわけが判りません。
 故に、制札には単に推古天皇皇太子聖徳太子磯長墓としか書いていないこの廟には、用明天皇皇后穴穂部間人皇女磯長陵とも書かなくてはいけないはずです。
穴穂部間人皇女から見たら、自分の子(聖徳太子)と、その嫁でもあり自分の子(佐富女王)の姑でもある人(膳部菩岐々美郎女)と一緒の墓に入っているので、3人ともなかなか安らかには眠れてはいない気もします。
    
 京都府の北、丹後半島に間人(タイザ)という村があって(今はブランド蟹で有名)、京都の人は海水浴に泊りがけで行くところです。
ここに一度この穴穂部間人皇女は逃れていて、再び宮に戻る時に、自分の名間人(ハシヒト)を世話になったこの地に贈ったそうですが、村人たちはそれは畏れ多いと、皇后が退座(タイザ)したということで、間人をタイザと読むことにしたと言う伝説があります。

    返事
花水木さん:ブログ上の私は、
    読者が作り上げた架空の人物にならないように、
    なるべく失敗を書くようにしていきます。
     (何を言いたいのか判らない返事になってしまいました)

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする