
34-1舒明天皇押坂内陵(オサカノウチノミササギ)へあがる石段の右の道を行くと、29-3欽明天皇皇女大伴皇女押坂内墓(オサカノウチノハカ)までに、鏡女王(カガミノヒメミコ)押坂墓(忍阪墓)(オシサカボ)はありました。

こんもりとした墓は、大和の原風景と言われる「奥の谷」の中に、静かにたたずんでいました。
左にちらっと写ってる鳥居が、大伴皇女の押坂内墓です。

我が家から高速道経由で1時間ほどで行ける竜王アウトレット、そこに行った帰りにはよく寄る道の駅かがみの里は、源義経が元服した地としても有名ですが、鏡女王は滋賀県蒲生郡のこの辺りの豪族鏡王の娘と言われ、その妹でもっと有名な万葉歌人額田王(ヌカタノオウキミ)と共に、高級巫女として天皇家に仕えたと思われます。

天智天皇にも召されていたようですが、後に藤原鎌足がもらい受けて、鏡女王は鎌足の正妻となったようですが、その時にはもう身籠っていて、後々の藤原家に続く藤原不比等(フヒト)は天智天皇の御落胤説もあるようです。

一見宮内庁管理の墓のようにも見えますが、鏡女王のこの墓は藤原家と強い繋がりがあるため、制札に書かれているように、鎌足を祭神とする紅葉で有名な奈良の談山神社(ダンザンジンジャ)の管理になっています。

舒明天皇陵から鏡女王の墓に行くまでの道沿いに流れる小川の辺りに、鏡女王が読んだ万葉歌碑が可愛く置かれていました。
万葉集研究の第一人者である犬養孝先生の揮氓フ歌碑ですが、一時期犬養孝さんも時の人だったような気もしますね。
返事
花水木さん:歳をとったせいだとは思いますが、
若い時に感じてたバラ色の未来を夢見ることが
出来なくなっています。
そうです、私の子や孫が生きる世の中が、
今より良くなっていくことを祈るばかりですが・・・。
団塊世代の半分ぐらいがいなくなった頃に、
死ぬのを夢見てる私です。