島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

96-1後醍醐天皇

2021-08-19 | 天皇陵巡り
 
 止まない雨はない、終息しない感染症はないのですが、新型コロナは今だ出口が見えず、今朝出勤前は虹がかかってた京都も、昼前から又雨です。
 午前中で仕事も終わり、明日から又3連休ですが、パラリンピックは中止せずに始まりそうも、私の予定は全くなしで困ってます。
 ブログも天皇陵巡りぐらいしか書くこともないので、退屈でしょうがお付き合い願います。
 今回は誰でも知ってる有名な後醍醐天皇ですので、面白いですよ?
 
 大覚寺統の第91代後宇多天皇(1261~1324)の第2皇子で、母は五辻忠子(イツツジチュウシ)の尊治親王(タカハルシンノウ)は、異母兄第94代後二条天皇(1285~1308)の病死により、持明院統の第95代花園天皇(1297~1348)(在位1308~1318)に皇位が移った時に、後二条自身の息子邦良親王(クニヨシ)(1300~1326)が幼く病弱でも有った為に、花園天皇より年長でしたが尊治親王が皇太子になれました。
 
 その後、大覚寺統の長子として邦良親王を皇位につけるための中継ぎとしてですが、尊治親王は第96代後醍醐天皇(ゴダイゴ)(1288~1339)(在位1318~1339)として即位も出来ました。
 中宮藤原嬉子(キシ)・中宮ジュンシ(後伏見天皇皇女)・宮人阿野廉子(アノレンシ)など8人の妃に16人以上の皇子女をもうけています(20人の妃に32人の皇子女とも)。
この頃真言密教の一派立川流(タチカワリュウ)と言う、ややあやしげな宗教の広まりもあってか、宮中でも男女間は乱れていたようです。
  写真は、後醍醐天皇ゆかりの奈良県吉野の金峯山寺(キンプセンジ)の蔵王堂(国宝)です
 
 後醍醐天皇は政治に対して強い意志を持って臨み、1321年には父後宇多の院政を廃止して親政を望みました。
 しかしいかんせん、両統迭立時代の弟の弟である後醍醐の系統に皇位が廻ってくるはずもなく、なんとしてでもと望む心が、皇位を決定する鎌倉北条幕府への反感になり、討幕計画となりました。
  吉野にある写真の如意輪寺(ニョイリンジ)境内に、後醍醐天皇陵は有ります
 
 1324年の正中の変(ショウチュウノヘン)は未遂に終わり、1331年の元弘の乱では笠置山で挙兵しましたが、後醍醐は捕まって隠岐島に配流となり、幕府の指示で持明院統の(第97代)光厳天皇(1313~1364)(在位1331~1333)が即位しました。
  陵以外にも、如意輪寺境内には後醍醐天皇御霊殿もありましたが、内はどうなってるのか見れませんでした
 
 それでもめげない後醍醐は、1333年隠岐島を脱出し、裏切った足利尊氏などの協力で鎌倉幕府は滅び、光厳天皇は廃位されて、再び後醍醐天皇の治世になりました(建武新政)。
これは再び天皇になった重祚(チョウソ)なんですが、後醍醐天皇は光厳天皇の治世自体を否定し、ずっと後醍醐天皇の治世が続いていたことにしてしまい、明治になってからもこれが正しいという歴史観になっています。
 
 1335年から始まった建武の乱で足利尊氏とも袂を分け、その後は南北朝内乱の時代に突入、吉野に逃れた後醍醐天皇は、そのまま吉野の地で亡くなりました。
  御陵正面
 
 一般には南面を向いてる天皇陵ですが、この塔尾陵(トウノオノミササギ)(奈良県吉野郡吉野町如意輪寺内)は京都に帰りたい言う意味から、京都の方角の北面を向いてるそうです。
  前日に雨が降ったせいもあってか、山中にあるためか、後醍醐の恨みがこもってるのか、陵の周囲はなんか湿っぽいです。
 
 後醍醐天皇が立派な天皇だったのか、精力だけは有った暗君だったのか、評価は色々です。
私が子供の頃に田舎にあった戦前の本などから刷り込まれた、楠木正成などの忠君に囲まれた立派な後醍醐天皇、ではなかったようですね。

          返事
和さん:同級生の死はこたえますね。
    かと言って、同級生より自分が早く死ぬのも悲しいですね。
Toitenlabeeさん:50年以上前は賢かったんです。
    二十歳過ぎればただの人ですが、顔は綺麗なままです?
     ステイホームで送り火鑑賞できました、羨ましいでしょう。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする