前回のブログはお母さんの正子内親王、前々回のブログはお父さんの第53代淳和天皇、すなわち第50代桓武天皇の女孫と皇子にあたる両親から生まれたのが、今回の淳和天皇皇子恒貞親王(ツネサダシンノウ)(825~884)です。
前回の母親の正子内親王の円山陵墓参考地が北嵯峨高等学校のグランドの裏側、大覚寺寄りにあったのに比べて、恒貞親王の入道塚陵墓参考地(右京区嵯峨)は対角線上の北嵯峨高等学校正門横にあるということでした。
高校の石垣の塀の角がその入り口ですが、この奥に墓がありそうには思えませんし、正門前におられた高校の先生らしき人に尋ねて、やっと行きつくことが出来ました。
北嵯峨高等学校はこの親子の墓を避けるようにして建設されたようですね。
正式名は入道塚古墳です。
高校の石垣と田んぼの間に、その塚と言うか墓が見えてきました。
恒貞親王は従兄にあたる第54代仁明天皇の皇太子に立ちましたが、仁明天皇の女御になった藤原冬嗣の娘で良房の同母姉でもある藤原順子(フジワラノノブコ)が道康親王(ミチヤスシンノウ)(後の第55代文徳天皇)を産んだので、その地位は微妙なものになりました。
他戸親王・早良親王・伊予親王・高丘親王・恒世親王と、この50年ぐらいの間に、次期天皇の有力候補であった親王が、皇太子を廃されたり、殺されたり、潰されたりしているので、父の淳和上皇も恒貞親王本人も、たびたび皇太子の辞退を申し入れては、其の度毎に慰留されていました。
しかし最後は結局、淳和上皇・嵯峨上皇が次々と崩御するとすぐに、承和の変(842年)で廃太子されてしまいました。
藤原冬嗣と橘嘉智子の首謀した承和の変ですが、恒貞親王は命を取られることはなく、母正子内親王と共に間もなく出家し、恒寂入道親王(コウジャクニュウドウ)として写真の大覚寺を開創しています。
母正子内親王が亡くなって5年後の884年に60歳で亡くなったのですが、その直前第57代陽成天皇が退位する時には、次の天皇への即位要請の話があったようですが、意地もあったのかこれを拒絶して静かに亡くなられたようです。
返事
花水木さん:肉親はなかなか許してくれませんね。
年賀状は書き終わりましたが、
もうあと10日ほどでお正月ですね。
良いお年を!
来年も楽しいコメントお願いいたします。