第107代後陽成天皇(1571~1617)(在位1586~1611)は、第1皇子覚深入道親王ではなく自分の弟の八条宮智仁親王(トシヒト)を次期天皇に立てることを希望していましたが、徳川家康政権は豊臣政権色の薄い第3皇子、近衛前子(サキコ)(1575~1630)の産んだ政仁親王(コトヒトシンノウ)を推したので、しぶしぶではありますが、政仁親王が第108代後水尾天皇(ゴミズノオ)(1596~1680)(在位1611~1629)となりました。
それ故、父後陽成が死ぬまで、後陽成と後水尾親子の仲は良くなかったようです。
月輪陵制札2番目に後水尾天皇の名がありますが、一番目は江戸時代のずっと前の第87代四条天皇です。これはたぶん四条の父第86代後堀河天皇の陵が近くにあるからだと思います。
成立初期の徳川幕府は、朝幕関係に神経を使っていましたが、それは朝廷に対して優位に立つ方向に力点が置かれ、1615年には「禁中並びに公卿諸法度」が発令されています。
月輪陵は大きく、ここより中には入れません。
また幕府は、第1皇子が生まれていた後水尾天皇の後宮に、これを排斥してまで、家康の孫になる徳川和子(マサコ)(1607~1678)を1620年に入内させました、気乗りしなかった水尾天皇ですが、和子との間に2男5女をもうけています。
女の人を好きで元気だったんでしょうね、他にもたくさんの妃達に、20歳前から60歳近くまでにわたって、後水尾天皇は34人の皇子女を産ませています。
正面の門には金の菊の御紋が輝いています。
徳の高い僧侶に紫の法衣(ホウエ)着用の勅許(チョッキョ)を、徳川幕府が一方的に無効にした紫衣事件(シエ)(1627年)が起こり、最後には沢庵などが出羽などに配流(ハイル)になったので、怒った後水尾天皇は幕府の了承を得ずに譲位、女帝ですが家康の孫にあたる第109代明正天皇が即位しました。
以後水尾上皇は、この第2皇女明正・第4皇子後光明・第8皇子後西・第19皇子霊元と我が子4人の天皇にわたって院政を敷きました。
兄弟姉妹2人や3人が天皇になったことはありますが、兄弟姉妹4人が天皇になったのは、千年以上昔の敏達・用明・崇峻・推古以来2度目です。
写真の月輪陵の手水鉢も、屋根付きの立派なものでした。
300年以上後に昭和天皇に抜かれるまでは、明確な記録が残る歴代天皇中最高齢の85歳まで生きた後水尾上皇は、50年以上の上皇生活で仏教特に禅宗へ没頭したり、芸術面でも和歌を千首以上作ったりしたそうです。
江戸幕府もこの上皇の為に(嫁入り先でもあるので)、比叡山の西南に修学院離宮を造設しています。
私は修学院離宮も行ったことないので、その南にある後水尾天皇所縁の谷の御所霊鑑寺(レイカンジ)の写真をあげておきます。
月輪陵(ツキノワノミササギ)(東山区今熊野泉山)に葬られていますが、写真は相国寺内にある後水尾天皇髪歯塚です。
お誕生日おめでとうございます。
今年は祇園祭も有るとのこ有りますように有りますように <m(__)m>
今年も奥様と二人で、楽しい1年になりますように。
一昨日このブログ見たのですが、内容や読みが難しく、どうコメントしていいのか悩んでいたら、今日になってしまいました。
暑くて脳が停滞気味です。
今は、びっくりするようなニュース中、、、。
昔々、誕生祝を貰った気もしてますが?
日本がフランスに惜敗、びっくりするようなニュース2.が消えてしまいました。