島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

75-1崇徳天皇

2020-12-23 | 天皇陵巡り
 
 前回の木星土星大接近の写真にはコメントがなかったので、21日もっと接近したのを家の窓からカメラを三脚で固定して撮りました。
上の土星は、なんとなく土星らしく見えませんか。
 
 
 横道にそれましたが、今回も本題は天皇陵巡りです。
 第74代鳥羽天皇(1103~1156)(在位1107~1123)と皇后璋子(待賢門院)との間に産まれた、表向きは第1皇子の顕仁親王(アキヒトシンノウ)(実は曾祖父白河上皇の子?)は、白河上皇の意向に依ってわずか5歳で即位し第75代崇徳天皇(ストク)(1119~1164)(在位1123~1141)となりました。
  写真は四国八十八カ所第81番札所白峯寺(シロミネジ)で、境内には巡礼の人々も沢山見られました
 
 
 崇徳天皇は藤原忠通の長女聖子を中宮に迎えましたが、子は生れませんでした。
それで、父鳥羽上皇と得子の間の子で異母弟になる体仁親王(ナリヒト)(1139~1155)を養子に迎えていましたが、兵衛佐局(ヒョウエノスケノツボネ)の間には重仁親王(シゲヒト)(1140~1162)が産まれました。
  気持ちの良い石段を登って行くと、崇徳天皇白峯陵(シロミネノミササギ)(香川県坂出市青海町)です
 
 
 これに先立ち、1129年に白河上皇が崩御してからは、崇徳天皇はその後ろ盾を失い、父鳥羽上皇の意向により1141年に無理矢理譲位させられ、体仁親王が第75代近衛天皇として即位しました。
 この近衛天皇が17歳で亡くなると、望みをつないでいた我が子重仁親王ではなく、今度は同母弟の第77代後白河天皇が即位したので、院政をひく望みは絶たれてしまいました。
  香川県の山の上まで来て、又陵印を取りに大阪まで帰れと言うのも酷ですが、まあここまで参拝する人は、陵印はここではもらえないことは知ってるでしょうね
 
 白峯寺境内にも崇徳天皇御陵遥拝所が、写真のようにありましたが、御陵もすぐそこでした
 
 摂関家でも忠実(タダザネ)の息子忠通と頼長の兄弟同士の権力争いが激しくなり、1156年に父鳥羽上皇が死ぬとすぐに、崇徳と後白河の跡目争いも起こり、
 天皇方;後白河(弟)・関白忠通(兄)・平清盛(甥)・源義朝(兄) 対
 上皇方:崇徳(兄)・左大臣頼長(弟)・平忠正(叔父)・源為朝(弟)の
保元の乱が起こりました。
 
 崇徳はこれにあっさり敗れて讃岐に流され、この地で大乗経を書写して京都の寺院に納めようとしましたが、呪いが込められてると阻止されたので、無念のあまり天皇家を呪いながら亡くなりました(殺されたという説もあり)。
  瀬戸大橋が綺麗に見える展望台も近くにあります
 
 京都祇園の場外馬券売り場の裏と言うか歌舞練場の裏に、阿波内侍(アワノナイシ)が崇徳の遺髪もらい受けて塚を築き、その霊を慰めたという崇徳天皇御廟があります。
 
 明治天皇が京都から東京に出て行く時に、配流されて怨霊になったかもしれない崇徳天皇と淳仁天皇を祀った白峯神宮を建てて出て行ったぐらい、崇徳の霊は天皇家から恐れられていたようです。
 私はこの白峯神宮を見下ろす位置の病院で働いていましたが、今の所大丈夫です。
 
 崇徳天皇は百人一首にも一首載せていますが、落語にも「崇徳院」があって、
おちは;鏡が 「割れても末に買わんぞと思う」でした。

        返事
toitennさん:中トロ・雲丹・帆立・ヒラメの刺身が乗ってた後の皿です。
花水木さん:コッペは松葉ガニの雌でセイコガニとも言います。
    クモコはタラの精巣で、こちらでは家庭でも食べます。
     巷では感染者がまた増えてきていますが、
    もう一度クラスターにならないように、注意はしてます。

コメント (2)
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